第3話

『灰の不毛地』に足を踏み入れた瞬間、私は肌で感じた。空気が重い。生命の喜びを拒絶するような、淀んだ気配が大気に満ちている。まるで粘度の高い液体の中を歩いているかのような息苦しさがあった。これが、この土地を蝕む呪いの正体なのだろう。


私たちが案内されたのは、広大な不毛地の中心にぽつんと建つ、一軒の古びた管理小屋だった。石と木で造られた簡素な建物で、屋根には風雨に耐えかねたいくつかの穴が開き、窓ガラスは割れて見る影もない。扉は傾き、隙間風が常にひゅうひゅうと寂しい音を立てている。お世辞にも、人が住める状態とは言えなかった。


「……ひどいな。これが公爵家の所有物とは」


私の隣で、アレクセイ様が忌々しげに呟いた。彼の部下の騎士たちも、言葉を失ってあたりを見回している。彼らがこれまで見てきたどんな過酷な戦場とも違う、生命そのものが拒絶された土地の光景に、歴戦の猛者たちでさえ顔を曇らせていた。


「今夜は野営の準備をさせよう。明日、部下を一番近い町にやって、最低限の修繕道具と食料を調達させる」


「ありがとうございます、アレクセイ様。ですが、お気遣いなく。私一人で何とかします」


「一人で何とかする? この状態でか?」


彼の声に、わずかに苛立ちの色が滲む。それは私に対するものではなく、私をこんな場所に追いやった者たちへの怒りなのだろう。


「はい。まずは、この小屋の周りから、少しずつ住めるようにしていきますから」


私の楽観的な言葉に、アレクセイ様はため息をついた。その時、遠巻きに私たちの様子を窺っていた人影がいくつかあることに気づいた。おそらく、この土地に住む数少ない村人たちだろう。


彼らは皆、痩せて、土の色と同じようなぼろぼろの服を着ていた。その目は、長年の苦労と絶望に色を失い、私たち新しい来訪者に対して、何の期待も抱いていないようだった。むしろ、警戒心と諦めがその表情から見て取れる。これまでにも、何度か役人や聖職者が訪れては、この土地の有様に匙を投げて帰っていったのかもしれない。


「彼らが、ここの領民か」


「領民、というほど立派なものではありません。ただ、先祖代々の土地を捨てられずに、へばりついているだけの者たちです」


答えたのは、村の長老らしい、腰の曲がった老人だった。彼はゆっくりと私たちに近づいてきて、深々と頭を下げた。その皺だらけの顔には、この土地の厳しさが刻み込まれている。


「新しい管理人様だとお聞きしました。しかし、このようなお若いご婦人がいらっしゃるとは……。すぐに王都にお帰りになられた方が、ご自身のためでございますよ。この土地は呪われております。何者も、この大地から恵みをいただくことはできませぬ」


その言葉には、長年この土地で生きてきた者の、重い実感がこもっていた。他の村人たちも、同意するようにこくこくと頷いている。彼らの目には、憐れみの色が浮かんでいた。また一人、現実を知らない夢見がちな貴族がやってきた、とでも思っているのだろう。


「ご忠告ありがとうございます。ですが、私はここに残ります。そして、この土地を蘇らせてみせます」


私の力強い宣言に、長老は驚いたように顔を上げた。しかし、その目にはすぐに諦めの色が戻る。若い貴族の令嬢が、現実を知らずに夢物語を語っているとしか思えなかったのだろう。


村人たちはそれ以上何も言わず、それぞれの掘っ立て小屋へと戻っていった。彼らの背中が、この土地の厳しさを何よりも雄弁に物語っていた。


「……本当に、一人でやれると思っているのか?」


アレクセイ様が、静かに問いかけてきた。


「はい。見ていてください」


私はそう言うと、鞄から薬草の種が入った袋を取り出し、管理小屋のすぐそばの地面に膝をついた。ごつごつとして、ひび割れた灰色の土。触れると、ひんやりと冷たく、生命の温もりが全く感じられない。


私は目を閉じ、両手を地面につけた。そして、意識を集中させる。私の体の奥底から、温かい光が湧き上がってくる。前世の瑞希だった頃にベランダで育てていた、色鮮やかなハーブ園の記憶。ラベンダーの紫、カモミールの白、ミントの鮮やかな緑。あの生命力に満ちた光景を、強く、強くイメージする。その全てを、この光に乗せて、大地へと注ぎ込んでいく。


