第3話 喫茶バタフライのプリンとナポリタン
第3話 喫茶バタフライのプリンとナポリタン
午前の打ち合わせを終えた足取りは、自然と商店街へと向かっていた。昨日の森本食堂で受け取ったスタンプカードを、胸ポケットの中で指先が確かめる。角の硬い紙の感触。蝶の小さなマーク。たったひとつの押印が、妙に重みをもって響いている。
——せっかくだ。もうひとつ増やしてみるか。
アーケードに入ると、朝の空気はまだ冷たかった。シャッターの降りた店も多いが、開き始めた八百屋の前には早くも人影があり、段ボールから転がるトマトの赤が濡れた床に反射していた。パン屋からは食パンの甘い匂い、薬局の前には新聞の束。人の営みが少しずつ起き上がっていく音が聞こえる。
カードの案内には「遠雷書房」の名があった。古本屋。商店街の中ほどに、その看板を見つけた。木製の引き戸はすこし歪み、ガラスには紙の貼り紙が斜めに揺れている。
《本日10時より営業》
戸を開けると、ベルがからんと鳴った。中は狭く、棚と棚の間にかろうじて通路が残されている。天井まで積まれた本からは紙の匂いがむっと立ち、時間の厚みが空気そのものを重くしているようだった。
「いらっしゃい」
店主は小柄な老爺で、丸眼鏡をずらしながらこちらを見上げた。
「スタンプを……昨日、森本食堂でカードをもらいまして」
「ああ、これね」
カードを差し出すと、朱肉にひたした判子が軽く押された。蝶の隣に、小さな稲妻の模様が現れる。
店主はにやりと笑う。
「この街はね、みんなで繋がってるんだ。食堂も喫茶も、うちも」
「なるほど」
目をやると、棚に一冊、見慣れた背表紙があった。『潮の声を聞く』。高瀬悠子の短編集。担当している作家の初期作だ。
「この人、好きでね。サイン本もあるよ」
店主は奥のガラスケースを指差した。色紙と一緒に並んだサイン本。昨日、森本食堂の壁にもあった。思わぬ場所で繋がっていく。自分の仕事の痕跡が、街に小さく点在しているのを感じて、胸が少し誇らしくなった。
「喫茶“バタフライ”にも寄ってみなさい。プリンが名物だ」
店主の言葉に礼を言い、カードを受け取る。蝶と稲妻。これで2つ目だ。
⸻
喫茶バタフライは、アーケードの端にあった。大きな蝶の看板がゆらりと吊り下げられ、ドアの曇りガラスに「営業中」の札。外からも薄暗い照明と、磨き込まれた木の光沢が覗いている。
ドアを押すと、重い蝶番が低く鳴った。
「いらっしゃいませ」
年配の女性の声。白いエプロンに、髪をすっきりとまとめている。
店内は、昭和の純喫茶そのものだった。赤いビニールのソファ、丸いテーブル、壁の一部にはステンドグラス風の模様。カウンターの奥では銅板が鈍い光を放ち、フライパンが静かに熱せられている。
空気にはコーヒーの香ばしさが漂い、その奥にバターの匂いがほんのり重なっていた。
「ナポリタンと、プリンをお願いします。コーヒーも」
「はい、少々お待ちください」
テーブルに腰を下ろすと、窓際には新聞を広げた常連らしき老人、奥には若い女性がノートを開いている。誰もが静かに自分の時間を味わっている。そういう空気が、ここにはあった。
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最初に運ばれてきたのは水。グラスの側面に冷気が張りつき、指に湿りが移る。喉を潤しながら、視線を店内に泳がせる。壁には小さな掲示板。商店街のイベント案内や、手書きのライブ告知が並んでいる。夏祭りの文字がちらりと見えた。だが、今はまだ深く読むことはしない。
ジュウ、と音がした。カウンターの奥でフライパンに油が馴染み、ベーコンが置かれたらしい音がする。続けて玉ねぎ、ピーマン。軽やかな音とともに香りが立ちのぼり、ケチャップが投入される瞬間、甘酸っぱい匂いが一気に広がった。
