「欠け札」

 私が住んでいる木造アパートは、最寄り駅から坂を上った先の、古い給水塔の陰にへばりつくように建っている。二階建てで部屋数は八つ。春先に越してきたとき、玄関脇の集合ポストの上に掲げられた物々しいアルミのプレートに、旧仮名遣いで「住人名簿」と彫ってあるのを見て、ずいぶん古風だなと思った。

 けれど最初に違和感を覚えたのは、そこに並んだ名札の端が一枚、妙に欠けていることだった。白いプラスチックの札の左下が三角に削がれ、苗字の一画がちょうど欠け落ちたみたいに見える。印字はない。誰の名も記されていないのに、札はちゃんとピンで留められていて、列はその欠け札を含めて八枚でぴたりと埋まっていた。


 管理人の老人は、初日に鍵を渡してくれたとき、あのプレートの前で私に説明した。

「引っ越し挨拶のときはここに名を書いてね。避難訓練のときは、名札をひっくり返して“不在”にするのが決まり」

「欠けてる札は?」

「あぁ、あれは……予備みたいなものだよ」

 老人は言葉を濁し、つばの広いキャップの下で目を細めた。

「この建物、昔は下宿屋でね。名札の枚数は部屋の数と揃ってないと落ち着かないんだ。ひと部屋にひとつ、ね」


 私の部屋は二階の二〇二号。隣の二〇三号はいつからか空き家で、昼も夜も窓は閉ざされている。カーテンの隙間に埃が積もっているから、少なくとも一年やそこらではないはずだ。部屋の前のドアポストは封がされ、テープの上から「投函不可」と油性ペンで書いてある。

 なのに、集合ポストの中には時々、二〇三宛の郵便物が紛れ込む。差出人のところに会社名があり、宛先のところは番地と部屋番号だけ。名は書かれていない。注意して見ていると、名の欄が空白のままの封筒は、たいてい二〇三の仕切り板に差さっている。

 最初は誤配かと思い、管理人に渡した。老人は受け取って一度だけ封筒の角で机をとんとん叩き、それからポストの上の欠け札の前に置いた。

「名がないやつは、ここに預かっておく。持ち主が取りに来るから」

「でも二〇三、空き部屋ですよね」

「そうだねぇ。空いてるのに、郵便は来る。不思議だねぇ」

 冗談めかした言い方だったが、笑ってはいなかった。


 夜、台所で湯を沸かしていると、隣の二〇三の壁越しに、たまに水の音がする。

 最初は気のせいだろうと思った。だが耳を澄ますと、確かに、蛇口をひねる音、やや遅れて古い管の唸り、金属の流し台に水が落ちる乾いた響き――それが短く続いて、ぴたりとやむ。

 廊下に出て覗いても、ドアには封がされたままだ。鍵穴は黒く、覗き穴には蜘蛛の巣が張っている。

 私は湯のみを握る手の力を強めた。湯気が顔に当たり、一瞬の白さの向こう、ドアポストのテープがほんのわずかに、呼吸のように膨らんでは戻るのが見えた。寒暖差のせいだと言い訳するには、あまりにも律動的だった。


 六月に入って町内会の避難訓練があった。アパートの前の駐車場に住人が集められ、管理人が点呼をとる。「名を呼ばれたら返事」の単純なやり方だ。

 老人は古い板の表面にクリップで名札を挟んだ「避難板」を抱えて現れた。白い札に黒いゴシック体で印字された苗字が、縦に八枚。並びは部屋番号順だ。二〇一から二〇八。二〇三のところだけ、例の欠け札が差さっている。何度見ても、そこだけ落ち着かない。

「二〇一!」

「はい!」

「二〇二!」

「はい」

 私が名乗ると、老人は私の札を裏返し、赤い面を見せる。「避難済」の印だ。

 そして、欠け札のところに指が来た。

 老人はそこを通り過ぎ、二〇四を呼んだ。

 戻ってくるのかと思っていたが、最後まで呼ばれることはなかった。

 解散のあと、私は勇気を出して尋ねた。

「二〇三……呼ばないんですか?」

「呼んでも、返事はないからね」

「空き部屋だから?」

 老人は首を横に振った。

「空きだから呼ばないんじゃない。呼ばないから空いているんだよ」

 言われてみれば意味の通るようで、しかし理解はできなかった。私は曖昧に笑ってその場を離れたが、背を向けるとき、老人の指先が欠け札をそっと撫でたのを見た。まるで縫い傷の上を慰めるみたいに。


