怪異蒐集録-「な」

@momo_mom0

「呼び名」

 人の世において「名」というものは、ただの符号ではない。

 それは生まれた瞬間から人に刻まれる印であり、存在をこの世界に定着させる楔でもある。呼ぶために、区別するために、そして時に縛るために――。


 そのことを私は、ある冬の夜、恐ろしいほど鮮やかに思い知らされた。


 その頃、私は都内の古書店でアルバイトをしていた。日当は安く、冬場は底冷えが骨に沁みるほどの店だったが、大学の授業の合間に働くには都合がよかった。

 ある晩、閉店作業を終えた私は、人気のない裏路地を抜けて最寄り駅へ向かっていた。夜は深く、空気は凍りつくように冷たい。通りの街灯が一つ切れていて、その下だけが闇に沈んでいた。


 その時だ。

 背後から、ふいに私の名を呼ぶ声がした。


 ――「……田嶋。」


 小さく、しかしはっきりと耳に届いた。

 振り返っても誰もいない。凍える風が吹き抜けただけだった。


 私は周囲を見回した。人気はなく、薄暗い路地に自分の影が一つ伸びているだけだった。だが確かに声はあった。私の苗字を、普段友人や教授が呼ぶのと寸分違わぬ調子で。


 「気のせいか……」


 そう呟き、歩みを早めた。だがその夜以来、私は奇妙な声に幾度も呼ばれるようになった。


 声は決まって、人通りの絶えた場所で響いた。地下通路、図書館の閉架、寮の廊下の暗がり――。

 そしてそれは必ず私の名を呼ぶ。


 耳にするたび、心臓が冷たく握り潰されるような恐怖を覚えた。

 なぜなら、声が呼ぶ名はそのたびに少しずつ「重み」を増していったからだ。呼ばれた瞬間、私は足がすくみ、返事をすれば自分の名を奪われてしまう――そんな直感が全身を支配した。


 私は古書店で働いていることもあり、ある日思い切って店の奥に積まれた民俗学の本を漁った。そこに書かれていた記述が私を震え上がらせた。


 曰く――「名には霊力が宿る。真の名を知られることは、魂の端緒を掴まれるに等しい。これを悪しきものに呼ばれ、応じれば、魂は引き寄せられ、肉体は空洞となる。」


 つまり、私を呼ぶあの声は「名を盗むもの」なのだ。


 恐怖は日増しに強まっていった。友人たちと談笑していても、不意に背後から名を呼ばれる錯覚に襲われる。眠りにつこうとすると、枕元で自分の名が囁かれる。


 ついにある夜、私は寮の部屋の前でその存在に直面した。


 深夜二時、トイレに行こうと廊下に出た時だ。

 長い廊下の奥、消灯された闇の中から、カツ、カツ、とゆっくり靴音が近づいてきた。

 姿は見えない。ただ、闇の奥にぼんやりと「影のような人型」が立っている。


 そして――


 「……田嶋悠。」


 初めてフルネームを呼ばれた。背筋が氷の刃で切り裂かれたように硬直する。呼び声は低く、湿っていて、けれど確かに私の名を知っていた。


 喉がひきつり、返事をしそうになる。だが寸前で思いとどまった。

 私は振り返ることなく部屋に駆け戻り、鍵を閉め、布団に潜った。耳を塞いでも、しばらく名を呼ぶ声は続いていた。


 翌日、私は再び古書の山を漁り、ある一冊の和綴じ本を見つけた。江戸期の写本らしく、題名は『名録拾遺』。そこには「名を喰らう怪」の伝承がいくつも記されていた。


 一つには、旅人が夜道で名を呼ばれ、応じた途端にその場から姿を消した話。

 また一つには、子供が名を盗まれ、以後言葉を失って廃人のようになった話。


 そして末尾に小さな書き付けがあった。


 ――「名を呼ばれし時は、沈黙を守れ。応ぜぬ者は守られん。されど三度呼ばれし時、返事をせずとも名は奪われる。」


 つまり、私はすでに二度呼ばれていた。次に呼ばれたら最後――。


 それは思ったよりも早く訪れた。

 冬の夜、店を閉めて帰宅する途中のことだった。駅までの道にある公園は、落葉した木々の枝が空を黒く塗り潰している。凍える風が吹き抜ける中、私は急ぎ足で歩いていた。


 その時、背後から再び声がした。


 「……田嶋悠。」


 三度目の呼び声。

 心臓が止まったかと思うほどだった。


 足が勝手に止まり、喉がかすれる。返事をしてはいけない――それは分かっている。だが応じずとも奪われるのなら、どうすればいい?


 公園の闇に、あの影が立っていた。

 形は人に似ているが、輪郭が揺らめき、闇そのものが人の形をとっているようだった。顔はなく、ただ虚ろな穴が空いている。そこから声が響いていた。


 「名を……寄越せ。」


 その瞬間、私は直感的に理解した。

 名を奪われれば、私は存在ごと掻き消される。


 私は必死に考えた。返事をすれば終わり。逃げても追いつかれる。

 ならば――「偽りの名」を与えるしかない。


 私は唇を震わせ、必死に声を絞り出した。


 「……俺の名は……佐伯信也だ。」


 それは、かつて小説の登場人物につけた名だった。誰にも知られていない、架空の名。


 影はしばし黙り込んだ。

 やがて虚ろな穴の奥で赤い光が揺れた。


 「……サエキ……シンヤ……」


 その声が夜気を震わせ、影の形がふっと崩れた。次の瞬間、そこには何もいなくなっていた。


 私は全身の力が抜け、膝をついた。凍えた地面に掌を押しつけ、しばらく動けなかった。


 以来、あの声に呼ばれることはなくなった。

 だが私は時折、思い出す。あの夜、闇の中で偽名を告げた瞬間のことを。


 あの影は、確かに私を信じた。

 そして「佐伯信也」という名を持ち去った。


 だが考えてみれば恐ろしい。

 あの名は、今どこにあるのだろう?

 もしも誰かがその名を呼べば、応じるのは私ではなく、あの影なのではないか。


 私はひっそりと身を震わせる。

 そして思う。


 ――名とは、やはりただの符号ではない。

 それは人の存在を縛る鎖であり、呼ぶ声によって現れる「門」でもあるのだ。


 この出来事を誰にも話すことはない。

 だが私の机の引き出しには、まだ一冊のノートがしまってある。

 そこには、震える手で書き記した文字がある。


 ――佐伯信也。


 あの夜、私が影に渡した偽りの名。

 それは確かにこの世に存在しなかったはずの「誰か」だ。


 けれど今は、どこかで生きているのかもしれない。

 私の知らぬ顔を持ち、私の知らぬ声で。

 そしていつか、再び誰かの背後で、こう囁くのだろう。


 「……お前の名を、教えろ。」


(了)

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