(お願い。目覚めて)


心の中で、大地に語りかける。


(あなたは、病んでいるだけ。本当は、たくさんの生命を育む力を持っているはず。私が、その手助けをするから)


私の手から溢れ出した緑色の光が、ゆっくりと地面に染み込んでいく。それは、大海に注ぐ一滴の雫のような、本当にささやかな力かもしれない。でも、私は諦めなかった。


どれくらいの時間が経っただろうか。目を開けると、私の手の周りの土が、ほんのわずかに、黒みを帯びて潤っているように見えた。


「……これは」


背後で、アレクセイ様が息を呑むのがわかった。


私は、その黒い土に、持ってきたタイムの種を数粒、丁寧に蒔いた。そして、水筒に残っていた貴重な水を、そっと注ぐ。


「今日は、ここまでですね」


立ち上がると、どっと疲労感が押し寄せてきた。浄化の力を使うのは、思った以上に体力を消耗するらしい。ふらついた私の体を、アレクセイ様の腕がそっと支えてくれた。


「君は、一体……」


アレクセイ様が、何かを言いかけたその時だった。彼の部下の一人が、慌てた様子で駆け寄ってきた。


「団長! アレクセイ様!」


「騒がしいぞ。どうした」


「それが……馬が、数頭、急に暴れ出して……!」


騎士が指差す方を見ると、騎士団の馬のうちの数頭が、苦しそうにいななきながら地面を掻き、暴れているのが見えた。口から泡を吹き、目は血走っている。他の騎士たちが必死でなだめようとしているが、全く手がつけられない様子だ。


「この土地の呪いに当てられたのかもしれません!」


騎士の一人が叫ぶ。村人たちも、不安そうに遠くからその様子を見ている。「やはり呪われているのだ」と、彼らの目が語っていた。


「私が、見てみます」


私は、アレクセイ様の制止を振り切り、暴れる馬へと近づいていった。


「危ない! 近づくな!」


アレクセイ様の鋭い声が飛ぶ。しかし、私は構わずに馬のそばへ寄った。馬は私に気づくと、赤い目を剥いて威嚇してくる。


「大丈夫。怖くないわ」


私は優しく語りかけながら、ゆっくりと手を伸ばし、馬の鼻筋にそっと触れた。馬は一瞬びくりと体を震わせたが、逃げようとはしない。私はその感触から、馬が何に苦しんでいるのかを理解した。


(毒草……。この土地に生えている、わずかな草を食べたのね)


この灰色の土地にも、ごくまれに、強い毒性を持つ植物が岩陰などに生えていることがあるらしい。空腹だった馬が、それを口にしてしまったのだろう。


私は馬の鼻筋を撫でながら、浄化の力を流し込んだ。体内に回った毒を、中和していくイメージで。温かい光が私の手から馬の体へと伝わっていく。


すると、あれほど荒々しく暴れていた馬が、嘘のように大人しくなっていった。苦しげだった呼吸も、徐々に穏やかさを取り戻していく。やがて、馬は私の手にすり寄るようにして、甘えたような声を漏らした。


同じように、他の暴れていた馬たちも、私が触れると次々とおとなしくなっていった。


その光景を、騎士たちも、村人たちも、そしてアレクセイ様も、呆然と見つめていた。


「……君は、何者なんだ」


アレクセイ様が、絞り出すような声で言った。その青い瞳には、初めて見る強い光が宿っていた。それは、驚きと、戸惑いと、そして抑えきれないほどの強い興味の色だった。


「私は、エリアーナです。ただの、薬師の卵ですよ」


私が微笑むと、彼は何も言えなくなったようだった。


その夜、騎士たちは小屋の近くで野営し、私はアレクセイ様のご厚意で、彼の個人用の大きな天幕を使わせてもらうことになった。ふかふかの寝具が用意されていて、久しぶりに手足を伸ばして眠ることができそうだった。