 七月のある晩、帰宅すると玄関に黒いビニール袋が置いてあった。中には書類の束と、古いキーホルダー、木でできた札が数枚。輪ゴムでまとめられていて、手書きのメモに「資源回収へ」とある。管理人が出したのだろう。私はつい癖で袋を開け、木札を一枚手に取った。

 薄い木の板に、墨で名字が書かれている。どれも古い字だ。紙に比べて木は呼吸するせいか、墨の線が筋を辿って柔らかく毛羽立っている。

 一枚、角が欠け落ちたものがあった。そこだけ名が途中で途切れて、最後の一画が書ききれずに空へほどけている。私はその札をまじまじと眺め、表と裏を返した。裏には薄く、鉛筆で数字が書きこまれている。「二〇三」。

 はっとして顔を上げると、廊下の突き当たりの窓に夜が貼りついていた。ガラスに映った自分の顔の横に、誰かが立っている気配がして、思わず木札を握り締める。

 翌朝、袋は消えていた。資源回収の日ではなかったが、誰かが持っていったのだろう。私の手のひらには木の粉がうっすら残り、欠け札はいつのまにか私の部屋の机の上にあった。置いた覚えはない。だが捨てようとすると、どうしてか躊躇が生じた。名の途切れた線が、紙で切った指のようにじくじくと気にかかる。


 それから、私は二〇三に関わる小さな異変を集めるようになった。

 洗濯機の共同スペースには洗濯かごに挟むためのクリップがあり、誰の物かわかるように名を書いたマスキングテープを貼るのが習わしだ。ある朝、私のクリップのテープが剥がれかけていて、名前の最初の一文字だけが残り、以下が破れて消えていた。思わず見回すと、隣の棚の隅に、剥がれ落ちたテープの細片が張りついている。拾い上げると、そこには残りの文字が反転して薄く移っていた。

 元のクリップに貼り直そうとしたが、どうにも位置が合わない。何度か試すうち、指先から汗が滲み、テープがくちゃりと折れてしまった。私はため息をつき、新しいテープに名前を書いた。書き終えた瞬間、背後でコトンと乾いた音がした。棚から欠け札が落ちたのだと思いかけて、洗濯機の脇を見ると、何もない。代わりに、誰かのクリップがひとつ、床に転がっていた。名を書いていない、真新しい白いクリップ――二〇三のものだと、なぜか直感で分かった。


 深夜、眠りが浅いときには、二〇三のドアの前に立つ足音がする。上り下りする気配はない。踵の硬い靴が、古い床板の目地を踏むときに鳴る、あの控えめな音。長居はしない。ただ、玄関前で止まる。それが何を待っているのか、何を求めているのか、想像しようとするたびに胸がぎゅっと縮む。

 ある晩、耳元で小さな音がした。「コチ、コチ」という、プラスチックの爪をつまむ音。名札のクリップが、板の上で場所を移るときの音に似ていた。目を開けると、枕元の机の上に、あの木の欠け札が立てかけられている。誰が置いたのか。どうやって入ったのか。

 怖い、という感情よりも先に、私はそれを手に取り、鉛筆を握った。欠け落ちた最後の一画を、続けてしまいたかった。なぜか、続けなければならない気がした。

 だが鉛筆の先が木に触れた瞬間、私は強く首を振った。書いたら、戻れない、と直感が引きずった。鉛筆は指から滑り、床に転がって消えた。


 八月の最初の土曜、二度目の避難訓練が行われた。暑い日で、駐車場のアスファルトは陽炎を吐き、住人たちは半ば面倒そうに列を作っていた。

 管理人はいつもの避難板を抱え、不機嫌そうに汗を拭っている。

「今日は特別に、名札を各自持って部屋を出て、ここで差し込むこと。どこに出したか記憶に残るように」

 列がざわつく。老人は理由を言わなかった。

 私の番が来て、名札を差し込む。白い札を板の溝に押し込むと、背後でふっと空気が動いた気がした。日が雲に隠れたのかと思ったが、空はどこまでも青い。振り返ると、二〇三の列に欠け札が入っていない。

 管理人が眉をひそめ、ポケットから例の欠け札を取り出した。

 そして、私のほうをちらりと見る。

「悪いけど、二〇三に、これを差してきてくれるか。俺がやると、どうも入らんのだ」

「入らない?」

「うまくはまらないんだよ。板の溝が欠けててな」

 言われるまま受け取ると、木札は掌にすっぽり収まった。木目の中に古い手の温みが残っている気がする。

 私は二階に上がった。廊下は昼なのに薄暗く、階段を上がる足音が自分のものではないみたいだった。二〇三のドアの前に立つ。

 封のテープは剥がれている。

 誰が? いつ?

