第2話

追放を言い渡された翌朝、私は侍女に叩き起こされることもなく、柔らかな鳥のさえずりで目を覚ました。

窓から差し込む朝の光はいつもよりずっと明るく、十八年間過ごした灰色の部屋に、ほんの少しだけ色が差したように感じられた。


今日、私はこの家を出て、北の辺境『灰の不毛地』へと旅立つ。

追放。その言葉の響きは重いが、私の心は不思議なほど軽かった。


「荷造りをしないと」


そう呟いて立ち上がったものの、私に持っていくべきものはほとんどない。

この部屋にあるのは、数着の古びたドレスと下着、そして最低限の洗面用具だけ。本棚には父から与えられた歴史書や作法書が埃をかぶって並んでいるが、こんなものを辺境へ持って行っても何の役にも立たないだろう。


前世で愛読していたハーブに関する専門書があればどれほど心強かったことか。

けれど、この世界にそんな便利なものはない。頼りになるのは、日本の会社員だった田中瑞希としての記憶だけだ。


(大丈夫。知識は私の頭の中にある)


私は自分に強く言い聞かせ、数少ない持ち物を小さな革鞄に詰め始めた。ドレスは一番丈夫で動きやすい濃紺のものを選び、残りは全て置いていくことにした。どうせ、辺境の地でこんな動きにくい服は必要ない。むしろ、丈夫な作業着のようなものが欲しいくらいだ。


荷造りをしていると、侍女が一人、音もなく部屋に入ってきた。

彼女はトレイに乗せた簡素な朝食と、小さな革袋をテーブルに置くと、一言も発さずに去っていこうとする。その無言の圧力は、私という存在を早く消し去りたいという屋敷全体の意思のようだった。


「待ってください」


私が呼び止めると、侍女は心底面倒くさそうに振り返った。その目には、昨日までとは違う、あからさまな侮蔑と憐れみが混じっている。


「何かご用でしょうか、エリアーナ様」


もう「お嬢様」とさえ呼ばれなくなった。追放される罪人に対する最低限の呼び方だ。


「出発の準備は、どうなっていますか? 馬車はいつ頃に?」


「さあ。存じ上げません。私は旦那様から、これをエリアーナ様にお渡しするようにとしか」


そう言って彼女が顎で示したのは、テーブルの上の革袋だった。中を覗くと、銀貨が数枚と銅貨が十数枚。これが、アルストロメリア公爵家から私に与えられる、最後の餞別らしい。貴族の令嬢に渡す額としては、あまりにもはした金だ。まるで、厄介払いの駄賃のようだった。


(でも、ないよりはずっといいわね)


私は静かに革袋の口を締め、鞄の奥にしまい込んだ。


「わかりました。ありがとう」


私の落ち着いた声で礼を言うと、侍女は驚いたようにわずかに目を見開いた。そして、すぐに興味を失ったように踵を返し、今度こそ無言で部屋を出て行った。きっと、私が泣きわめいたり、取り乱したりする無様な姿を期待していたのだろう。


一人になった部屋で、私は残された時間を有効に使うことにした。

離れの裏手には、誰にも気づかれないように私がこっそりと世話をしていた小さな花壇がある。そこには、王都では雑草として扱われているけれど、前世の知識では確かな薬効があると知っている植物がいくつか根付いていた。


カモミール、ミント、そして繁殖力の強いタイム。

侍女たちの目を盗み、庭師が刈り取った雑草の山の中から見つけ出し、夜中にこっそりと移植したものだ。私の力で浄化し、世話を続けてきたささやかな私の秘密の庭。


私はドレスの裾をたくし上げ、スカートの内側に縫い付けた小さな布袋に、それらの植物の種を慎重に集めていった。茶色く乾いた小さな一粒一粒に、私の未来が詰まっている。これが、私の新しい人生を始めるための、何より大切な財産になるのだ。


準備を終えて部屋に戻ると、ちょうど迎えの者が来たようだった。


「エリアーナ様、馬車の準備ができました。すぐに出発してください」


扉の外から聞こえるのは、知らない男性の声だった。無遠慮で、事務的な響き。おそらく、今日一日だけ私を辺境まで運ぶ役目の、臨時で雇われた御者なのだろう。


私は最後に部屋を見渡した。

昨日、私の力で蘇った観葉植物が、窓辺で朝日を浴びて青々とした葉を揺らしている。


「元気でね」


小さく声をかけ、私は十八年間過ごした灰色の部屋に、何の未練もなく別れを告げた。


屋敷の裏口に回ると、そこには荷台に幌をかけただけの、粗末な一台の馬車が停まっていた。馬も痩せて毛並みも悪く、お世辞にも手入れが行き届いているとは言えない。公爵家の紋章などどこにも入っておらず、誰が見ても追放される罪人が乗る護送車のような見た目だった。


