「影踏み」

 小学校の帰り道、私は友人たちとよく「影踏み」をした。

 地面に伸びる互いの影を踏んだ者が勝ちで、踏まれた側は悔しがりながら逃げる。単純な遊びだが、夕暮れ時の長い影は追いかけやすく、また逃げやすくもあるから、私たちは毎日のように影を踏み合って帰った。


 けれど、ある夏の日を境に、その遊びは私にとってただの遊びではなくなった。


 その日も数人で影踏みに興じながら帰っていた。日が沈みかけ、影は地面いっぱいに伸びている。

 私は友人の影を狙って走り、かかとで踏みつけた。


 「踏んだ!」


 そう叫んで顔を上げたとき、視界の端に見慣れない影があった。

 誰もいないのに、アスファルトの上に人影が一つ、こちらに背を向けて立っていたのだ。大人くらいの高さ。けれど実際にそこに人はいない。影だけが、夕陽に照らされるようにくっきり伸びていた。


 私は思わず立ち止まった。

 友人たちは気づかない様子で、笑いながら駆け回っている。


 気のせいだろう、と自分に言い聞かせた。

 だが翌日も、その翌日も、同じ道でその影を見た。誰もいないのに、そこにある「余計な影」。そして不思議なことに、その影は私が近づくとわずかに動くのだった。


 一週間ほど経ったころ、私はとうとう好奇心に負けた。

 下校途中、例の影が現れたのを確認してから、私は思い切ってその影を踏みつけた。


 ぐしゃり。


 感触はなかった。けれど、足裏にひどく冷たいものがまとわりついた。

 その瞬間、背後から声がした。


 「……見つけた」


 振り返ったが、誰もいなかった。

 胸がどくどく鳴り、逃げるように家まで走った。


 その夜、私は高熱を出した。夢うつつの中、天井を見上げると、逆さに黒い人影が張りついていた。動かない。顔もない。ただ輪郭だけが私を見下ろしている。


 数日後、熱が下がっても、私は奇妙なことに気づいた。

 夕暮れに外へ出ると、地面に自分の影が映らないのだ。

 太陽の向きも、周りの子供たちの影も正常なのに、私だけ影がない。


 「お前、影がないぞ」


 友人にそう言われ、私はぞっとした。

 影を踏まれる遊びはもうできなくなった。誰も私を追わない。私はただ、取り残される。


 それ以来、私は自分の影を取り戻す方法を探すようになった。


 近所に住む古い神社の宮司に相談してみた。

 老人は私の話を黙って聞き、最後にこう言った。


 「影というものは、魂の影だ。失くしたのではなく、奪われたんだろう」

 「どうすれば戻りますか」

 「取り戻すには――相手の名を呼んで、影を踏み返すしかない」


 名。

 だがあの影の名など、私は知らない。


 それからしばらくして、私はまた夢の中で影を見た。

 天井に張りついた黒い人影が、低い声で囁いた。


 「名を……呼べ」


 呼べ、と言うのに、名を教えてはくれない。

 私は答えずに目をつむった。すると影はゆっくりと降りてきて、私の顔すれすれまで近づいた。冷たい気配が皮膚を刺す。


 「おまえの名を、寄越せばいい」


 その声を聞いた瞬間、私ははっとした。

 あの影は、自分の名を持っていない。だから私に名を渡せと迫るのだ。


 翌日、私は夕暮れの道に立った。

 アスファルトの上に、やはり余計な影が一つ伸びている。


 私は足を踏み出し、その影を再び踏みつけた。

 冷気が広がる。だが今回は怯えなかった。


 「――“名無し”!」


 私はそう叫んだ。名のない者に向かって、強引に名を与えたのだ。


 影はびくりと震え、ぐにゃりと崩れた。

 次の瞬間、足元に私自身の影が戻っていた。夕陽を背に、正しく地面に映る自分の影。


 私は息をつき、その場から走り去った。


 以来、私は影を失うことはなくなった。

 けれど、今も時折思うのだ。

 あのとき私が叫んだ「名無し」という呼び声――それは名を与えたことになるのか、あるいは蔑んだことになるのか。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る