孤高のグルメ——街の輪郭を食べる

湊 マチ

第1話 赤提灯、雨上がりのつくね

第1話 赤提灯、雨上がりのつくね


 拍手の余熱が、まだ耳の奥に残っていた。

 駅のコンコースは湿気を抱え、傘から滴る水で床が斑に光っている。大島修の講演は満員御礼、終演後のサイン会も長蛇の列。壇上の彼はいつも通りの太陽で、笑いと拍手を波のように起こして去っていった。営業担当としては万々歳だが、巻き込まれた潮は体力を容赦なく攫っていく。


「坂井さん、今日は助かったよ! また来週、よろしく!」

 改札前で手を振る大島は、最後まで声が大きい。人波に押し出されるように彼と別れ、ネクタイを指1本ぶん緩めたとき、肩の力がふっと抜けた。

 雨上がりの夜は、街の匂いを濃くする。アスファルトの水っぽい匂いに、どこかから炭の煙が混じって鼻先をくすぐった。足は自然に細い路地へ向かう。


 見上げれば、赤提灯がひとつ。水たまりに灯が落ち、波紋が小さく広がる。暖簾の端が雨に濡れて重そうに垂れていた。

 ——焼き鳥。

 たぶん、今夜の自分に一番必要なやつだ。


 木枠の引き戸を開けると、金属の鈴がからん、と鳴った。

「いらっしゃい」

 L字のカウンターだけの小さな店。七輪が2台、炭の上で串が並び、脂が落ちるたびにぱち、と小さくはぜる。壁の黒板には「つくね」「皮」「ねぎ間」「砂肝」「レバー」の白い字。瓶ビールのポスターの角がめくれて、季節外れの海水浴客が笑っている。


 空いていた端の席に腰を下ろし、上着を背もたれに掛ける。

「何にします?」

「つくねと、皮、ねぎ間を各1本ずつ。それとウーロン茶を」

 口にしてから、少しだけ胸がすっとする。飲めない自分を笑った昔の職場の飲み会が頭をかすめるが、その残像も炭の煙に紛れていった。

 ——酒が主役の夜もある。今夜は、料理が主役だ。


 店主は無言で頷き、串を並べ直す。刷毛でタレを塗るたび、甘辛い匂いが立ち、七輪の上に細い光の筋が揺れた。

「タレ、継ぎ足しですか」思わず口をつく。

「親父の代からのね。濾すのが手間だけど、味は落ち着く」

 炭の上でつくねが汗をかきはじめる。表面にじわっと脂が浮き、刷毛が触れると艶が出た。皮は端が乾き、中心はぷくりと盛り上がっている。ねぎ間の白い部分は水分を含んで透け、ねぎの甘い香りが少し遅れて鼻に届いた。


 先にウーロン茶が来る。氷の音が小さく鳴る。

 一口飲んで、喉の内側がまっすぐに清められていくのを感じる。


 やがて、皿の上に最初の三本が並んだ。

 つくねからいこう。箸で割ると、湯気が内側からふっと立つ。肉の粒立ちが粗すぎず細かすぎず、噛むたびにタレがじゅわりと押し出される。外側の焼き目はカリッと軽く、中心はふっくらと柔らかい。

 ——ひと口で、今日が整う。

 舌の上で甘さが先回りし、遅れて黒胡椒が小さく弾ける。歯の裏側に、炭の香りが薄く貼りつく。


 皮に歯を立てると、ぱりっと紙を破るような音がして、すぐ後ろから脂がじゅるりと追いかけてきた。焦げた端は香ばしい苦味、中心は舌にまとわりつく甘さ。噛むほどに脂が溶け、香りが濃くなる。

 ねぎ間は、ねぎの甘さが鶏の旨みを上下から支える。串の向きを少し変え、焼き目のついている側を舌に触れさせると、香りの輪郭がはっきりする。


 カウンターの向こう、店主が七輪の火加減を紙うちわで整えながら、ちらりとこちらを見た。

「ウーロン茶、薄まったら言って。氷、足すから」

「ありがとうございます」

 その気遣いが、胃の奥より先に心に効く。こういう店では、会話は少しでいい。短い言葉の中に塩加減みたいな温度がある。


 横から声がした。

「兄さん、さっき駅前ホールにいなかった?」

 ネクタイを外した中年の男が、ジョッキを置いてこちらを見る。胸ポケットから、今日の講演のパンフレットがのぞいていた。

「ええ、仕事で」

「やっぱり。大島先生、声がでかくてさ。こっちまで元気もらったよ。だから、久しぶりにここ来た」

「それは、よかった」

 自分の疲れも、誰かの元気に端を貸したなら、悪くない。そう思えた瞬間、つくねの余韻が一段深くなる。


 追加でレバーと、ししとうを頼む。

 レバーは表面だけしっかり焼いて、中はすこし柔らかさを残している。噛むと、舌の両側に濃い旨みが走って、喉の奥へ小さな波紋が落ちる。七輪の熱で立ちのぼる香りが鼻腔の高いところに滞留し、目の奥がすこし熱を帯びる。

 ししとうは気まぐれだ。最初の1本はおとなしい。2本目で唐突に辛さが出て、思わずウーロン茶に手が伸びた。氷の角が唇に触れる冷たさに、夜の蒸し暑さが引き締められる。


 店は少しずつ混みはじめていた。2人連れが「焼きおにぎり、1つを半分で」と笑いながら注文し、奥の椅子では持ち帰りの袋が1つ、用意されている。電話が鳴り、奥さんらしき声が短く対応する。

