第4話

「こっちだ、聖女様!」


私を「聖女様」と呼んだ少年に、私は少し困ったように微笑み返した。彼の言葉にどう応えるべきか、一瞬迷ってしまう。


「私の名前はエリアーナよ。そう呼んでくれると嬉しいわ」


「う、うん……エリアーナ様!」


元気よく頷いた少年は、レオと名乗った。その小さな手は、長年の土仕事で硬くなっている。こんな幼い子供まで働かなければ生きていけない。それがこの土地の現実なのだろう。


彼に案内されて向かった掘っ立て小屋は、村の中でも特に小さく、今にも崩れ落ちそうだった。壁の隙間からは灰色の風が吹き込み、家の中は外と変わらないほどに寒い。その薄暗い土間の隅に、わずかな藁を敷いただけの寝床があった。そこに一人の女性が横たわっている。レオ君のお母さんのリナさんだ。


彼女はひどく痩せこけ、頬は落ち窪んでいる。閉じられた瞼は青白く、浅い呼吸を繰り返すたびに、鎖骨が痛々しく浮き上がった。時折、胸をかきむしるように激しく咳き込む姿は、見ているこちらの胸が締め付けられるようだった。


「母ちゃん……」


レオ君が不安そうな声で母親に駆け寄る。その小さな背中が震えていた。


「大丈夫よ、レオ君。私が必ず、お母様を楽にしてさしあげますから」


私は彼の小さな肩をそっと抱いて安心させると、リナさんのそばに膝をついた。冷たい土の感触が、薄いドレス越しに伝わってくる。


「リナさん、聞こえますか? 私はエリアーナと申します。少し、診せていただけますか?」


私の声に、リナさんは虚ろな目をゆっくりと開けた。光のない瞳が私を見上げ、何かを言う代わりに小さく頷く。私はまず、彼女の額にそっと手を触れた。焼けるような高熱が、私の掌に伝わってくる。次に、前世の知識を思い出しながら、彼女の背中に耳を当てた。ゼーゼー、ヒューヒューという苦しそうな呼吸音。胸の中で、粘り気の強い痰が絡まっているのが分かる。


これは重い気管支炎か、あるいは肺炎に近い症状だった。この世界の医療水準と、劣悪な衛生環境を考えれば、命に関わる状態であることは明らかだった。


私が「いつからこの状態が?」と尋ねると、付き添っていた村の長老が重い口を開いた。


「もう一月以上になりますかな。最初はただの風邪じゃろうと思っていたんじゃが、日に日に悪くなる一方で……。この土地には、まともな薬草も育ちませぬからな。できることといえば、熱を冷やすために濡れ布を当てるくらいで……」


長老の言葉に、周りを囲んでいた村人たちも暗い顔で頷く。彼らの目には、長年の苦労と諦観が深く刻まれていた。


治療には、気管支の炎症を抑え、痰を切りやすくする薬草が絶対に必要だ。しかし、この灰色の土地を見渡しても、そんな都合の良い薬草が生えているとは思えない。どうしたものかと思案していると、背後から静かで落ち着いた声がかかった。


「必要なものがあるなら言え」


振り返ると、いつの間にか小屋の入り口に立っていたアレクセイ様が、心配そうな顔で私を見下ろしていた。彼の存在だけで、この頼りない小屋の空気が引き締まるように感じられる。


「騎士を一番近い町へ走らせる。品書きを渡せば、何でも揃えてこさせよう」


「……よろしいのですか? あなたの騎士団を、私の私用で」


「君は、私の呪いを和らげる唯一の存在だ。君が気にかける者を、私が助けるのは当然だろう。それに、これは私用ではない。領民を救うのは、領主の務めだ」


彼の言葉は有無を言わせぬ力強さを持っていた。私はその申し出をありがたく受け入れることにし、騎士が差し出してくれた羊皮紙と炭を借りて、必要な薬草の名前と特徴を書き出していく。


ユーカリ、リコリス、マーシュマロウ……。この世界での正式な名称が分からないものも多かったが、前世の記憶を頼りに、葉の形や花の色、効能などをできるだけ詳しく書き記した。


「……すごいな。君は薬草学にもこれほど精通しているのか」


私が書いた品書きを覗き込み、アレクセイ様が純粋に感心したように呟く。


「昔、本で読んだ知識が少しだけあるだけですわ」


品書きを受け取ったアレクセイ様は、すぐに副団長らしき屈強な騎士を呼びつけ、命令を下した。


「これに書かれているものを、すべて揃えてこい。多少値が張っても構わん。馬を乗り潰す覚悟で、最短で戻れ」


「はっ!」


副団長は力強く敬礼すると、すぐに数人の騎士を連れて風のように駆け出していった。その迅速で無駄のない対応に、村人たちは何が起こったのか分からないといった様子で、ただただ圧倒されている。


「さて、薬が届くまでの間、応急処置をしましょう」


私は気持ちを切り替えると、昨日芽吹いたばかりのタイムの葉を数枚、慎重に摘み取った。それを近くの井戸で汲んだ清らかな水で綺麗に洗い、お湯を注いで即席の薬草茶を作る。タイムには強い殺菌作用と咳を鎮める効果がある。今のリナさんの体力では、気休めにしかならないかもしれないが、何もしないよりはましだった。


「リナさん、これを少しずつ飲んでみてください」


私は浄化の力をそっと込めた温かい薬草茶を、木の匙で少しずつリナさんの口元へ運んだ。飲む力さえ残っていないように見えたリナさんだったが、数口飲むと、あれほどひどかった咳が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


