第19話 愛着

 

――それは、まるで凍てつくような寒い雪の日。陽の光を浴びた雪の欠片が煌めくような、儚くて淡い瞬き。


 初めて壷玖螺家のお屋敷を訪れた日。私はお母様と吉右衛門様の会話に飽き、一人庭へ出た。そこには森とは違う緑が溢れていて、幼い私には全てが新鮮だった。思わずはしゃいでいた。なんせ初めて人の姿で、人に会ったのだから。窮屈な着物は慣れなくて、裾を両手で上げて庭を駆け回った。


「うわぁ!きれい」


 小さな池を見つけて欄干から池を覗いた。そこには、金色の艶やかな魚が、尾を左右に揺らしながら、悠々と泳いでいた。

 もっと近くで見ようと欄干から下りた。土の上に両ひざを付き、手を伸ばしてみた。池の方へ上半身を乗り出すと、ぬめりの強い水草に手を滑らせてしまった。


「キャッ」

「おいっ!」


 水面につく直前のところだった。身体が浮遊していた。腕を引っ張られ、身体が地上へ向いた。目の前には、自分より少し背の高い男の子。眉間にシワを寄せて、難しい顔をしながら私を睨んだ。


「そんなに覗き込んで危ないだろう」

「・・・」


 その頃は人の言葉を理解できても、話すことは少し苦手だった。私が返事ができずにいると、男の子は更に眉間のシワを深く刻んだ。


「お前、こんなところでなにをしている」


 その問いに私は辺りを見渡した。吉右衛門様とお母様は、まだ話しているだろうか。吉右衛門様の部屋の方を見ていると、男の子はその視線に気づいたようだった。


「そういえば客人がくるって言ってたな。その連れか?」


 私は大きく頷いた。


「ふ~ん。それで退屈になったってわけか。フッ丁度良い。こっちもヒマだったんだ。屋敷を案内してやるよ」


 男の子は返事ができない私の手を取ると、屋敷の中へ入って行った。広い屋敷で見る物は、どれも始めて目にする物ばかりだった。森の仲間たちと奥山へ行ったときのようにわくわくした。まるで冒険をしているような感覚。

 ついさっきまで、時間が過ぎるのが長かったのに、楽しくなった時間はあっという間に過ぎていく。次の部屋に向かおうと廊下を走っていると、足袋で足を滑らせてしまった。


「大丈夫か?」

「うん」

「すりむいたりしていないか?痛いところは」


 心配する男の子に私は首を左右に大きく振った。


「あっ・・・」


 そのとき、男の子の視線が私の足に留まっていることに気がついた。転んだ拍子にまくれ上がった着物。そこから鶴の脚が見えていた。慌てて着物を下ろした。


「お前、もしかして・・・」


 見られてしまった。その瞬間、身体が氷のように固まった。

 ど、どうしよう。こんな姿見られたら――。


「待ってろ」


 男の子はさっきまでいた部屋に入るとすぐに戻って来た。


「他の奴に見られると面倒だからな。これ巻いといてやるよ」


 そう言って鶴に戻った右足に白い布を巻いてくれた。

 ・・・恐くないのだろか。お母様は人の前で絶対に妖になってはいけないと言っていた。人の中には私たちを良く思っていない人もいるからって。


「・・・こわく、ない?」

「恐くねぇよ。・・・昔、妖に助けられたことがあるからな」


 口角を上げると、男の子は得意そうに微笑んだ。


「よし。これでいいだろう。早く次の部屋行こうぜ」


 男の子は私の両手を軽く握り優しく立たせてくれた。そして転ばないようにゆっくりと歩いてくれた。

 初めて人に触れた手は柔らかくて温かかった――。


 夕方頃になると、私は疲れ果てて縁側で眠っていた。真赤に染まる夕日の中でさっきの男の子が戻って来た。


「これやるよ。お前に似合うと思って」


 身体を起こすと、花のような物を私に差し出した。どうしていいかわからなくて、首をかしげると、男の子は私の髪を掬い器用に髪に付けてくれた。


「今日は楽しかったな。また来いよ」


 男の子がそう言うから、また会えると思った。次に会ったときに今日のお礼を言おう。だからもっと、もっと人の姿の練習をして、ちゃんとお話しできるように勉強もしよう。

 奥の部屋から、お母様の声が私を呼ぶ声が聞こえた。


「へぇ。お前八千って言うのか。・・・じゃぁな、八千」


 風が強く吹くと、男の子の黒い髪が揺れた。顔に掛った髪に眉間に皺を寄せながら耳に掛けていた。そのとき、耳元に赤い総の耳飾りが見えた。



□□□


 まだ日が上りきらない中で目が覚めた。顔を横に向けると、ぬるくなった氷嚢が枕元に落ちた。


「・・・夢?」


 胸の鼓動が、あの幼い頃のままの速さでを保っている。

 懐かしい・・・。出会った頃の思い出に、凍りついていた心も溶けだしていくよう。

 すると、ザザッと布の擦れる音がした。そこには襖にもたれて眠る若旦那様の姿。ずっと、ついていてくれたのだろうか。寝息をたてる若旦那様はどこか幼く見えた。


 身体を起こすと、両腕に痛みが走った。腕には包帯が巻かれている。そういえば、あのときも若旦那様はこうやって足に包帯を巻いて・・・。


「あれ・・・?」


 なにかが噛み合っていない気がした。初めて会ったときの若旦那様と、今目の前にいる人物が。

 あの日の帰り道。お母様に男の子の話をすると、それは『蒼蜀様ね』と言い、将来私の夫となる人だと告げられた。だから若旦那様だと・・・。


――『恐くねぇよ。昔、妖に助けられたことがあるからな』


 あのとき私は、妖であるところを見られている。

 だったら――若旦那様は、私が妖だと気づいている?


「まさか……」


 ドクンと心臓が大きく脈打った。とっさに手で口元を隠し息を殺していた。次第に明けていく空。激しさを増す鼓動に、再び布団の中へもぐりこんだ。


 わ、若旦那様は髪飾りのことすら忘れている。だから、きっとあの日のことを忘れてしまったんだわ。そう、きっとそうに違いないわ・・・。

 布団を頭まで被り、固く目を閉じた。身体の火照りは冷めたはずなのに、首筋に汗が伝っていく。ごくりと乾いた喉を潤そうとしたけど、全く潤わない。

 真っ暗な瞼の裏に、紫哭様の赤い総の耳飾りが横切った。


「・・・」


 ・・・違う。あの日、私が一緒にいたのは、牡丹の髪飾りをくれたのは、若旦那様じゃない。

 あの冷めた口調、眉間にシワを寄せる仕草、そしてあの耳飾りは・・・紫哭様だ――。

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