——音と匂いで、すでに腹が鳴る。
やがて皿が運ばれてきた。白い楕円の皿に山盛りのナポリタン。太めの麺が艶やかに赤く染まり、上には輪切りのソーセージとピーマン。端に粉チーズが軽く振られている。
一口。フォークで巻き取り、口に運ぶ。
麺は柔らかく、もちりと歯を受け止める。甘いケチャップとバターの香りが絡み、ピーマンの苦みが輪郭をつくる。ソーセージは軽く焼き目が入り、噛むと脂の甘さが弾けた。
——懐かしい。だが、決して家庭の味ではない。銅板で炒められた熱の深さが、家庭では出せない香ばしさを纏わせている。
次にプリンが置かれた。ガラスの器に盛られた固めのプリン。表面はなめらかに光り、上から琥珀色のカラメルが流れている。
スプーンを入れると、ぷるんと小さな抵抗を返す。ひと口。
卵の濃厚な甘さが舌を覆い、そのすぐ後ろからカラメルのほろ苦さが追いかけてきた。冷たさが喉をすっと通り抜け、体の熱を落ち着かせる。
——固めのプリンは、孤高だ。柔らかい流行のものにはない、揺るがない輪郭がある。
コーヒーをひと口。苦みが甘さを引き締め、舌の上に心地よい緊張を残す。窓の外では、アーケードの明かりが少しずつ強くなり、人通りが増えてきていた。
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ナポリタンをもうひと口、プリンをもうひと口。交互に食べるたび、甘さと酸味と苦みが三角形を描き、味覚のバランスを保つ。
——群れる必要はない。だが、隣り合えば響き合う。味も、人も。
フォークを置いた時、胸ポケットのスタンプカードが少し重く感じられた。蝶と稲妻。その隣に、今度はどんな印が並ぶのだろう。
そう思いながら、視線はふと掲示板へ戻った。そこには「商店街夏祭り・カツサンド選手権開催!」の文字が、赤マジックで大きく書かれていた。
まだ、自分には関係のない世界だと思っていた。
だが、この喫茶と、このプリンが、きっと次の糸を引き寄せていくのだろう。
⸻
プリンの上にたまった薄い露が、空調の風に震えた。スプーンで角を切り出し、口に入れる。卵の密度は高いのに、重たすぎない。カラメルは苦みが先行し、舌の上で小さくほどける。コーヒーを1口、苦みで甘さの尾をしめる——そのバランスに、胸の底がすっと整った。
その時、ドアの蝶番が低く鳴って、曇りガラスの向こうから背の高い影が差し込んだ。
「ありゃ、坂井さん」
軽い調子の声。肩の力が抜けた笑顔。飄々とした歩幅。
——中原純。締切破りの常習犯、担当の漫画家。
「奇遇だなあ。ここ、前から気になってたんです」
「奇遇じゃないだろ。お前、メールで“明日ここで”って書いてただろう」
「いやあ、言葉って風みたいなもんで。吹く先が同じなら運命だなって」
「便利な言葉だな。締切にも風、吹かせてくれ」
中原は笑って、カウンターに片手を上げる。「ナポリタンとプリンと、アイスコーヒー」。注文が通るのを待たず、席を引いて腰を下ろした。視線はすでに店内をスケッチしている。
「銅板。椅子の赤。ステンドグラスの模様。ここ、絵になるんだよなあ」
「店に許可は?」
「もちろん。確認しますとも。取材って言えばだいたい笑ってくれる」
「“だいたい”は信用できない」
「じゃあ今、もらおう」
中原はすっと席を立って、カウンターの向こうのママに頭を下げた。
「漫画描いてまして。お店、舞台に描いていいですか?」
ママは目尻にしわをつくって笑った。
「きれいに描いてくれるなら。名前は“バタフライ”のままでいいの?」
「もちろん。このままがいいんです」