「……咳が、少し……楽に……」


リナさんがかすれた声で呟くと、そばで固唾を飲んで見守っていたレオ君が嬉しそうな声を上げた。


「母ちゃんの息が、楽になってる!」


その小さな奇跡を目の当たりにし、周りで見守っていた村人たちから、抑えきれないどよめきが起こる。


「すごい……あの雑草みてえな葉っぱだけで……」


「まさか、本当に聖女様なのかもしれん……」


薬草が届くまで、おそらく数日はかかるだろう。その間、私は他の村人たちの手当てもすることにした。リナさんの看病を村の女性たちに任せ、小屋の外に出ると、そこには助けを求める村人たちがいつの間にか列を作っていた。


長年の過酷な労働で痛めた腰、栄養失調で弱った体にできた治りの悪い傷、満足な食事がとれず泣き続ける赤ん坊。彼らの訴えはどれも切実で、この土地で生きることの厳しさを物語っていた。


私は一人一人に声をかけ、丁寧に話を聞いていく。


腰痛を訴える老人には、浄化の力で直接痛みを和らげ、温湿布の作り方を教えた。子供の擦り傷は、浄化した水で綺麗に洗浄し、殺菌作用のあるタイムの葉を潰したものを塗ってやる。栄養失調の者には、アレクセイ様が騎士団から分けてくれた携帯食料を使って、消化が良く栄養価の高い汁物を作って配った。


前世の知識と、この世界で得た浄化の力。その二つが合わさることで、私にできることはたくさんあった。休む間もなく働き続けたが、不思議と疲れは感じなかった。


むしろ、人に感謝され、頼りにされることが、これほどの喜びだとは知らなかった。公爵家で常に疎まれ、誰の役にも立てずに息を潜めて生きてきた私にとって、この日々はまるで夢のようだった。


そんな私の様子を、アレクセイ様は常に少し離れた場所から静かに見守っていた。彼がそばにいてくれるだけで、私の浄化の力はより安定し、澄み渡るような感覚がある。彼の存在は、私にとっても大きな支えになっていた。


「無理はするな」


私が少しでも額の汗を拭うと、どこからともなく現れた彼が、革の水筒を差し出してくれる。


「ありがとうございます」


「礼には及ばん。君が倒れる方が、よほど問題だ」


彼はいつもぶっきらぼうにそう言うが、その凍てつくような青い瞳には、隠しきれない優しさが滲んでいた。


騎士たちの私に対する態度も、日に日に変わっていった。最初は「追放された呪いの令嬢」として遠巻きに見ていただけの彼らが、今では敬意のこもった眼差しを向けてくれる。


「エリアーナ様、水汲みはこちらでやっておきます」


「薪なら、俺たちが集めてきますぜ」


彼らは自発的に私の手伝いを申し出てくれるようになった。氷の公爵と恐れられるアレクセイ様が、私にだけは特別な態度を取るのを見ているうちに、彼らも何かを感じ取ってくれたのかもしれない。


そして三日後。副団長たちが、町から大量の薬草を携えて帰ってきた。土煙を上げて村に駆け込んできたその姿は、まるで戦場からの凱旋のようだった。


「エリアーナ様! ご指定のものです!」


馬を降りるなり、副団長は息を切らしながら薬草が詰まったいくつもの袋を私の前に差し出す。


「ありがとうございます。よくぞ、これだけ集めてくださいました」


中身を確認すると、私が品書きに書いた薬草がほとんどすべて揃っていた。中には非常に高価なものもあったはずだが、アレクセイ様は気にするなとだけ言った。私は早速、薬の調合に取り掛かる。


管理小屋の一角を借り、持参した小さな乳鉢で薬草を丁寧にする。種類ごとに最適な配合で混ぜ合わせていく作業は、前世でハーブをブレンドしていた時のことを思い出させた。最後に出来上がった粉薬に、私は両手でそっと触れる。そして、私の浄化の力をゆっくりと注ぎ込み、薬草が持つ本来の力を最大限まで引き出した。淡い緑色の光が、粉薬を優しく包み込む。


「これを、一日三回、お湯に溶かして飲ませてください」


完成した薬をレオ君に手渡すと、彼はそれを宝物のように大事そうに抱え、母親の元へと走っていった。


それから数日後、リナさんの容態は劇的に改善した。長く続いていた咳は完全に止まり、熱もすっかり下がった。まだ体力は完全に戻っていないものの、自分の足で立ち上がって、レオ君の頭を撫でてやれるまでに回復したのだ。


「エリアーナ様……! このご恩は、一生忘れません!」


すっかり元気になったリナさんとレオ君が、私の前に並んで深々と頭を下げる。その周りには、涙ぐみながら二人を見守る村人たちがいた。


「本当に、ありがとうございました……聖女様!」


誰かがそう叫んだのをきっかけに、村人たちは次々と私の前にひざまずき、祈るように手を合わせた。


「聖女様、どうかこれからも、我々をお導きください!」


「この土地を、我々をお救いください!」


「み、皆さん、顔を上げてください! 私は聖女などでは……」


戸惑う私に、長老が優しい笑みを向けた。その深い皺に刻まれた苦労が、今は安堵に変わっている。


「エリアーナ様。あなたは我々にとって、長い絶望の闇に差し込んだ一筋の光。まさしく、聖女様でございますよ」


村人たちの純粋で、まっすぐな信仰の念。私はそれ以上何も言うことができず、ただ彼らの期待に全力で応えようと心に誓った。


その光景を、アレクセイ様が少し離れた場所から見つめていた。彼の表情は、いつもよりもずっと穏やかで、その青い瞳には確かな温かさが宿っている。まるで、凍てついた氷が春の陽光にゆっくりと溶かされていくかのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る