 考えるより先に、ドアが音もなく開いた。中は暗く、風が通る気配がない。

「すみません、避難訓練で……名札を……」

 声が自分の口から出たことに驚いた。私は木札を胸の前に持ち上げ、敷居をまたいだ。


 部屋は、空だった。家具もカーテンもない。畳は新しくないが、踏めば沈むような柔らかさはある。奥の壁にだけ、古い壁紙が四角に色を変えて残っている。そこに、昔掲げられていたものの跡が浮き出ていた。四隅の画びょう穴、中央上に細かな傷。ちょうど、避難板のようなものがかかっていたのだろう。

 私は木札を持ち替え、壁の跡に合わせてみた。掌の中で、札が微かに湿る。汗ではない。木が、息をしている。

 畳の上に、何か落ちていた。透明なピン。名札を留めるための、小さなプラスチックの押しピンだ。拾い上げようとしゃがんだ瞬間、後ろでドアが閉まった。

 音は静かだったが、胸の中で何かが確かに切り替わった。私は振り返らなかった。振り返ると、そこにいるものの輪郭を見てしまう気がした。

 代わりに、正面の壁に目を向けた。四角の跡の中心に、鉛筆で何かが書かれている。薄い、かすれた字。畳に膝をついて覗き込む。

 私の名字だった。

 正確に言えば、私の名字の最初の二文字。最後の一文字は、半分だけ。欠け札の、それと似ている。最後の一画が途中で途切れ、空へほどけている。

 喉が乾いて、唇がひび割れた。いつ書かれたのか。誰が。私の名を、ここで。

 背中で、ドアの向こうの廊下に、もう一つの靴音が立った。先ほどまでの誰でもない足音。踵の硬い、控えめな足音。玄関の前で止まり、やがてドアに額を預けるみたいに、静かに、空気が擦れる。


 私は立ち上がり、木札を壁に当てた。跡の中心に掲げると、そこにぴたりとはまる気がした。押しピンを指で押すと、畳に座った姿勢のまま、不思議と高さが足りた。壁が、低くなる。部屋が、近づく。

 押しピンが木に食い込み、指先に木の繊維が軋む感触が伝わる。

 そのとき、耳もとで囁きがした。声というよりも、紙の端が捲れる音。

 ――貸して。

 名を、貸して、というのだと分かった。

 私は首を横に振った。喉は動かず、声も出ない。それでも首だけは、固く左右に振れた。

 囁きは、少し遠ざかった。

 ――じゃあ、欠けたところだけ。

 最後の一画だけ。

 そこだけ書いて、と。

 私は、背中でドアの呼吸を感じながら、壁の鉛筆の痕を見つめた。未完成の一文字は、書き足すのを待つかのように、そこに留まっている。

 私は木札を外し、裏返した。鉛筆で書かれている「二〇三」の数字が、汗に濡れてにじむ。私はその上から、同じ筆圧で、私の部屋番号を書いた。「二〇二」。

 数字が重なり、黒が濃くなった。

 木が、少しだけ軽くなる。

 私はその札を、壁の跡の少し下――ちょうど、昔の避難板の掛かっていた位置から外れて――に押し当て、ピンで留めた。

 札は斜めになって、欠けた角が下を向いた。その瞬間、部屋の空気がふっと緩んだ。

 背中の向こうの足音が、一歩、離れた。

 私はすぐに立ち上がり、ドアのノブに手をかけた。今度は抵抗もなく開いた。廊下に出る。昼の光が斜めに差し、埃の粒が金色に舞っていた。

 振り返ると、二〇三の中はもう見えなかった。ただ、ドアの蝶番の金具が日を反射して、一瞬だけ白く光った。


 階段を降りると、管理人が避難板の前で汗を拭きながら待っていた。

「どうだった?」

「刺してきました」

 私は自分でも驚くほど穏やかな声で答えた。老人は頷き、避難板を見た。

 二〇三の位置には――欠け札はない。

 代わりに、二〇二の列に同じ形の欠け札が差さっていた。白い札に、ゴシック体で私の名字。最後の一文字だけ、印字のトナーが薄く、かすれている。

 私は息を呑み、老人を見た。老人は避難板を見下ろし、ゆっくりとサングラス越しに眉を上げた。

「おや。間違えたかな」

 私は即座に首を振った。

「これでいいと思います」

 口に出してから、何を言っているのか自分でも分からなくなった。

 老人は少しの間黙り、やがてうん、とだけ言った。

「板は、時々、勝手に入れ替わる。名札もね。気にしないのが一番だ」

 それから小声で、私だけに聞こえるように付け足した。

「名前の最後は、しっかり書いておくといい。最後がほどけてると、どこにでも引っかかる」


 その晩、私は部屋に戻るなり、郵便受けの名前シールを新しく書き直した。字の最後の一画まで、はっきり強く、紙が少し凹むくらいに。

 シールを貼り直していると、廊下から足音が過ぎた。二〇三の前で止まり、すぐにまた、階段を下りていく。

 ドアに耳をつけると、二〇三の中は静かだった。水の音はしない。

 机の上の木札はない。あの部屋に置いてきたから当然なのだが、机の表面に小さな丸い跡がいくつも残っているのに気づいた。押しピンの頭の跡のような、微妙な凹み。そこに日が当たり、粒のように光っていた。