御者台に座っていたのは、日に焼けた無骨な男だった。彼は私を一瞥すると、面倒くさそうに舌打ちをする。


「あんたがエリアーナ様かい。さっさと乗ってくれ。こんな縁起の悪い仕事、とっとと終わらせてえんだ」


そのあからさまな敵意に、私はもう何も感じなかった。公爵家から追放される「呪われた娘」を運ぶ仕事など、誰もが嫌がるに決まっている。


「お世話になります」


私が静かに頭を下げると、男は少しだけ面食らったような顔をしたが、すぐに興味を失ったようにそっぽを向いた。


私は誰の助けも借りず、一人でよろめきながら荷台に乗り込む。幌の中は薄暗く、乾いた干し草の匂いがした。固い木の板の上に直接座ると、すぐに馬車はガタンと大きく揺れて動き出した。


家族の見送りは、もちろんない。使用人たちの姿も見えなかった。

私は、誰にも惜しまれることなく、静かにこの家を去る。


(それでいい。その方が、ずっといい)


馬車はゆっくりと公爵家の敷地を出て、王都の道を北へと向かって進み始めた。幌の隙間から、見慣れた王都の街並みが流れていくのが見える。華やかで、活気があって、美しい街。でも、私にとっては息が詰まるだけの、豪華な檻でしかなかった場所。


さようなら、私の灰色の世界。


馬車に揺られること数時間。石畳の道はいつしか土の道に変わり、周りの景色も賑やかな街並みから、のどかな田園風景へと移り変わっていた。


荷台の揺れはひどく、体中が痛い。それでも、私の心は不思議と晴れやかだった。幌の隙間から吹き込む風が、草木の匂いを運んでくる。前世で嗅いだ、懐かしい土の匂いだ。


「……あの、御者さん」


私は思い切って、御者台の男に話しかけてみた。


「なんだい」


返ってきたのは、相変わらずぶっきらぼうな声だった。


「あの道端に咲いている黄色い花は、タンポポでしょうか?」


「あ? ああ、そうだな。どこにでも生えてる雑草だ」


「そうですか。でも、あの根は薬になるんですよ。肝臓の働きを助けたり、胃の調子を整えたりするんです」


「……へえ。物知りなんだな、あんた」


男の声から、ほんの少しだけ棘が抜けたような気がした。


「昔、少しだけ本で読んだことがあるだけです。あちらの、紫色の花は?」


「ありゃ、アザミだな。トゲがあって厄介なだけだ」


「アザミも、薬になるんですよ。特に、止血効果が高いと聞いています」


そんなふうに、道端に見える植物について話しているうちに、御者の男は少しずつ私の話に耳を傾けるようになってくれた。彼はゴードンと名乗り、普段は王都で荷馬車を引いて生計を立てているらしかった。


「あんた、貴族の令嬢にしちゃあ、変わってるな。普通、こんな雑草の話なんざ、興味もねえだろうに」


「そうでしょうか。私は、どんな植物にもそれぞれの役割があって、美しいと思います」


「ふん。まあ、そうかもしれねえな」


ゴードンさんはそう言って、少しだけ笑ったような気がした。


旅は順調に進むかと思われた。しかし、三日目の昼過ぎ、馬車は森の中の道で突然止まってしまった。


「どうしたんですか?」


私が荷台から顔を出すと、ゴードンさんが馬の様子を心配そうに見ていた。


「どうも、馬の様子がおかしい。息が荒いし、汗もひどい。少し休ませねえと」


馬は苦しそうに鼻を鳴らし、ぐったりとその場に座り込んでしまった。ゴードンさんも私も、馬をどうすることもできずに途方に暮れる。このまま森の中で夜を迎えることになれば、野盗や魔物に襲われる危険もあった。


「何か、食べさせられるような薬草は……」


私は辺りを見回した。幸い、森の中には様々な植物が生えている。私は前世の知識を総動員して、馬の疲労回復に効きそうな薬草を探した。


「これだわ」


見つけたのは、クローバーに似た葉を持つ植物。確か、強壮作用があったはずだ。私はその葉を数枚摘み取り、近くの湧き水で丁寧に洗ってから、馬の口元へ持っていった。


「大丈夫よ。これを食べれば、少し楽になるから」


最初は警戒していた馬も、私の落ち着いた声と、私が持つ不思議な気に安心したのか、おそるおそる葉を食べ始めた。私は馬の首筋を優しく撫でながら、浄化の力をそっと流し込む。


すると、数分もしないうちに、馬の荒かった息が落ち着き、ぐったりとしていた体に少しずつ力が戻ってきたようだった。やがて馬は自力で立ち上がり、ブルル、と元気そうに鼻を鳴らした。


