第2話 商店街のカレー、雨のあとの湯気
第2話 商店街のカレー、雨のあとの湯気
北関東の山あい。硫黄の匂いを含んだ夜風が、講演会の熱を冷ますように流れていた。
大島修の講演は満員御礼。壇上の彼は今日も声を張り上げ、聴衆を沸かせて終わった。営業担当としては鼻が高い。だが、その熱気に一日中さらされていた自分の体は、乾いた雑巾のようにくたびれている。
「坂井さん、今日はありがとう! また来週もよろしく!」
駅前ロータリーで手を振る大島の笑顔は、相変わらず太陽のようだった。タクシーに吸い込まれていく背中を見送ると、胸の奥にようやく静かな空気が流れ込んだ。
時刻は20時過ぎ。最終列車までは余裕がある。ホテルに戻っても落ち着かないだろう。
駅から延びるアーケードに足を向ける。昭和の面影を残した商店街は、半分以上の店がシャッターを下ろしていた。だが、ところどころ裸電球が灯りを落とし、雨上がりの路面に淡い輪を描いている。
歩いていると、不意に香りが鼻をくすぐった。玉ねぎを炒めた甘い匂い、豚脂の濃い香り、そしてクミンの乾いた刺激。
——カレーだ。
時計店の隣に、手書きの立て看板が出ている。
《森本食堂 本日の辛口ポークカレー 700円》
数字の“7”だけが妙に丸く、看板自体も雨に濡れて角がふやけている。すりガラスの扉からは黄色い光がもれていた。
金属の鈴が小さく鳴る。
「いらっしゃい」
白髪混じりの店主の声は短く、それでいて温かい。
中はカウンターが6席と小さなテーブルが2つ。壁には色褪せたポスター、棚には文庫本が乱雑に並んでいる。ラジオからは地元の天気予報が流れ、温泉宿の空室情報を告げていた。
「ポークカレーを。辛口で、ライスは少なめ。あと温玉を1つ、らっきょうも」
「はいよ」
注文を告げると、店主が鍋の蓋を持ち上げる。奥からは割烹着の女性——おそらく奥さん——が食器を用意する音が響いてきた。
フライパンで豚バラが温め直される。じゅう、と脂が鳴り、すぐに甘い香りが立ち上がる。肉が鍋へ滑り込むと、スパイスの香りが一段濃くなった。クローブの針のような刺激が、鼻の奥を小さく刺す。
——音がうまい。料理のリズムに体が合わせられていく。
カウンターに水が置かれた。コップの縁に、冷たさがうっすらと白い輪を描く。ひと口含むと、舌の上が素直に整う。
鍋の中でとろりと揺れるルゥが見えた。色は濃い褐色。玉ねぎが長く炒められた証拠だ。店主が木杓子でゆっくりかき混ぜるたび、表面に小さな泡が立ち、すぐに弾ける。
「この辛口はね、親父の代から変わらないよ」
店主がぽつりと言った。
「辛いんですか?」
「辛いけど、汗が出る前にまた一口欲しくなる。そういう加減」
短い言葉に、長い年月の手触りがにじんでいた。
皿が用意される。楕円形のステンレス皿。縁の銀色が蛍光灯を反射して冷たく光る。盛られたライスは小山のように整えられ、その片側に深い褐色のルゥが流し込まれる。白と茶色の境界は鋭く、香りが一気に広がった。
小皿には温玉、ガラスの器にはらっきょうが3粒。彩りに福神漬けが少し。
スプーンの柄を握りながら、思わず胸の奥がゆるむ。
——この匂い。この湯気。これが、今日を整えてくれる。
⸻
スプーンの先でまずルゥだけをすくい、唇に運ぶ。
最初に届くのは、玉ねぎの丸い甘さだった。角がなく、まるで絹布のように舌に沿う。その後ろから、豚脂の厚みがふわりと押し寄せてきて、口内にうすい膜を張る。そして遅れてくるのは、鋭い黒胡椒の刺激と、クミンの乾いた香りだ。ほんの少しクローブが針のように刺さり、余韻が喉の奥をかすかに震わせる。
——甘い。だがすぐに辛さが追いかけてくる。
額に汗はにじまない。それでも呼吸のたびに辛さがじんわりと蘇り、もう一口を欲させる。まさに店主の言った通りだ。
次はライスを少しだけ崩し、ルゥと混ぜる。白と褐色がまだらに交わり、境界線がくっきり残る。混ぜすぎないのが、自分の流儀だ。そこへ温玉を落とし、黄身をスプーンの腹で軽く割る。
黄身がルゥに溶け、金色の筋を描きながら褐色に混ざっていく。その一口を口に含むと、辛さが急に丸くなった。黄身のコクがバターのように舌の上で広がり、豚肉の旨みを厚く抱き込む。豚バラは箸いらず、スプーンで押せば繊維がほろりと解ける。解けるたびに小さな波が立ち、口の中が豊かに満ちる。