夕食も、騎士団の携帯食を分けてもらった。干し肉と固いパンだけだったけれど、公爵家で一人で食べていた豪華な食事よりも、ずっと美味しく感じられた。


食事を終えた後、アレクセイ様が私の天幕を訪ねてきた。


「体の具合はどうだ? 昼間、力を使ったようだが」


「はい、大丈夫です。少し疲れただけですから」


「そうか」


彼はそれだけ言うと、黙り込んでしまった。天幕の中を照らすランタンの光が、彼の整った顔に深い陰影を作っている。


「……君のその力は、一体なんなんだ」


しばらくして、彼がぽつりと言った。


「私の力、ですか?」


「ああ。動物を癒やし、あるいは……大地さえも癒やすかのような、不思議な力だ」


「自分でも、よくわからないんです。でも、私はこれを『浄化』の力だと信じています。汚れたもの、病んだものを、本来の姿に戻す手助けをする力なのだと」


「浄化……」


アレクセイ様は、その言葉を繰り返した。そして、何かを決心したように、私をまっすぐに見つめた。


「エリアーナ嬢。君に、頼みがある」


「私に、ですか?」


「ああ。実は、私も……ある種の呪いを、その身に受けている」


彼の告白に、私は息を呑んだ。氷の公爵と呼ばれる彼が、呪いを受けている?


「私のこの力……氷の魔力は、あまりにも強大すぎる。常に体内で暴走しようとして、私の体を内側から蝕んでいる。一瞬でも気を抜けば、周りのものすべてを凍らせてしまうだろう。だから、私は常に魔力を抑え込み続けなければならない。それは、終わりのない苦痛だ」


彼の声は淡々としていたが、その奥に、長年にわたる彼の苦しみが滲んでいるのがわかった。


「だが、不思議なことに、君のそばにいると、その苦しみが和らぐんだ。荒れ狂う魔力が、凪いでいくのを感じる。あの書斎で初めて会った時から、ずっと感じていた。君の近くでは、空気が澄んでいるように思えた。今日の昼、君が大地を浄化した時、そして馬を癒した時、その感覚は確信に変わった」


「……!」


「だから、頼む。しばらくの間でいい。君のそばに、いさせてはもらえないだろうか」


それは、この国で最も強く、最も孤高だと言われる男からの、悲痛な願いだった。疎まれ続けたこの力が、誰かを救えるのかもしれない。それも、こんなにも強く美しい人を。


「もちろんです」


私は、迷わず答えた。


「私でお役に立てることがあるのなら、喜んで。アレクセイ様の力が、少しでも安らぐように、お手伝いさせてください」


私の言葉に、彼の凍てついた瞳が、わずかに揺らぐ。そして、ほんの一瞬だけ、彼の口元に、笑みのようなものが浮かんだように見えた。


翌朝、奇跡は起こった。


私が昨日、タイムの種を蒔いた場所に、小さな、しかし力強い緑色の双葉が、いくつも顔を出していたのだ。


灰色の、死んだ大地から、新しい生命が芽生えた瞬間だった。


「……芽が出てる」


「本当だ……!」


「馬鹿な、この土地で、草が育つなんて……」


その光景に、最初に気づいたのは村人たちだった。彼らは信じられないといった様子で、小さな双葉を遠巻きに囲み、ざわついている。騎士たちも、驚きの声を上げていた。


やがて、村人の中から、一人の少年が駆け寄ってきた。年は十歳くらいだろうか。その手には、古びた木製の椀が握られている。


「あ、あの……!」


少年は、私の前で意を決したように声を張り上げた。


「あんた、薬師なんだろ!? だったら、母ちゃんの病気を治す薬を作ってくれよ!」


少年の目は、涙で潤んでいた。その必死な様子に、周りの大人たちが「こら、レオ! やめなさい!」と止めようとする。


「管理人様に向かって、なんて無礼な!」


「いいんです」


私は、大人たちを制して、少年の前にしゃがみこんだ。


「お母様が、ご病気なの?」


「うん……。ずっと咳が止まらなくて、熱も下がらないんだ。村の薬じゃ全然効かなくて……。もう、何日もまともに食べられてないんだ。このままじゃ、母ちゃん、死んじゃうよ!」


私は少年の頭を優しく撫でた。


「わかったわ。私に任せてちょうだい。きっと、あなたのお母様を助けてあげる」


その言葉を聞いて、少年の顔がぱっと明るくなる。


そのやり取りを、少し離れた場所から、アレクセイ様が静かに見つめていた。彼の周りの空気は、昨日までとは比べ物にならないほど、穏やかで澄み切っているように感じられた。


私の周りに、少しずつ人が集まり始めていた。絶望しきっていた彼らの目に、かすかな希望の光が灯り始めている。私の本当の人生が、今、この場所から始まろうとしていた。

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