「無灯の宿」

 峠の旧道がトンネルに置き換えられてから、通る車はぱたりと絶えた。

 地図にもほとんど載らない枝道の突き当たりに、板張り二階の小さな宿がある。屋号は「無灯」。その名の通り、日が落ちれば看板の白いペンキさえ夜の底に沈んで、灯りは見えない。


 祖母が一人で切り盛りしていたが、二年前に倒れてからは休業状態だった。都会での勤めがつまずいた私は、片付けを名目に春からここに入り込み、泊まる客がない日々にも、囲炉裏の灰を攫い、縁側の苔を削り、古い布団を日向に積んで干した。

 祖母の部屋の箪笥の一番下の引き出しに、黒ずんだ布に包まれた帳面があった。和紙の表紙に、墨で「宿帳」とある。昭和の時分の名前がずらりと並び、旅人の筆跡は時代ごとの癖を誇っている。祖母の丸い字で住所や人数、泊の数が添えられていた。


 私は最初、それを古い遺物としか見なかった。だがある晩、湯を落として勝手口の鍵を掛けようとして、帳面が卓に開きっぱなしになっているのに気づいた。閉じようとした指がふと止まる。紙の白さの上に、鉛筆のように薄い筆圧で、新しい行が浮き上がって見えたのだ。


 ――六号室 二人 到着 未刻(ひつじのこく)前


 そこだけ他と違う。住所も名もない。時間だけが、古風な刻で記されている。

 私は半ば冗談のつもりで、六号室に布団を敷いて湯呑を二つ置き、湯を保温に戻した。


 誰も来なかった。

 だが夜半、廊下の板が二度だけきい、と鳴るのを聞いた。戸は開かない。風も入らない。六号室の取っ手に触れると、金属は人の掌の温度になっていた。


 それから帳面のページは、日が暮れるとたびたび「薄い行」で満ちるようになった。

 ある夜は「四号室 一人 亥刻過ぎ」。別の夜は「二号室 三人 牛刻」。宿の番号は、祖母が使っていた部屋割りの通りだ。私はそのたび、指示通りの部屋に布団と湯とおしぼりを用意した。


 足音以外の気配はなかった。

 布団は朝冷えていて、湯呑の縁には唇の跡も残らない。けれど、支度を怠ると奇妙なことが起きた。

 七号室の用意をさぼった晩、窓の外の杉が一斉にざわめき、板戸の隙間から冷気が這いこんだ。翌朝、座敷の畳に淡い輪染みが二つ浮き、そこだけ草の匂いが新しかった。

 私はそれ以降、欠かさず支度をした。どれだけ虚しくても、ひとたび身体が覚えた所作は、筋が一本通るように楽になっていくものだ。湯を注ぐ音、湯気の揺れ、座布団の埃が夜気を吸って重くなる感触――それらが日課になった。


 電気代は嵩む。赤字だ。それでも私は、帰る場所のようにこの宿を扱い続けた。誰も泊まらない宿で、泊まるはずのない客のために支度をする。愚かだと思う余裕は、やがてなくなった。


 初めて玄関が実際に鳴ったのは、長雨の切れ間の夕方だった。

 「すみません」

 木戸を開けて入ってきたのは、山靴に泥をつけた若い女だった。髪は首の後ろでまとめ、頬は冷えで赤い。

「一泊、できますか」

 声は疲れているが、目は落ち着いている。


 私は反射で頷いた。帳面を開き、今日の日付の欄に目を落とす。そこには、やはり薄い筆圧で「三号室 一人 酉刻」とある。私は三号室に案内し、湯と焚きものを少し多めに用意した。

 女は夕餉に味噌汁を二杯飲み、風呂から上がるとふらりと座敷に戻って布団にもぐった。私は廊下で、戸の内側の気配が沈むのを待ち、囲炉裏の火を弱めた。


 真夜中、ふと物音で目が覚めた。

 廊下の端、三号室の前で、誰かが戸に額をつけている。長い息が、木に湿りを与えている。私は立ち上がりかけて、足を止めた。戸の向こうの女の寝息が、ひどく静かだからだ。

 朝、女は何事もなかったように支度を整え、宿代を置いて出ていった。帳面のその行には、出立の刻が追加されていた。薄い筆圧の文字ではなく、祖母の字に似た丸い書体で。書いた覚えはない。


