第37話 朝月夜


 冬の森は純白で、ちらちらと降る雪を眺めながら春を待っていた。


「ここは・・・?あれ、私どうしてこんなところに」


 森でよく遊んでいた湖の上に立っていた。波のない水面はまるで鏡のよう。


――八千。


 振り返ると、お母様がいた。


――八千。


「おっお母様・・・?会いに、会いに来てくれたの?お母様!」


――大丈夫。大丈夫よ。『契り』は絶対だから。貴方が望むようになさい。


 お母様に駆け寄ろうとすると、優しい笑みを浮かべながら気化していく。


「待って!まだ聞きたいことがっ・・・!」


 半透明になっていくお母様の身体に手を伸ばした。指先がかすめて消えていく。最後に見えた微笑みの中で口元がわずかに動いていた。


「・・・うん、めい?」




□□□


 目が覚めるとそこは見慣れない天井だった。お母様も湖もなくなっていた。


「・・・ここは」

「目が覚めたか」

「しこくさま?・・・私は」

「風邪だとよ。玄関で倒れてたから、医者に診てもらった」


 胡坐をかきながら、煙管を吹かしていた。薄暗い部屋の中にぼんやりと輪郭のない煙が揺らめいていく。

 こんなときに倒れるなんて不甲斐ない。雨に打たれたせいだろうか・・・。人の身体は脆いと聞くけどあの程度で。


「ついでに本家にも顔を出しに行ったが・・・大変なことになってるみたいだな。あのジジィ俺のことを見て息子だなんだ言い出す始末だ。あれは生い先が短そうだな」

「そ、そんな・・・縁起でもない」


 身体を起こそうとすると額の上から濡れたてぬぐいが落ちた。


「二日もすれば熱は下がるらしい。しばらくは寝てろ。薬も飲んでおけよ」

「薬・・・ですか?」

「肺炎になると面倒だろう。ほら・・・なんだその顔は」

「薬は飲みたくはありません」

「はぁ?なに言ってやがる。せっかく出して貰ったんだ。飲め」

「嫌です。以前飲んだとき、とても苦くて飲めませんでした。熱ならそのうち下がります」

「飲んだ方が早く治るんだよ。餓鬼じゃねーんだから飲めよ」

「そんなことより私はお屋敷に帰らなくてわ。こんな非常時に寝てなどいられません」


 布団から出ようとすると、頭を内側から鈍器で叩かれたように激しく痛んだ。眉間に皺が寄った。立ち上がろうとするも思うように力が入らない。


「だから寝てろ。ん」


 紫哭様が薬を目の前に持ってくるので、横を向いた。それでも近づけてくるので、もっと首を捻った。


「ったくしょうがねぇな」

「うあっ」


 紫哭様は煙管を静かに置いた。やっと引いて下さったと思い、ほっと肩を撫で下ろした。どういうわけか紫哭様は薬と水を口に含んだ。すると私の顎を固定し躊躇いもなく口移しをしてきた。


「んぅっ……!?」


 口の中に苦い薬が入ってくる。あまりの苦さに咽そうになるが、紫哭様に組み敷かれて身体の自由が利かない。唇を押し付けられ、隙間から水が溢れていく。どうやら私が飲み込むまでこのままらしい。口の中で苦味が滞留している。私は観念しゆっくりと飲み込んだ。


