第40話 狂濤


「うわ・・・」


 広間には既に若旦那様の姿があった。息を呑む若旦那様を見上げると、頬を赤くしていた。


「驚きました。本当にお綺麗です。・・・ハハハ、なんだかこう改まると照れくさいですね」


 吉右衛門様の容態もあり、祝言は近親者のみで行うこととなった。蕗子様が私を見て、また目頭を熱くされている。まだ早いよ、と優しい若旦那様の声が横から聞こえてくる。


 それは、式が始まろうとしていたときだった。寝ていたはずの吉右衛門様が、寝間着姿のまま庭を徘徊していた。目の焦点は合っておらず、裸足のまま庭先に出ている。

 その姿に気付いた女中さんや使用人が、慌てて吉右衛門様に駆け寄った。


「だっ旦那様いけません!」

「わぁああっ寄るな!!ワシに触るなっ」

「父さん・・・どうしたんだ。こんなところで」


 蒼蜀様の姿に虚ろな目をした吉右衛門様が、ふらふらとこちらへやって来る。そして蒼蜀様の隣にいる私を見て驚愕した。見る見るうちに青ざめ、ガクガクと顎を鳴らしながら震え出した。突然、奇声を上げた。


「うああぁぁっ!!」


そのまま地べたに崩れ込んだ。


「すまないっ!!この通り謝るだから、許してくれぇぇ百音殿ぉぉお・・・」


 お母様の名前を呼びながら叫んでいる。使用人が吉右衛門様の身体を起こそうとするが、それを振り切りこちらに頭を下げ続けている。


「吉右衛門様・・・。一体なににそんな怯えていらっしゃるのですか」

「ヒィィッ……許してくれっこの通りだ」

「私にはわかりません。母となにかあったのですか!?」

「殺さないでくれっ!ワシはまだ死にたくないっ死にたくないよぉぉ・・・」

「父さん落ち着いて。誰か医者を!奥の部屋に運ぶのを手伝ってくれ」

「はいっ」

「蒼蜀・・・?お前蒼蜀か?」

「そうだよ。父さん。今日は八千さんとの祝言の日なんだ。父さんがずっと心待ちにしていただろう」

「あっぁぁ…あぁいかん!!そんなことをしたら祟られる!!祟られるぞっ百音殿にっ」


 晴れていた空に急に雲がかかり始めた。白昼の太陽が姿を消した。吉右衛門様の怯え方は尋常ではなかった。私たちには見えない、なにかに怯えているようだった。


「母は祟ったりなどしません。母と吉右衛門様の約束を果たすために私はここへ来ました。お忘れですか?」

「許してくれ。許してくれぇぇ。ワシが悪かった。悪かったから・・・頼むっ全てを話すから許してくれ百音殿っっ」

「吉右衛門様・・・」


 ――そのときまた鈴の音が大きく聞こえた。


 誰もいないところを見て、吉右衛門様は頭を抱えながら頭(こうべ)を垂れている。地に生えている草を、ぶちぶちとむしり取りながら発狂し空へ投げつけた。目を押さえ顎をガクガクと鳴らしている。


「父さん!とにかく落ち着いて下さいっ」

「ワシは、ワシは百音殿との『契り』を破った・・・」

「『契り』?なんだそれは。父さん、また乱心して」


 蕗子様は縁側から下りようとする若旦那様の肩を引いた。そのまま吉右衛門様に近づいて行く。


「母さん?」


 ここ数日ろくに食事をとっていない吉右衛門様の背中は小さくなっていた。蕗子様は震える背中を、あやすように優しくさすった。


「落ち着いて下さい吉右衛門様」


 蕗子様の腕にしがみつきまた詫びている。そしておろおろと涙を流している。嗚咽を交えながら、吉右衛門様は口を開いた。


「壷玖螺家は鶴人と『契り』を交わし富と名声を得た。鶴人は、当主の願いを一つだけ叶えてくれるのだ。だ、だからワシは・・・壷玖螺の安泰を考え、鶴人との縁を深めるために、八千殿を息子に嫁がせる『契り』を交わしたのじゃ」

「な、なにを言ってるんです!?そんな話、だったら八千さんは・・・」


 若旦那様が振り返り私を見た。若旦那様だけじゃない。その場にいた家中の者全員が私を見ている。その視線から最早逃れることはできなかった・・・。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る