 女は門を出るとき、ふと振り返った。

「ここ、名前はなんて読むんですか」

「むとう、です」

「そう。……火のない夜の名前」

 そう言って、笑った。私は返す笑顔を持たないでいた。


 雨の夜に、古い傘を差した男が現れた。山背の風が強く、彼の外套は濡れて重い。

「泊まれますか」

 暗い目だが、礼儀正しい口ぶりだった。私は頷き、帳面を差し出した。男はしばらく紙を見つめ、筆を取らずに首を横に振った。

「書けません。ここでは」

「でしたらこちらで――」

「結構です。部屋だけ貸してください。書かれるのは、そちらの役目ですから」


 奇妙だったが、私は九号室に案内した。

 夜更け、私は帳面の前に座り、男の席を探した。紙にわずかな凹みがあり、そこに「九号室 一人 子刻」と浮かぶ。文字の癖は私のものではない。

 翌朝、男はいなくなっていた。布団は温く、湯呑の水面に薄い輪が残る。帳面は勝手口の棚に立てかけられており、昨日の行の下に小さな文字で「礼」と一字だけ加えられていた。


 誰が書くのか分からない行が毎晩増え、私はそれに従って支度をした。

 ある晩、意地になって、帳面が告げた部屋と違う部屋に布団を敷いて湯を置いてみた。

 結果は、すぐに来た。

 深夜、柱時計が一度だけ狂ったように重い音を鳴らし、廊下の端で濡れた足音が立った。私の置いた布団の部屋の戸は一度も揺れず、指定の部屋の戸だけが、内からそっと引かれた。


 私は次から逆らわなかった。


 秋の終わり、雨が三日三晩続いた。峠の土は水を飲みすぎ、旧道の石垣はところどころ黒く濡れた舌を出すように崩れた。トンネルへ通じる国道は無事らしいが、ここへ上がる枝道は朝から通行止めだという。

 昼過ぎ、帳面の白が騒がしくなった。薄い行が、ページの下から上へと、滲み上がるように増えていく。

 ――一号室 二人 申刻

 ――四号室 五人 酉刻

 ――八号室 一人 不定

 行の末尾に、見慣れぬ印が押されている。黒い小さな丸。


 私は湯を二つの竈で沸かし、布団をありったけ干して戻し、茶櫃の盆を拭いた。玄関に上がり框を置き直し、傘立てを掃除して古い番号札を紐で結び直した。

 誰も来ない。

 夜が濃くなり、風が座敷を縫う。屋根を打つ雨の音の合間に、遠くで土の崩れる鈍い息がした。


 真夜中、廊下が同時に鳴った。

 あちこちの戸が、ごく浅く開く。紙障子が湿り、音は小さい。私は囲炉裏端を離れ、廊下の奥へと耳を澄ませた。

 人の気配が、あった。歩くというより、肩を寄せ合って立ち止まる影の重み。声はない。ただ、在る。

 私は板に手を突き、頭を下げる。招く所作が、自然に出た。


 明け方、雨は止んだ。

 庭に、泥の足跡がひらひらと散っていた。女性もの、子供のもの、片足だけ深い跡。廊下の簀の子の間には、松葉が濡れて光る。

 帳面のその晩のページは、すべての行の末尾に、さきほどの黒い小丸印が重ねて押され、その上から薄い横線が引かれていた。

 私は筆を取り、何も書けなかった。


 昼、役場から軽トラックが上がってきた。

「この先の谷で、夜のうちに林業の送迎車が滑ったらしい」

 運転手は言い、見開いた目で庭の泥跡を見た。

「避難、受け入れてたのか」

 私は首を振った。ただ湯を沸かした、とだけ言った。


 夕方のニュースで、谷の名と乗っていた人数、亡くなった人の数が読み上げられた。数字は、帳面の行数と合っていた。


 帳面の初めのほうに、祖母の若い字で数ページ分の記録が続く箇所があった。墨はまだ黒い。宿が繁盛していた頃のものだろう。

 その隣のページに、紙が一枚貼り付けてあるのに気づいた。糊は古く、角が剥がれかけている。そっと捲ると、下から鉛筆の細い行が現れた。


 ――六号室 一人 寅刻前 名 (不記)