「じゃあ、商店街の夏祭りのことも描いて。ポスター貼ってあるでしょ。宣伝になるなら、なおさら歓迎よ」
言いながら、ママは銅板の上でナポリタンを返し、プリンの皿にカラメルを落とした。きちんとした手の動きが、店の時間を静かに前に進めていく。
中原が戻る。
「OKだって。しかも“夏祭り”を描けってよ。ほら、あれ」
掲示板の中央に、赤マジックで大きく書かれている。「商店街夏祭り & カツサンド選手権」。手描きのイラストに、日付と開始時刻、屋台の配置図。下の欄外に小さく“遠雷書房サイン会(高瀬悠子)”の字が見えた。
「……サイン会?」
「うん。あの文芸の人だろ? 俺も並んでサインもらおうかな」
「担当だ」
「マジか。じゃあなおさら、描きたいな。商店街全部を1ページに俯瞰で、真ん中にカツサンドの断面ドアップで。パンの気泡、破線で入れてさ」
「断面ドアップの破線は、お前の趣味だろ」
「好きなんだよ、あれ。読者が“がぶっ”て噛む位置を誘導できる」
言い合いながらも、目はもう店の細部を拾っている。壁の電源タップ、窓際の造花の埃、プリンの脚のガラスに入った小さな気泡。
「で、坂井さん。配信やりません? 夏祭りの初日。俺のアカウントで。スマホ2台で十分いける」
「俺に何をやらせたい」
「カツサンドを食べて、ただ感想を言う。ゆっくり、丁寧に。坂井さんの“実況”って、食い物が喜んでる感じがするんだよ。文字でも、声でも。あれ、画面で聞きたい人、絶対いる」
「配信は、店の許可がいる」
「さっきのノリでいける。商店街会長の承認があればなお良し。あと、遠雷書房の店主のOKも」
「店主、体調が良くないって聞いた」
「じゃあ、なおさら人を呼ぼう。サイン会に合わせて拡散してさ。坂井さんの担当だろ? 宣伝ってことで、会社にも言い訳が立つ」
言い訳を用意してくるあたり、締切の常習犯らしい発想だ。だが、的確でもある。店に客が流れ、売上が立つなら、この街には役に立つ。
中原のナポリタンが届く。
「いただきます」
1口で、彼の顔がほころぶ。
「うん、うまい。ケチャップが甘いけど、後でバターが締める。ピーマンの青さが逃げない火加減ね」
「言い方、上達したな」
「坂井さんの影響。あと、最近“音”にハマってて。今の“ジュワ”とか、描写の擬音の粒度を上げたいんだよ。読者が耳で読むやつ」
「耳で読む、か」
プリンをもう1口。卵の密度が、会話の隙間を埋めてくれる。固めの輪郭は、曖昧さを許さない。自分の“孤高”の輪郭に、少し似ていると思う。揺れないために、しっかり固めてある。だが、硬くはない。スプーンは入る。受け入れはする——その加減。
「で、配信。やりましょうよ。タイトルは“孤高のカツサンド実況”。どう?」
「過剰だ」
「じゃあ“孤高のひと口”。短い動画シリーズでもいい」
ママが笑いながら横を通る。
「ふたりとも、決まったら早めに言ってね。回線、弱いから。Wi-Fi貸すけど、電子レンジ使うと切れるの」
「了解っす。テストしにまた来ます」
「遠雷書房の店主にも声かけといてね。あの人、口では“静かでいい”って言うけど、内心はにぎやかなのが好きよ」
ママはそう言って、カウンターの内側に戻った。言葉の温度がいい店だと思う。熱すぎず、冷たくない。
食後のコーヒーを飲み終える頃、客が1人、また1人と入ってきて、店内はゆるく賑わいを増した。窓ガラス越しにアーケードを行く人の影。誰も急がず、誰も立ち止まりすぎない。時間の流速が、この店のテーブルごとに微妙に違うのが面白い。
「ところで坂井さん」
中原が声を落とした。
「高瀬さん、夏祭りの日、サイン会のあと、トークもやるらしい。胃、弱いんだってね」
「辛いのは苦手だ。カツサンド、どうするかな」
