第6話 夜さり
日が沈む頃、お梅さんが部屋にやってきた。
「八千様。ご夕食は、まだよろしいでしょうか。若旦那様はいつお帰りになるかわかりませんよ」
「・・・もう少し待ってみます」
「然様でございますか」
お梅さんはろうそくに火を灯し、部屋から出て行った。
一人になった部屋でため息が零れた。昼間の雪華さんの言葉が耳に絡みついて離れない。
『愛されるっていうのは女としてってこと。――夜の方はもう済んだのかしら?』
言葉を払うように頭を左右に振った。
鏡台の前に座り、引き出しを開けた。牡丹の髪飾りがしまってある。赤と白の花弁が重なり合い、少しだけ傾いている。
若旦那様にはお考えがあるのよ。・・・大丈夫。
そう。自分に言い聞かせるように何度も心の中で唱えた。そのとき足音が聞こえて来た。障子を開けると、月の灯りに浮かぶ人影あがある。
「八千さん?まだ起きていたんですか」
「若旦那様」
若旦那様は私の姿に気付くと、虚ろ気味だった瞳を徐々に大きく開いていった。いつもと違い、頬の血色がよく見える。夜風と交じり酒の匂いも漂ってきた。
「お食事はご一緒にと思いまして。・・・もしかして、もうお済でしたか?」
「すみません。今日は上客の方のご厚意で夕食は外で取ってきました」
「そうでしたか・・・」
「駄目ですね。これからは、八千さんがいるからお断りしないと」
「お、お仕事なら仕方ありません」
ほら、若旦那様はお優しい。不安になることなんてない・・・。
そう思っているのに、泳いだ視線に気づかれたくなくて、何度も瞬きを繰り返していた。
「どうかしましたか?」
「いえ、特には・・・」
「なにか困りごとがあったら遠慮せずに話して下さいね。夫婦になるんだから、隠しごとはなしですよ」
部屋の中に夜風が舞い込み、ろうそくの火を消してしまった。月が雲に隠れた暗闇に、一人だけ引きずり込まれそうになる。
「若旦那様は、その・・・八千のことを、どうお思いでしょうか」
「えっ?どうというのは?」
「・・・好いて、くれているのでしょうか」
ろうそくの火と同じくらいに、危うい声が出た。
「もっもちろん好きですよ!」
震えかけた唇で「本当ですか?」と尋ねると、若旦那様に包み込まれるように抱きしめられていた。初めて招かれた腕の中で息が止まりそうになった。
「全く。可愛らしいお方だ・・・」
着物越しからもその熱が伝わってくる。手をどうすればいいのかわからず、若旦那様の紺色の着物に触れてみた。
「不安にさせてしまってすみません」
「あの、婚儀の話しですが・・・・私は早めていただいても構いません」
「でも前々から八千さんが二十歳になってからということだったので」
雪華さんの話を信じているわけではない。でも早く若旦那様の物にならなければと、私を焦らせた・・・。
『契り』は絶対だと、お母様は話してくれた。なにが訪れようと私と壷玖螺の当主は結ばれる運命にあると。でも、もし若旦那様が違う人を選んだら・・・私はどうなるの?
――私は、妖の姿に戻ってしまうかもしれない。
抱きしめられている腕の中で、若旦那様の瞳の奥を見つめた。
「・・・そんな目で見ないで下さい。僕は」
「すみません。迷惑をかけるつもりではなく・・・ただ、ただ。早く若旦那様と夫婦になりたいと」
若旦那様の着物をぎゅっと握った。すると、低くなった声が落ちてきた。
「そだな・・・。着替えを、手伝ってもらって良いですか」
若旦那様は私の手を部屋の中まで引いた。部屋には既に布団が敷いてある。胸の奥がドクンと重たくなった。ろうそくの灯りをつけようとすると、それはいらないと掠れた声が聞こえた。
どうすればいいか、立ち尽くしていると若旦那様の両手が私の肩に触れた。肩から、腕へとまるで私の存在を確かめるようにゆっくりと手を這わせていく。手まで下りてくると、両手を包み込まれるように握られた。そして、私の手元は固く結ばれた帯へ導かれた。
「ゆっくりでいいですよ」
熱を持った声に身体が震えそうなり、唇を強く結んでいた。
腰に巻かれた帯はとても硬くて、解くのに時間がかかってしまった。近くで感じる若旦那様の視線に緊張し、手が思うように動かない。やっと着物も脱がし終えると、お酒と混ざり白粉の匂いが漂ってきた。
「八千さん・・・」
長襦袢姿の若旦那様が、私の結っていた髪飾りを取った。腰まである黒い髪が解かれた。頭をなでていく。濡れた唇に若旦那様の指が触れ身体が飛び跳ねた。ゆっくりと形を確かめるように、指先が触れていく。くすぐったいような感覚。何度かそれを繰り替えされ、私は刺激に耐えようと目を閉じた。
「んっ・・・」
閉ざされた視界の中で感じるのは、柔らかな若旦那様の指の感触のみ。髪を撫で上げたかと思うと、今度は腰当たりに手を添えられた。
「わっ、わか……だんなさま」
若旦那様に触れてもらえて嬉しいはずなのに・・・。さっきまであれほど望んでいたのに。
身体が小刻みに震え始めている。若旦那様の指先が唇から離れていく。
「すみません。・・・今晩は、少し飲み過ぎたようで」
若旦那様の気配が遠のいった。目を開けると、がらんどうの部屋が広がっていた。風呂に入ると言い残し、そのまま出て行ってしまった。
一人きりその場に座り込んだ。まだカタカタと震えている身体。必死で止めようと力を入れるけれど、全く止まらない。
やっと触れようとしてくれたのに。夫婦になるなら、当然のこと今更なにを恐れているの・・・。安堵している自分が情けない。
雲に隠れていた月がようやく姿を現したのに、心だけが暗闇に取り残されているようだった。
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