 翌朝、集合ポストの上のアルミのプレートを見上げると、「住人名簿」の彫り文字の一画が、薄く擦れたように見えた。名の字の最後の横画。私は思わず指でなぞった。ざらりとした感触。擦れているのではない。浅く、そこだけ彫りが足りないのだ。

 管理人室の前を通ると、老人が扇風機の前で新聞を読んでいた。

「プレート、彫りが浅いですね」

「そうかい?」

 老人は新聞の紙面から目を上げず、口角だけで笑った。

「浅いところは、風で鳴る。見てると、削りたくなるが、手を出すとよけい鳴る。放っとくに限る」

 何を言っているのか分からず、私は曖昧に頷いて通り過ぎた。

 その背中に、老人がぽつりと付け足した。

「二〇三、しばらく静かだろう。ありがとうね」


 その言葉通り、しばらく二〇三は静かだった。水の音もしないし、足音も止まった。郵便も、宛名のない封筒は届かなくなった。

 ただひとつ、変わったことがある。

 洗濯機のクリップの名テープが、剥がれなくなった。湿気でよれたり、端がめくれたりすることはもうない。テープの角は、板に吸い込まれたみたいにぴたりと寝て、少しの力では剥がれない。その代わり、別のものがよく落ちるようになった。廊下の電球のカバー、台所の換気扇のパネル、郵便受けの小さな蝶番。どれも、「最後に留めるための何か」が緩む。

 名の最後を強く書いた代わりに、別の場所の「最後」がずれていく。そんな馬鹿な、と思いながらも、私はねじ回しを持ち歩くようになった。暮らしの端々を締め直して回るのは、想像以上に骨が折れた。


 秋が来て、私は転職のために引っ越すことになった。荷造りの最中、机の引き出しの奥から、薄い紙片が出てきた。避難訓練のときに配られた、名札のサイズを確認するための台紙だ。白い紙の角が一つ、三角に折れて欠けている。その欠けに沿って、鉛筆の線が途中で止まっている。

 私は紙片を手に、ふと二〇三の前に立った。ドアポストの封は戻されている。テープは新しく、字も書き直され、「投函不可」の最後の「可」だけ、ほんの少し薄い。

 耳を近づけても、何の音もしない。

 私は紙片をポストの上に置き、踵を返した。

 階段を降りると、管理人が下から上がってくるところだった。

「引っ越しかい」

「今日、最後です」

「そうか。忘れ物のないようにね」

 老人はそう言って、それから少し間を置いた。

「君の名札、持っていく?」

 冗談を言うみたいに口角を上げて、避難板のほうを顎で示す。

「記念に」

「いえ、結構です」

 私は笑った。

「ここにあるほうが、たぶん落ち着くので」

 老人は満足げにうなずいた。「そうだね」

 玄関を出ようとすると、彼は呼び止めた。

「最後の画は、ほんの少しだけ弱くてもいい。ぜんぶ強くすると、糸が切れる。覚えておいて」

 私は返事をし、外に出た。給水塔の陰の風が、夏とは違う匂いを運んでいた。


 新しい部屋に移ってしばらく、近所の金物屋に行った。洗濯クリップを買うついでに、名札用の小さな板とピンが目に入った。

 棚の一角に「名札クリップ(欠け)在庫処分」と手書きの札が出ている。欠け、という言葉に、思わず手が伸びた。ビニール袋に入った白いプラスチックの札。角が一つ、三角に削がれている。

 袋の表にサンプルとして印字された名字は、知らない誰かのものだった。

 くるりと裏返すと、曇ったビニールの向こうに、うっすら鉛筆の線が透けている。

 私の名字の、最初の二文字。

 私は袋を元に戻した。

 棚の下で、金属トレーがカタリと鳴った。風はない。客は私ひとり。

 それでも私は急に用事を思い出したふりをして、何も買わずに店を出た。

 ドアの鈴が鳴る前、背中のどこかで、薄い紙が一枚、静かに捲れたような気がした。


(了)

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