第八章 春の訪れ

約3か月前の12月、紘一は美幸に初めてのプレゼントをした。

教室での何気ない会話の中で、美幸がふと「先生、クリスマスプレゼントが欲しい」

と笑いながら言ったのだ。

欲しいものは、一冊の雑誌。46歳になっても若さと美貌を保ち続ける女優の特集号だった。

女子高に通い、運動部で活躍してきた美幸には、それまでおしゃれに関心を持つ雰囲気はなかった。

けれど、大学進学を前にして少しずつ世界を広げようとしていたのかもしれない。

「いいよ」と答えて、紘一はすぐに注文した。

二日後には手元に届き、塾にやって来た美幸にそっと手渡す。

「えっ、本当に!? ありがとう!」

雑誌を受け取った美幸は、子どものように目を輝かせ、すぐにページを開いた。

「見て、この女優さん! 本当に綺麗。全然歳を感じさせないんだよ」

夢中になって女優の魅力を語るその姿を見て、紘一の胸は静かに温かく満たされた。

——それは、小さな贈り物でありながら、紘一にとって確かな記憶となった。


合格発表の日。

スマートフォンが鳴った。

画面には「美幸」の名前。

「先生、奇跡が起こった」

紘一は一瞬、言葉を失った。

「合格した?」

「した」

「どっち?」

「両方」

沈黙のあと、紘一はゆっくりと答えた。

「……おめでとう。よかった」

電話の向こうで、美幸が笑った。

「後で教室行くね」

紘一はスマートフォンをそっと置き、窓の外を見た。

春の気配が、ほんの少しだけ、風に混じっていた。

教室の扉が静かに開き、美幸が顔をのぞかせた。

「先生、来たよ」

その声は、春の風のように柔らかく、けれど確かな足取りで紘一の胸に届いた。

「合格、改めて報告に来ました」

そう言って、美幸はいつもの席に腰を下ろした。

机の上に手を置き、少し照れたように笑う。

「向こうに引っ越して、一人暮らしするの」

「時間がないから、大変だよね」

「うん。引っ越しまで、あと二週間くらい。バタバタすると思うけど、楽しみ」

紘一は頷きながら、心の奥に小さな痛みを感じていた。

——今日が、最後かもしれない。

そう思うと、言葉の選び方に慎重になる。

「明後日、塾は休みなんだよね」

「そうなんだ」

「……もう一度、一緒にドラマ見ない?」

紘一の言葉に、美幸の顔がぱっと明るくなった。

「いいよ、もちろん!」

そして、ふたりは再び並んで座り、ドラマの世界へと没入した。

笑い、涙し、時に沈黙を共有しながら、ほぼ半日が過ぎていった。

時間は、まるで存在しないかのように、静かに流れていた。

物語が終わり、教室の空気が少しだけ重くなる。

美幸は立ち上がり、コートを羽織った。

「ありがとう、先生。今日も楽しかった」

玄関まで歩き、靴を履いた美幸が、ふと振り向いた。

そして、何も言わずに手を広げた。

紘一は一瞬戸惑いながらも、そっとその腕の中に身を寄せた。

短く、けれど確かな温もりがそこにあった。

「じゃあね」

美幸は微笑み、自転車にまたがった。

ライトが灯り、彼女の背中が夜の街へと消えていく。

紘一は玄関に立ち尽くしながら、静かに呟いた。

「……行ってらっしゃい、美幸」

その言葉は、風に乗って、彼女の背中に届いたかもしれない。

そして、教室には、ふたりが過ごした時間の余韻だけが、静かに残っていた。

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