第38話 運命
薄明りの中、目が覚めると紫哭様の腕の中だった。己の身体は人の形のまま、なにも纏っていなかった。肩が出ている紫哭様に、布団をかぶせると赤い耳総の飾りが顔に垂れた。
起こさないように、そっと触れてみた。妖の気配はもうほとんど残っていない。
「・・・八千?」
「紫哭様」
「夢じゃなかったんだな」
目を細めて、微睡んでいるようだった。私の頬をゆっくりと撫でた。
「・・・熱は下がったか?」
「はい。頭痛もなくなりました」
「よかった」
しばらく見つめ合っていた。庭から雀の声が聞こえてきた。それに交じり二人の鼓動の音も重なっていく。
布団から出るのが惜しくなる。このまま時間が止まってしまえばいいのに・・・。
その静寂を壊すように、一羽の鳩が障子を叩いている。紫哭様は一度眉を寄せると、布団から出て行った。
障子を開けると、強い朝日に目が眩んだ。そこには壷玖螺の家でも見かけた伝書鳩がいた。紫哭様の表情がより厳しくなった。私は長襦袢を羽織り布団から出た。
「どうかしましたか?」
「ジジィがやばいらしい・・・」
「えっ吉右衛門様が?」
「とりあえず、俺は屋敷に行く。八千はここに」
「私も行きます」
「・・・わかった」
すぐに支度をした。布団の周りに散らばる、脱いだままの着物を着た。乱れた髪を梳いていると、紫哭様が簪を持って来て下さった。
「髪、結ってやるよ。こっちに来い」
「簪ですか?」
「新しい試作だ。太夫の依頼を受けたのはいいが、実際に女の髪を結うとなると、髪質によっては難しくてな」
つげ櫛で私の黒い髪を梳くと、紫哭様は器用な手つきで髪を結っていく。指先がしなやかな動きをしていた。その手に昨日の情事を思い出してしまった・・・。
「どうした、顔赤いぞ」
「へっ!?そ、そんなことはないです」
「まだ熱があるんじゃないか」
「大丈夫です」
「そうか?・・・よし、できた。ふん、なるほどな。この長さだと丁度いいわけか。この飾り重いか?」
「いえ、重くないです」
「これで崩れなければ商品として並べても問題なさそうだな」
簪の先にはとんぼ玉がついていた。その中には夏の花が描かれている。
紫哭様は、なにやら思い出したように、箪笥の引き出しを開けた。空いてしまった隣に寂しさを覚えた。気が付いたら後ろから抱き着いていた。
「ごめんなさい。好きになってしまって・・・」
温かい。人はこんなにも温かいんだ・・・。
「それは・・・俺の方だ」
そのとき、どこからか鈴の音が聞こえた気がした。微かに聞こえてくるその音は、以前よりも大きく聞こえた。
□□□
屋敷に戻ると、異様な静けさに包まれていた。
昨日まで吉右衛門様の声で騒然としていたのに・・・。紫哭様と顔を見合わせ玄関を開けた。
「ただいま戻りました」
「八千様!まっ紫哭様もご一緒で!!良かった。早くこちらへ早く!」
青い顔をした女中さんが通りかかった。慌てた様子で吉右衛門様の部屋に通された。
「旦那様・・・昨日の夜から起きないんです」
「えっ」
「蒼蜀は?」
「それが、まだお帰りにならなくて」
障子を開けると吉右衛門様が静かに眠っていた。この数日で、とても小さくなってしまった。発作は昼夜を問わず、おまけに食事もろくにとっていない。衰弱しているのは明らかだった。傍には蕗子様の姿もあった。
「紫哭さん。よく来てくれたわね。ありがとう」
「・・・蒼蜀の奴まだ戻ってないって」
「そうなの。唯一繋がる道が土砂にあったみたいで」
声を潜ませながら、布団を囲むように座った。
「吉右衛門様・・・」
「何度も八千さんに詫びていました」
「えっ私にですか?」
蕗子さんがため息を零しながら頷いた。くまが出来て疲労が溜まっている。
「貴方と貴方のお母様にです・・・。この世で許されるまで、あの世にも行けないと悲痛に叫んでいました」
「どうして・・・私にはなんのことかわかりません」
「そうですね。錯乱状態なので正気じゃないことも多々ありますから・・・」
「蕗子さん少し休んだらどうですか?しばらくは俺が見てるんで」
「でも、そうね・・・。ごめんなさい。少しだけいいかしら」
蕗子様が立ち上がるとよろめいてしまった。咄嗟に肩を貸すと力なく微笑まれた。外にいた女中さんに預けた。いつもは凛とした視線が、猫背になっている。ゆっくりと自室に向かわれた。
布団で眠る吉右衛門様に視線を戻した。
すっかりと痩せこけてしまって。詫びなければならないのは私の方なのに・・・吉右衛門様。
隣に座っていた紫哭様が私の手を握った。大きな手は私の手を簡単に包み込む。見つめ合う視線の中で、言いたいことがたくさんあるのに思うように言葉にできない・・・。紫哭様の手を握り返すので精一杯だった。
そのとき、また鈴の音が聞こえた。けれど中庭を見ても、蝉の大合唱が聞こえてくるだけでなにもない。なぜだろう・・・。どこか懐かしい気がする。
そのとき玄関から若旦那様の声がした。戻られました!と、使用人や女中さんの歓喜の声が屋敷に響いた。
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