第十章 静かな別れの予感

午後十一時。

紘一が車で帰路についたとき、夜の帳はすっかり降りていた。

車内には、まだ美幸の温もりが残っている気がした。

何度も抱きしめ、唇を重ねたあの時間は、紘一にとって人生の中でも特別で、かけがえのない瞬間だった。

——このまま続いてほしい。

そう願いながらも、その願いは胸の奥に押し込めた。

その日から、ふたりは毎日LINEを交わした。

美幸の方から「先生、電話で話そう」と誘われることもあり、週に二、三度は声を聞いた。

笑い声、悩み、大学での出来事。

美幸の生活が少しずつ彩りを増していくのを、紘一は心から嬉しく思った。

二週間後、紘一は再び美幸の部屋を訪れた。

次は三週間後、そして一か月後。

訪れるたびに、美幸は確かに成長していた。

友達ができ、バイトを始め、部活にも入った。

日々が忙しくなり、充実していく彼女の生活の中で、紘一の存在は少しずつ小さくなっていった。

それは、紘一にとって望んでいたことでもあった。

——美幸が、自分を必要としなくなること。

それは彼女が、自分の人生を歩き始めた証なのだから。

けれど、心はそう簡単に割り切れなかった。

紘一の中は、美幸でいっぱいだった。

笑顔も、声も、仕草も——そのすべてが胸に刻まれていた。

——でも、自分はいない方がいい。

年齢差。

将来。

何より、美幸の可能性を狭めてしまうことが怖かった。

だから紘一は決めた。

もう、美幸の部屋へは行かない。

電話もできるだけ避けよう。

ただ、美幸が不安に思わぬよう、しばらくはLINEだけは続けよう。

やがて、そのやり取りも少しずつ間隔を空けていった。

毎日だったものが、三日に一度となり、一週間に一度に。

そして二週間に一度となり、最後には月に一度だけになった。

気づけば、美幸からの連絡は途絶えていた。

それは、おそらく自然な流れだったのだろう。

美幸の心から、自分の存在が少しずつ薄れていったのかもしれない。

それでも紘一は、ただ彼女の幸せを願った。

——これでいい。

そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥には言葉にならない寂しさが静かに広がっていった。

窓の外では、春の風が吹き、カーテンを揺らしていた。

まるで、何かを終わりへと運び去るかのように。

あの日、美幸が「ファーストキス、奪われちゃった」と笑った声が、不意に耳に蘇る。

紘一は目を閉じ、そっと呟いた。

「……ありがとう、美幸」

それは、誰にも届かない、静かな別れの言葉だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る