らっきょうを1粒。甘酸っぱさが舌をリセットする。これでまた、すぐに次のひと口を欲しくなる。福神漬けを少し齧り、シャリ、とした音を耳で感じる。食感がもたらす清涼感に、自然と目が細くなった。
——今日は酒はいらない。料理が主役だ。
いつか飲めない自分を笑った宴会があった。だが、もう気にすることはない。むしろ、いまは誇れる。酒に頼らなくても、このカレーの湯気だけで十分に世界は整う。
⸻
「兄さん、駅前のホールにいたろ?」
不意に声が飛んできた。顔を上げると、作業着姿の男がジョッキを置いてこちらを見ていた。胸ポケットから、講演会のパンフレットが覗いている。
「ええ、仕事で」
「やっぱり。大島先生、声がすごかったな。帰りにここ寄ったんだよ。体が温まる気がしてな」
「そうですか」
短いやり取りだが、心が温かくなる。さっきまで「疲れさせられた」と思っていた講演も、こうして誰かに力を与えたのなら、それで報われる。
その時、奥からじゅわじゅわと油の音。店主が揚げ網を上げ、金網にきつね色の衣を置いた。
「カツカレー1つ!」
声の先はテーブル席の高校生。額にまだ汗が残り、ユニフォームの袖が濡れている。
「試合、どうだった?」と奥さんが尋ねる。
「1点差で負けました」
「じゃあ、ルゥ多めにね」
言って、レードルをもう1杯。揚げたてのカツの衣がルゥを吸い、皿の上でふくらんでいく。
——負けた日にこそ、カレーは似合う。勝った日でも似合うけれど。結局、カレーは毎日を支える料理だ。
スプーンを握る高校生の目が輝いているのを見て、自分も知らず笑みをこぼした。
⸻
ふと棚の文庫本に目をやる。そこには『潮の声を聞く』というタイトル。見覚えのある名前が背表紙に刻まれていた。
——高瀬悠子。担当している作家の初期短編集だ。
背表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。何度も読まれた証拠だった。
「この作家、お好きなんですか」
思わず声をかけると、店主が少し照れたように笑った。
「うちの奥さんがね。サイン会にも行ったんだ。ほら」
レジ横の壁に貼られた小さな色紙。たしかに高瀬の字で「ごちそうさまでした」と書いてある。
——街の片隅に、自分の仕事の痕跡が残っている。思わぬ場所で出会うと、誇らしくもあり、少し照れくさい。
スプーンを持つ手を止め、少し遠い記憶に沈む。
カレーは、家の土曜の夜を思い出させる。母が大きな鍋をかき混ぜ、父が新聞を読み、テレビの音が流れる。翌朝、鍋を温め直すと角が取れ、より丸くなった味になった。
——全部をひとつに混ぜなくていい。境界を残したまま、隣り合う味を楽しめばいい。
それは、孤独と群れの関係にも似ている。
⸻
残りをゆっくりと平らげる。最後のひと口は温玉がすっかり溶けていて、もはや黄身とルゥの区別はない。福神漬けを2枚、らっきょうを1粒。甘酸っぱさと辛さが交互に舌に響き、静かに締めくくられる。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
会計の時、奥さんが小さなカードを差し出した。
「商店街のスタンプラリーやってます。向かいの古本屋“遠雷書房”と、喫茶“バタフライ”でも押せますよ。景品は“バタフライ”のプリン」
カードの端には蝶のマークが描かれていた。
——古本屋と喫茶店。よくできた三角形だ。本の紙の匂い、コーヒーの香り、そして固めのプリン。想像しただけで舌が準備を始めている。
店を出ると、アーケードの屋根から雨だれがまだぽたぽたと落ちていた。水たまりにネオンが揺れ、文字が波で崩れていく。
ポケットのスマホが震えた。
〈中原です。原稿、また落としました。ネタ探しに付き合ってください。明日、喫茶“バタフライ”で。あのプリン、絵になるんですよ〉
——なるほど。糸はすでに結ばれていたのか。
温泉街の空は低く、白い湯気が漂っている。胸の中にはまだカレーの温度が残っていた。
明日、古本屋でスタンプを1つ。喫茶店でプリンを1つ。それだけで、また1日の物語になる。
(つづく)
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