「“塩だけ”って屋台に頼めばいける」
「お前、交渉の嗅覚だけは鋭いな」
「締切から逃げ続けると、口だけはうまくなる」
自覚があるなら直してほしいが、口に出すのはやめた。
「……まあ、やるなら段取りを切る。商店街の会長、誰だ?」
「張り紙の下に名前。あと、遠雷書房の店主は“榎本”さん」
榎本。名刺ケースに空きを探す。初対面の名刺は、必ず角が潰れていないものを出したい。細かいことだが、続けるにはそういう小さな癖が役立つ。
「スタンプ、押しますね」
ママがカウンター越しに、蝶の朱印を押してくれた。カードの端に、きれいな羽の形が増える。これで合計は3つ。
「あと7つでコンプリート。景品は“特製プリンアラモード”ね」
「アラモード」
「果物がたっぷり。バナナ、みかん、さくらんぼ。生クリームも」
中原が身を乗り出す。
「それ、配信の最終回の絵にしましょう」
「最終回の話をする前に、初回を上げろ」
「ですよね」
会計を済ませると、外の光が少しだけ白んでいた。アーケードの天窓に雲が流れ、昼の気配が街を押し広げていく。
「遠雷書房、寄ってく?」
「今日は仕事がある」
「そっか。俺は1回、顔出してくる。榎本さん、話しやすいから」
「頼む。サイン会の件、詳細が出たら回してくれ」
「任せろ。締切の代わりに」
「代わりはいらない。締切は締切で出せ」
笑い合って、ドアの前で別れた。曇りガラスの向こうで、中原が帽子をかぶる影。あいつの足取りは、いつも漫画のコマ割りみたいに軽い。
外に出ると、風がほんの少し湿っていた。アーケードの柱に、夏祭りの追加告知が1枚増えている。屋台の地図に赤い丸。「カツサンド選手権 本部」。その端に小さく「配信協力者募集中」と走り書き。
——糸が、見えないところで結び目を作っていく。
胸ポケットのスタンプカードを指で弾く。紙の硬さは同じでも、重さは増えた気がする。数字も、色も、匂いもない重さ。街との接点の重さ。
駅へ向かう途中、遠雷書房の前を通る。ガラス戸の内側に榎本の姿。レジ横の色紙の間に、白い紙が1枚差し込まれている。「今月の目標 あと100冊」。字は達筆だが、インクが少し掠れていた。
——100。数字は現実だ。
手伝えることは、ある。配信と、サイン本と、棚の平を整える手と。
思いつくことを、頭の中で箇条書きにしていく。やるなら、ちゃんとやる。群れないけれど、拒まない。
駅の構内に入ったところで、スマホが震えた。中原から画像が1枚届く。喫茶バタフライの内装を、ラフで切り取ったものだ。銅板の輝き、プリンの脚のガラスの気泡、ステンドグラスの模様——あの軽薄な口に似合わず、線は丁寧だ。
続いて、もう1件。差出人は高瀬悠子。
〈急でごめんなさい。明朝、7:30に駅前で、少しだけ話せますか〉
短い行。言葉は節約されていて、それがむしろ切実さを伝える。
——7:30。始発で間に合う。
駅そばの湯気が、目の前に立ち上る気がした。かき揚げの揚がる音と、だしの匂い。朝の胃袋に、まっすぐ落ちる優しい塩。
返信を打つ。〈行きます〉
送信の青が消える前に、もう1件、通知。大島修から。
〈温泉地の件、観光協会が配信歓迎だって。あとで詳細送る〉
すべての糸が、同じ方向に引かれはじめている。喫茶、古本屋、夏祭り、サイン会、配信。
——孤独じゃない。群れないだけだ。
それを確かめるように、改札へ歩を進めた。
ホームの端には、朝の準備に入ったそば屋のシャッター。小さな明かりが灯って、奥で鍋が動く影が見えた。
明日の1杯の湯気が、もう胸の中で立ち上っている。
(つづく)
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