 ラジオからは、明日の天気と、どこかの温泉街のイベントのお知らせ。アナウンサーの声が、湯気のように細く店内に流れ込んで、ここより遠い土地の夜を少しだけ感じさせた。


 ポケットが震えた。スマートフォンの画面に、新着メールが2件。

〈次は北関東の温泉地で講演だ。坂井さん、旅程は任せる!〉

 大島から。相変わらず、用件がざっくりしている。

 もう1件は、姉から。

〈来月の運動会、来られる? ビデオ、今度こそお願いしたい〉

 画面を閉じる。湯気の中の告知と、温泉地と、運動会。遠い場所と近い人の声が、1行ずつスマホに並んで、小さな現実のつながり方をしていた。


 七輪の火が少しおとなしくなったところで、店主が炭を足す。新しい炭が赤くなっていくあいだ、うちわで送られる風が、タレの香りをふわりと散らした。

「親父さんの代からなんですか」

「ここはね。店は狭いけど、火は大きく。うちはそれだけ」

 短い言葉に、長く続ける店の矜持が見えた。


 カウンターの端、持ち帰りの袋を受け取った若い女性が会計を済ませていた。

「おじいちゃん、好きなんですよ。ここのつくね」

 そう言って、袋の口をぎゅっとにぎる。手首の内側に雨のしずくが1粒、残っているのが見えた。

 ——誰かのために買う食べ物は、袋の口の締まり具合に出る。

 ふと、そんなことを思う。


 串が1本、また1本と皿から消える。噛みごたえのある砂肝を追加し、コリコリという音を自分の内側で聴く。香りや味だけでなく、食感の音が疲れに効く夜がある。骨伝導で静かに整うような、そんな夜だ。


 ラジオが時報を告げた。21時。

 壁の時計は少し遅れていて、秒針が薄くカチカチと跳ねる音が、炭のはぜる音に混ざっている。時間の歩幅がここだけ違うような気がした。急ぐ必要はない。焦げる前に返せばいいし、冷める前に食べればいい。

 ——全部をひとつにしなくていい。境界を残したまま、隣り合う味を楽しめばいい。

 さっきまで、コンコースの人の波に揉まれていた感覚が、ゆっくりとほどけていく。


「お兄さん、レバーもう1本いっとく?」

 隣の男が笑う。

「せっかく元気もらったんだ。補給しとかなきゃ」

「そうですね。じゃあ、もう1本」

 頼んでから、ふっと笑ってしまう。誰かの言葉に、背中を軽く押されるのは悪くない。群れるわけじゃない。隣り合って座っているだけだ。

 ——孤独じゃない。群れないだけだ。


 2本目のレバーは、最初より少しだけ強めに焼いてもらった。表面の香りが濃くなるぶん、内部の柔らかさが立つ。口に含めば、炭の匂いが鼻に昇り、目の奥がじん、とする。ウーロン茶をひと口。冷たさが香りの余韻の輪郭をきゅっと結び直す。自分の呼吸が、炭の呼吸と同じテンポになる。


 勘定を頼むと、店主が会計札を置いた。小さな木の札には、擦れて数字が読みづらくなっている。

「ごちそうさまでした」

「またどうぞ」

 短いやり取りの最後、店主が小さく付け足した。

「来週、ここから2本先の駅で、出張屋台やるんだ。商店街のイベントでね。雨が降らないといいけど」

 言って、黒板の端に小さな紙を貼った。雨上がりの今夜の灯りのように、文字がほんのりと滲んで見えた。


 引き戸を開けると、路地の空気はひんやりしていた。赤提灯の灯りが水たまりに映って、風が吹くたびにゆるく形を変える。鼻先にまだタレの香りが残っていて、舌の奥がうっすら甘い。

 スマホがもう一度震える。

〈旅程案、明日でいいからね〉大島。

 間髪いれず、もう1通。

〈中原です。原稿、今夜は難しいです。ネタ探しに行きたい場所があって……〉

 いつも通りの言い訳に苦笑いしつつ、さっきラジオで流れた温泉街の名前を検索する。画面の中に、アーケード商店街の写真が現れた。濡れた床に吊るされた丸い灯り。どこだって、夜の光は似た顔をしている。けれど、匂いと温度は街ごとに違う。


 駅へ向かう角を曲がる直前、振り返って赤提灯をもう一度見る。

 ——ひとりで食う。けれど孤独じゃない。

 今日の自分を救ってくれたのは、炭の火と、肉の匂いと、短い言葉。

 群れず、拒まず。ここからまた、明日へ戻れる。


 歩き出すと、舗道に残った小さな水たまりが、ひとつ、またひとつ、足元の灯りを飲み込んでいった。

 次の講演は温泉地。湯気の向こうで、どんな一皿に会えるだろう。

 胸の中で、さっきのつくねの温度がまだ続いている。足取りが、駅に近づくほど軽くなる。


 改札のチャイムが鳴った。

 間に合う電車は1本。

 ——間に合う。だが、少しだけ遠回りしていこう。

 濡れた街の匂いを、もう1度だけ深く吸い込むために。


(つづく)

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