第5話 徒惚れ
屋敷に来て数日が経とうとしていた。蕾だった桜もようやく花を咲かせ始めた。
「では、行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ」
若旦那様を玄関までお見送りに行き、正座をしながら草履をはき終えるのを待った。若旦那様が頬をかきながら私へ視線を向けた。
「今日の着物、八千さんによくお似合いだなと思って」
息を吐くように微笑む若旦那様の言葉に、春の陽気さが胸に舞い込むようだった。
「ありがとうございます。先日、若旦那様にご用意していただいた内の一つです」
「そうでしたか。八千さんはお綺麗だから選びがいがあります」
「そっそんなことありません。若旦那様が選ぶのがお上手だから」
「良かったら今度――」
「若旦那様~準備は出来ましたかー?」
若旦那様がなにやら言いかけると、門扉の向こう側から声が飛んできた。肩をすくめる仕草をし、眉を下げて笑った。
「帰ったら、また話しますね」
「はい。いってらっしゃいませ」
ピシャリと玄関が閉まった。
若旦那様が褒めて下さったのは、柔らかな生成色の鮫小紋だった。一人になった廊下で口元がほころんでいた。
部屋に帰る途中、塀の向こう側に咲いている桜に気がついた。庭には黄色の菜の花も咲き始めている。
「あら、鶯だわ。ここでも鶯の声が聞けるなんて」
春の訪れを感じながら、故郷の山の方を見つめた。
少しづつ日々の生活に慣れてくる一方で、時間を持て余すことも増えてきた。
「八千様、お茶の用意ができましたよ」
「ありがとうございます。いただきます」
昼過ぎ頃、使用人のお梅さんが私の部屋にやって来た。私の身の回りのお世話をしてくれて、困ったことがあればお梅さんに聞くようにと言われている。
「そうだ、八千様。若旦那様からなにか欲しい物があれば、買い添えるように言われているのですが。なにかございますか?」
「欲しい物・・・ですか?」
「はい。例えば~そうですね、新しいお召し物や、町で流行りの鼈甲細工などはご興味ありませんか?」
「・・・すみません。すぐに思いつかなくて。考えておきます」
開けたままの障子から、風に乗って桜の花びらが迷い込んできた。
「あの、あとで庭に出てもいいかしら」
「もちろんです。屋敷内であればどう過ごしていただいてもかまいませんよ」
「ありがとうございます」
「ただ・・・」
「どうかしましたか?」
「北側の一番奥の部屋には、決して近づかないようにしてください」
「北側の部屋ですか?なにかあるのですか?」
お梅さんは誰もいないのに、辺りを気にしていた。口元を手で隠し、潜ませた声で耳打ちする。
「病持ちの下女がおります。八千様に移ったら大変です」
「それはお気の毒に」
「絶対に行ってはいけませんよ」
「わかりました」
「それと、今夜は若旦那様のお帰りが遅いようなので、ご夕食は先に済ませて欲しいとのことでした」
「えっ今日もですか・・・?」
「繁忙期なので、なにかとお忙しいようです」
このとことお帰りが遅い日が続いている・・・。身体に差し障りないといいけれど。
婚儀の話しも予定通り私が二十歳になるまで、待ついうことになった。
私と若旦那様が結婚の日を迎えることで、お母様と吉右衛門様の『契り』が果たされる。
・・・早く契りを果たさなければと思っていたのに、どこかほっとしてしまっている。こんな風に思ってしまうなんてだめよね。
□□□
庭に出ると、木に止まる鶯を見つけた。
仲間が飛ぶ練習をしているときに、私は人に化ける練習をした。最初は一日数時間も続かなかった。次第に妖の姿よりも、人の姿でいる時間の方が長くなった。今では飛ぶことも、あの姿に戻ることもできない・・・。
「やっぱりあったわ。ふふふ、なんだか懐かしい」
庭園を歩き回り、ようやく探していた池を見つけることができた。
初めてこの屋敷に来た日。お母様と吉右衛門様の話しに、退屈になった私は庭をうろついていた。この池で泳いでいた金の鯉が珍しくて、つい夢中に覗き込んでいたんだわ・・・。
――『そんなに覗き込んで危ないだろう』
それが若旦那様との初めての出会いだった。あのときは少し怖いと感じたけれど。まだ話すことも覚束ない私と一緒に遊んでくれた。
金の鯉はまだいるのかしら?
あのときと同じように池を覗こうとすると、太陽が池に反射し一瞬目が眩んだ。
――『大丈夫か?』
――『すりむいたりしていないか?痛いところは』
朧げな記憶の中で男の子の声が聞こえてくる。
「あら、八千さん」
私を呼ぶ声に、身体が石のように動かなくなった。恐る恐る振り返ると、やはりそこには雪華さんの姿があった。昼間だと言うのに浴衣を着ている。浴衣の紫陽花柄がやたらと大きく見える。この香雲の景色に似つかわしくない装いをしていた。
「雪華さん?」
「まぁ嬉しい。覚えてくれていたんですね。ゴホッホゴッ」
「・・・体調が優れないご様子ですが。大丈夫ですか?」
「えぇ。いつものことだから。ゴホッ……気にしないで」
気にしないで、というわりには咳き込んでいる。辺りを見ると、先ほどまで松の木を剪定していた庭師の姿がいなくなっていた。
雪華さんは身体を左右に揺らしながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「素敵なお召し物ね」
「これは若旦那様が選んで下さった物です」
「まぁ、そうなの。羨ましいわ」
また舐めるように私を見ている。頬骨がなく、ぎょろりと大きな目は、蛇を思い出させた。目が合うのを避けたくて、私は水面と地面を交互に見た。
「ねぇ、八千さんは蒼蜀様に嫁ぎにきたのよね」
「・・・はい」
「でも、まだ婚儀は進めないのかしら。結納もまだでしょ?」
「それは、私が二十歳になってからと・・・。元々そういう約束でしたから」
池の周りにある砂利に躓きそうになりながらも、その音は次第に近づいてくる。
「へぇ、だったらもう、蒼蜀様に愛されたのかしら?」
「愛さ、れる・・・?私たちは夫婦になるのです。そんなことずっと前から」
「ふふふ。違うわよ」
「・・・?」
「愛されるっていうのは女としてってこと。――夜の方はもうすんだのかしら?」
ぬめりを持った言葉が耳から入り込んできた。一瞬、口を押えつけられたのか、と思うほどに息ができなくなっていた。
強い風が庭を駆け抜けて行くと、先ほどまで落ち着いていた水面に大きな波紋が広がっていく。
「だって夫婦になるんでしょ?婚儀の前にせよ本当に愛していたら、早く自分の物にしてしまいたいと思うのが男だもの」
その口元は薄っすら笑みを浮かべるているようだった。
「どうしたの?顔真っ青よ」
「いえ・・・そんなことは」
言葉につまり、首を横に振った。
「もしかして、まだお済じゃないの?・・・ごめんなさい!私ったら余計なことを・・・蒼蜀様はあぁ見えて、手が早いと聞いていたからてっきり」
雪華さんは、へぇとかふ~んと零し私の反応を伺っているようだった。聞いてもいないのに、薬の時間だと言いながら屋敷へと戻っていく。
その場に座り込み、力が抜けた身体を両手で抱えた。
私はここにきて、一度だって若旦那様に触れられたことなんてない・・・。その気配すらもない。若旦那様は私のことをどう思っているのだろうか。
先ほどの風で落ちてきた桜の花びらが、池の中へと沈んでいく――。
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