第18話 灰燼
「八千さん!」
声と同時に、なにかが手を掠めた。手の軌道がわずかにずれ、雪華さんの首を逸れた。袖の袂が切れている。
「蒼蜀様っ!八千様が、八千様が私のてぬぐいを……!その竈にっ・・・」
真黒だった視界に色が戻り始めた。足元でさっきの雀が小さな声で鳴いている。
・・・でも、もう聞こえない。なにを話しているか、昔はわかったのに。もう聞くことができない。
「八千様、酷いわっ・・・」
雪華さんが両手を顔に覆い、肩を震わせる若旦那様に泣きついている。その隣には紫哭様の姿もあった。
若旦那様の瞳がこちらを見て大きく揺れている。私はとっさに手を隠した。氷柱を見られてしまったら・・・。俯いた視界の先に、牡丹の髪飾りがあった。拾い上げようと、一歩足を前に踏み込んだ瞬間、ぐわんっと脳が左右に揺さぶられた。呼吸が苦しくなり、息を吸い込むたびに気道に熱が入ってくる。ヒリヒリと腕に痛みが出てきた。長襦袢はびっしょりと濡れている。重みを増した身体が、鈍い音を立てて地面に落ちた。
霞む視界の中で、焦げた髪飾りが風に吹かれて転がっていく。
――『これやるよ。お前に似合うと思って』
初めて渡されたとき、私はどうやって使えばいいのかわからなかった。
「お、おいっ!」
「八千さん・・・!?」
私の髪にそっと指が触れて、その髪飾りを付けてくれた―――。
倒れた身体が石のように動かない。手を伸ばしても、髪飾りには届かなかった。
「大丈夫か!?」
抱えられた身体に力が入らない。若旦那様・・・?でも、近くで紫哭様の声が聞こえる。身体を動かすのが鈍い。それでも左手を焼けた髪飾りの方へ向けた・・・。
「やっぱり、雪なんて降ってないじゃないか・・・キャァ!八千様っ!!」
「すぐに水を」
「は、はいっ!!」
「や、八千さん怪我してるの!?」
「蒼蜀、部屋に運・・・」
お梅さんの叫び声と震える若旦那様の声がした。息を吸い込んでも思うように吸い込めない。苦しい・・・。
私の身体を隠すように紫哭様の上着が掛けられた。
「紫哭?」
「いや・・・ただの火傷だ。お前は蕗子さんから薬を貰って来てくれ」
「うん。わかった」
意識を手離す寸前に見えたのは、あの赤い総の耳飾りだった――。
□□□
気がつくと、私は布団の上に寝かされていた。滲んだ天井が、瞬きを繰り返すとやっと見えてきた。
どれくらい眠っていたのだろうか・・・。外は既に日が沈んでいた。
「でも、どうしてこんなことに・・・」
「傷は大したことねぇよ。蕗子さんの薬はよく効くから心配するな」
「・・・うん。でも、どうしよう髪飾り。こんなんになったらもう直せないよ」
隣の部屋からは若旦那様と紫哭様の声がする。起き上がろうとすると、両腕が痛んだ。額の上には氷嚢がぶら下がっていた。冷たくて心地いい・・・もう一度目を閉じた。
「あの髪飾りは、お前が作ったのか?」
「ううん。八千さんは僕から貰ったと言ってるけれど、覚えがないんだ・・・。多分なにか勘違いしているんだと思う。でも、あんなに嬉しそうに話すから、言うに言えなくて・・・」
「だったら作ってやればいいだろう、あれくらい」
「無理だよ・・・僕がそういうの得意じゃないって、紫哭が一番知ってるだろう。なぁ頼むよ紫哭、牡丹の髪飾りを作ってくれないか?紫哭なら簡単に作れるだろう」
「・・・出来不出来の問題じゃねぇーんだろ。あいつは、お前からもらったと思ってる。俺が作ったところでどうする」
「そ、そうだけど・・・はぁ、参ったな」
困っている若旦那様の顔がすぐに浮かんだ。私が昨日、あんなことを言ってしまったせいだわ・・・。
「それと、あの女にはいい加減関わるな」
「・・・あの女って雪華のこと?別になにも」
「前にも言ったはずだ。アイツはろくな女じゃねぇ」
「でも・・・」
「蒼蜀。あの女とは関わるな。いいな?」
「わかったよ・・・」
語尾を強めた紫哭様の声に、若旦那様は少しだけ間を置いてから頷いていた。
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