「……すげえ。あんた、一体何をしたんだ?」


ゴードンさんは、信じられないものを見るような目で私を見ていた。


「この薬草が効いたみたいですね。よかったです」


私が微笑むと、ゴードンさんは何かをこらえるように顔を歪め、そして深々と頭を下げた。


「……悪かった。俺は、あんたのことを誤解してた。呪われた令嬢だなんて噂を鵜呑みにして、ひでえ態度をとっちまった。許してくれ」


「いいえ、気になさらないでください。そう思われるのも、仕方のないことですから」


私の言葉に、ゴードンさんはますます恐縮した様子だった。この一件以来、彼の私に対する態度は一変し、とても親切になった。


旅はその後、順調に進んだ。王都を出てから十日ほどが経ち、景色は徐々に荒涼としたものに変わっていく。緑は少なくなり、ごつごつとした岩肌が目立つようになってきた。北の辺境が近いことを、肌で感じる。


そんなある日の午後、道の先から土煙を上げて、こちらに近づいてくる一団が見えた。かなりの人数だ。先頭の旗には、見覚えのある紋章が刺繍されている。


「……ヴィンターベルク公爵家の紋章?」


なぜ、こんな場所に。ゴードンさんも緊張した面持ちで馬の手綱を握りしめている。


やがて、その一団は私たちの馬車の前で止まった。全員が純白の騎士服に身を包んだ、精鋭の騎士たち。その中心にいたのは、やはりあの人だった。


白銀の髪を風になびかせ、見事な白馬に跨るその姿は、まるで物語の挿絵から抜け出してきたかのようだ。


「……アレクセイ様」


氷の公爵、アレクセイ・ヴィンターベルク。彼は馬上から、凍てつくような青い瞳で私をまっすぐに見下ろした。


「エリアーナ・フォン・アルストロメリアだな」


「……はい」


「王命だ。これより先、貴殿が『灰の不毛地』に到着するまで、我々王室騎士団が護衛する」


「え……?」


予想外の言葉に、私は戸惑いを隠せない。追放される罪人の私を、なぜ国の騎士団長自らが護衛するなんていう奇妙な命令が下されるのだろうか。


「これは、どういうことでしょうか?」


「言葉通りの意味だ。辺境伯領は、近頃魔物の活動が活発になっている。民間人だけでの移動は危険だと判断された」


彼の説明は簡潔で、それ以上の質問を許さない響きがあった。ゴードンさんは、本物の公爵様と騎士団を前にして、すっかり縮み上がってしまっている。


「さあ、出発するぞ。我々の後ろについてこい」


アレクセイ様はそう言うと、馬首を巡らせて先頭に立った。私たちは、彼の率いる騎士団に守られるような形で、再び北へと進み始めた。


騎士団に囲まれて進む道は、奇妙なほど静かだった。騎士たちは誰一人として私語を交わさず、ただ黙々と馬を進めている。その中心にいるアレクセイ様の周りだけ、空気がひときわ冷たく張り詰めているように感じられた。


時折、彼がこちらを振り返るのを感じる。その視線は、あの書斎で向けられたものと同じ、何かを探るような、鋭い光を宿していた。


私は、彼の存在に少しだけ緊張しながらも、不思議な心地よさを感じていた。彼の近くにいると、なぜか頭がすっきりとして、体の奥から力が湧いてくるような気がするのだ。まるで、淀んだ空気が浄化されていくような。


(この感覚は、なんだろう……)


そんなことを考えているうちに、目の前に広がる景色が、ついに一変した。


それまでかろうじて生えていた枯れ草さえもなくなり、ただひたすらに、灰色の土と岩がどこまでも続く、荒涼とした大地が広がっていた。空も、どんよりとした鉛色に覆われている。


「……ここが」


「そうだ」


いつの間にか馬を寄せてきていたアレクセイ様が、私の呟きに答えた。


「あれが、君がこれから生涯を過ごす土地。『灰の不毛地』だ」


彼の指し示す先には、地平線の果てまで続く、生命の気配が一切感じられない、灰色の世界が広がっていた。


普通なら、絶望する場面なのだろう。けれど、私の胸に湧き上がってきたのは、不思議な高揚感だった。


広大な、手付かずの土地。これから、このすべてが私のキャンバスになる。


「……素晴らしいですわ」


思わず、感嘆の声が漏れた。


「何?」


アレクセイ様が、怪訝な顔で私を見る。その表情には、純粋な驚きと、理解できないものに対する戸惑いが浮かんでいた。


私は彼に向き直り、今度こそ、心からの笑顔を見せた。


「こんなに広大な土地をいただけるなんて、夢のようです。ここを、緑豊かな楽園にしてみせます」


私の宣言に、アレクセイ様の凍てついた青い瞳が、ほんのわずかに、見開かれた。

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