第九章 知らない街の窓辺で
美幸が進学した大学は、紘一の地元だった。
それは偶然のようでいて、どこか運命のいたずらのようでもあった。
けれど美幸にとっては、まったく知らない土地。
駅前の風景も、スーパーの並びも、バスの時刻表も、すべてが初めてだった。
引っ越しを終えた美幸は、紘一とLINEで毎日連絡を取り合っていた。
「スーパーまでちょっと遠いから大変」
「バス停まで歩くと、結構時間かかるんだよね」
「バスの定期、どこで売っているかわかんない」
そんな言葉の端々に、不安が滲んでいた。
一人暮らしがちゃんとできるのだろうか。
この土地になじめるのだろうか。
大学で友達ができるのだろうか。
美幸は、期待と不安の間で揺れていた。
紘一は、その揺れを感じ取っていた。
そして、ある夜、スマホを手にして言った。
「今度の日曜日、そっちに行こうか」
一人暮らしの女性の部屋へ行くことに、紘一は少し抵抗を感じていた。
けれど、美幸はすぐに「来てほしい」と言った。
その言葉に、迷いは消えた。
日曜日、紘一は早朝に車を走らせた。
高速道路を抜け、午前9時半には美幸の部屋に着いた。
小さなワンルーム。まだ段ボールがいくつか残っていた。
「先生、来てくれてありがとう」
「うん。こっちの街、案内するよ」
紘一は、地元の地図を広げながら、スーパーの場所、病院、図書館、バス停の位置を説明した。
「この辺は夜静かだけど、駅前は学生が多いから安心だよ」
「このスーパーは火曜が特売日。あと、ポストはここ」
美幸はメモを取りながら、何度も頷いた。
「先生がいると、なんか安心する」
昼過ぎには車で町中をドライブした。
大学のキャンパス、最寄りの駅周辺、川沿いの遊歩道。
美幸は窓の外を眺めながら、「ここ、好きかも」と言った。
夕方、ふたりは再び美幸の部屋へ戻った。
カーテン越しに射し込む夕陽が、部屋を淡い色に染めている。
時間的には、そろそろ帰らなければならない。
それでも紘一は、この場を離れたくなかった。
美幸もまた、その思いを感じ取っているように、何も言わず隣に座った。
ドラマをつけたものの、紘一には内容がまったく入ってこない。
胸の奥で鼓動が暴れ、耳に響いている。
――この時間が、終わらなければいい。
そんな願いが、抑えきれずに滲み出ていた。
ふと視線を横に向けると、美幸の横顔が目に映った。
夕陽に照らされた頬がほんのり赤く、息を呑むほどに愛おしかった。
目が合った瞬間、紘一の呼吸は止まる。
美幸の心臓もまた跳ね上がった。
なぜか目を逸らせない。
胸がざわつき、言葉を探そうとしても出てこなかった。
沈黙の中、紘一はゆっくりと顔を近づけた。
頭の中は真っ白で、ただ心臓の鼓動だけが響いている。
美幸もまた抗うことなく受け入れ、瞳を閉じた。
そして、唇が触れ合った。
わずか数秒――けれど永遠にも感じられる時間だった。
唇を離すと、ふたりは見つめ合った。
美幸が、恥じらいを隠すように小さく笑った。
「ファーストキス、奪われちゃった」
その声にも、かすかな震えが混じっていた。
紘一は鼓動を抑えきれぬまま、小さく笑い返した。
「……奪っちゃった」
ふたりの視線が再び重なる。
胸の奥に溢れる高鳴りを確かめ合うように、静かに微笑み合った。
紘一はそっと腕を伸ばし、美幸を抱き寄せた。
美幸は小さく息をのみ、そのまま紘一の胸に顔をうずめる。
耳もとで、早鐘のような鼓動がはっきりと伝わってきた。
「……先生、心臓がすごいドキドキしているよ」
囁くような声に、紘一は言葉を返せず、ただ小さく息を吐いた。
ふたりの間に言葉はいらなかった。
胸の奥に残る温もりと鼓動だけが、確かなものとしてそこにあった。
窓の外では、春の風がそっとカーテンを揺らしていた
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