「苦っ・・・。ゲホッ……ゲホッ。なっなにをするのですか」

「お前が飲みたがらないからだろう、ほらもう一回」

「嫌ですっ」


 拒むように手を前に出すと、紫哭様の手に当たってしまった。薬が畳の上に散らばった。


「あっ、す、すみませ・・・」


 静まり返る部屋。耳鳴りがする。


「紫哭様にとってはこれも、これも・・・ただの気まぐれですか?」

「・・・」

「でも私は、私は・・・」

「お前には、蒼蜀がいる」


 布団を強く握りしめた。障子の向こうは真暗で、なにも見えない。町の灯りすら消えてしまっている。


「私は人を好きになるとは、どんなことか知らずに屋敷に来ました。そこには既に『契り』があり、夫となる人がいた。その人さえ愛せば、間違いないと教えられました・・・」


 『契り』の効力で必ず、結ばれる運命にある。それなのに――。


「紫哭様に出会って知ってしまった。人を好きになるとはどんなことか・・・。人に宿る心がどれほど厄介なものか。己で止めることができない」

「やめろ。俺と一緒になったところで、お前の幸せにはならない。『契り』を破れば、その姿でいられなくなるだけじゃ、済まないかもしれない」

「それでも、私は紫哭様が好き・・・好きです」

「八千・・・」

 

 振り絞るような声で名前を呼ばれた。暗くなった部屋の中で、私は紫哭様に手を伸ばした。胸に耳を当てると、鼓動が響いてくる。私は今、紫哭様と同じ時を刻んでいる。

 紫哭様の腕が強く私を抱きしめ返した。好きだと、かすれた声が耳に落ちた。


「だから、二度と会わないと決めたはずだった・・・」

「紫哭様に出会えて私は幸せです。好きになる気持ちを教えてくれました」

「好きだ。八千」


 薄い月明りが差し込む中、どちらともなく唇を重ねた。何度も名前を呼ばれ、私も紫哭様の名前を繰り返した。身体の火照りは熱病のせいだけではなくなっていた。


「紫哭様」

「八千」


 求められることがこんなにも幸せなんて・・・。そのまま紫哭様に組み敷かれた。紫哭様のゆるんだ着物の合わせから素肌を覗かせていた。絡み合う視線に熱が灯っていく。また、紫哭様の唇が触れた。目を閉じていると、まるで世界には紫哭様しかいないように感じる。お互いの身体がじんわりと汗ばんでくる中で、力なく紫哭様の手を握った。指と指の間に、角張った指先が割って入ってくる。

 

「すいやせーん!紫哭の旦那~?」


 先程の店番をしていた人たちの声だった。


「ど、どなたか来たみたです。紫哭様」

「みたいだな・・・」

「紫哭様?」


 人の声に思わず身体を強張らせると、紫哭様はニッと口角を上げた。そのまま首筋に顔を落した。


「んぅ……!?」


 首筋から、耳元に上がってくる唇に吐息が漏れた。紫哭様を止めようととしても、甘い刺激に身体に力が入らない。もし、見つかってしまったら、という思いがより羞恥を駆り立てた。


「今、なんか聞こえなかったか?」

「なにがだ?・・・明かりもついてねぇし留守かな」


 口からくぐもった声が溢れていく。私は必死で紫哭様にしがみついた。


「まぁ明日でいいじゃねーか。なんか屋敷の方もごたついてるみてーだし」

「しょうがねぇ。出直すか」


 足音が遠ざかっていく。呼吸を整えながら視線を見上げると、意地悪な笑みを零す紫哭様がいた。


「ひ、酷いです。紫哭様」

「八千が可愛くてつい」

「そっそんな、そんな言い方・・・ずるい」

「ずるい?それは、八千の方だろ」



 コツンと額が重なった。ゆっくり目を開けてみると目の前に紫哭様の顔があった。その美しい瞳に、吸い込まれるようだった。妖は私の方だというのに・・・。


「紫哭様・・・お願い。もう、一度」

「ん?どうした」

「もう一度口づけをして欲しいです」

「あぁ・・・。俺も足りないと思っていた」


 熱い吐息とともに唇が重なり合った。お互いの熱を探るように深くなっていく。



 『契り』が果たせない私が、この姿でいられるのも時間のわずかかもしれない。一度だけ、心の中でお母様に詫びた。

 けれど、ほんの一時だけでいい。紫哭様と一緒にいたい。

 私は紫哭様の首に手を回した――。

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