 名、の横に、括弧に囲われた空白。ほかの行には町名や人名があるのに、そこだけ何も書かれていない。

 祖母はこれを隠したのだろうか。私は指で糊の乾きを感じながら、剥いだ紙を元へ戻した。


 夜、囲炉裏で湯を割っていると、背に気配が立った。

「閉めるのかい」

 祖母が生前よく座っていた位置から風が来た。火は小さく、灰が小さく呼吸する。

「どうかな。客は来ない」

「来ないさ。来るのは、堺だけだよ」

「堺?」

「向こうとこっちの。あんたは今、ちょうど真ん中にいる」

 振り向くと誰もいない。

 火箸の先で炭を返すと、赤い面が一つ、じっとこちらを見たように思えた。


 冬の前、町の不動産屋が上がってきた。

「この場所にしては、悪くない話ですよ。別荘地として開く計画があってね」

 彼は見取り図を広げ、指で玄関から座敷、二階の縁までを滑らせた。

「水回りを一新して、ついでに屋号も今風に。『峠の灯(ひ)』なんてどうでしょう」


 私は返事を曖昧にした。

 その夜、帳面の白は真っさらのまま、何も浮かばなかった。囲炉裏の火がやけに早く痩せ、板の間は乾いて冷たい。寝床に入っても、宿の空気がやたらと空虚で、音という音がすべて遠のいている。


 三日目の夜、ページの一番下に、鉛筆の極細の線が一本だけ引かれているのに気づいた。文字ではない。ただの線。私は筆を持ち、しばらく迷った。

 やがて、線の端に小さく、今日の日付を書いた。

 その瞬間、線はするりとほどけて、そこに「十号室 一人 丑刻」という行が現れた。部屋番号は、存在しないはずの十号。

 私は居間を見回した。九つしかない。

 だが、廊下の突き当たり、物置にしていたような一間が、いつの間にか掃き清められている。畳は新しくないが、埃がない。押し入れの戸が軽い。

 私はそこに灯を入れ、湯と布団を置いた。


 夜中、裏庭で雪が鳴り、誰かの足音が敷居を跨いだ。

 翌朝、十号室の布団は浅く温かった。帳面のその行には、小さな丸い印がなく、代わりに、端に祖母の字で「ここは一夜限り」とあった。


 不動産屋には断りを入れた。電話口で彼は不満を隠しきれず、「いまどき名前に『無』なんて」と言いかけて飲み込んだ。

 私は笑わなかった。


 冬は厳しかったが、雪の夜ほど帳面はよく働いた。

 ある晩は、遠方の救急の通り抜けに失敗した車の気配が、別の晩は、道を見失った猟師の重い沈黙が、部屋ごとにきちんと割り振られた。

 彼らの名は、書かれない。住所も、ない。ただ、部屋と数と時だけがある。

 私はそれで十分だと思った。湯の温度と布団の厚みを合わせられるなら、名は要らない。名を呼ばずとも、客は来て、去る。


 春先、山の雪が薄くなった頃、帳面の末尾に一度だけ、見慣れない字が現れた。薄く、控えめで、しかしどこか私の癖に似ている。


 ――二号室 一人 未明 ( )


 括弧の中は空。祖母が隠したページと同じ空白。

 私は筆を持った。書くべきなのか、書かざるべきなのか分からない。

 囲炉裏の火が乾いた音を立てた。

 私は、括弧の中に何も書かず、代わりにその右に小さく「支度済」とだけ記した。


 夜のうち、二号室の戸が一度だけ、ごく浅く揺れた。

 朝、布団は冷たいままだった。

 帳面の括弧は、まだ空だ。


 春が深くなるにつれ、帳面の薄い行は少なくなった。山の道も乾き、トンネルの向こうの町は忙しげに明るいらしい。

 私は日中、畑を起こし、裏の沢でざるを洗い、夕方には玄関の煤けた硝子を拭いた。名札を掛けるような場所はない。電話の横のメモ紙にも、届く荷に貼られた送り状にも、私の名前は必要とされない。

 それでも、夜になれば帳面の前に座る癖が抜けない。膝にかけた毛布の上に指を組み、ページをめくる。

 ある晩、紙の目を透かして、うっすらと私の名字の最初の一文字が見えた気がした。錯覚だろう。目を凝らすと消えた。

 囲炉裏の縁で祖母が使っていた火箸を握り、私は小さく息をついた。


 山の暮らしは単純だ。来るものの支度をし、来ない晩も支度をする。

 名を呼ばないかわりに、湯の湯気を呼び、布団の綿を呼ぶ。

 そうして、灯りの見えない宿で、私は火を守る。


 最後に一度だけ、帳面は私の筆圧を欲した。

 白い紙の下から細い線が立ち、私はそこに短く日付を書いた。

 行は現れない。ただ、紙の端がわずかに丸まった。

 私は筆を置き、ページを閉じた。


 もし、峠の夜道で、灯りの見えない宿の前を通ることがあれば、風の向きに耳を澄ましてほしい。

 湯の音が聞こえるなら、その夜は誰かの支度が要る。名は要らない。

 名は、火と似ている。あるのに、あえて呼ばないときにだけ、役目を果たす。



(了)

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