第27話 青の刻、海の手前で

 午後の式に向け支度部屋に入ると、白猫商会のルーナさんが青い髪をやわらかく揺らして迎えてくれた。簪(かんざし)をすっとほどく手つきが水の音みたいで、潮風を受けた髪をほぐすミストが三度、さらりと撫でる。


「洗わず整えます。風が穏やかなので、ヴェールは軽いほうで」

「お願いしますわ」


 鏡の向こう、マリーニャは手帳に短い線をひとつ。


「到着順は、王家、諸侯、商会、職人代表――順にご案内します。ご挨拶は簡潔に。合図は扇で」

「一度、ね」


「はい。立ち位置は白石の印の上、王家の列のみ半歩下がって礼を。進行は私が合わせます」

「お願いね」


 言葉の端が笑いに変わる。息がそろうのがわかる。


「そういえば殿下と事前の手順の合わせをいたしましたが、歩き方、たいへんお上手でした」

「王太子殿下?」

「ええ。リングピローを片手で軸を安定させ、一度で。王女殿下は花びら……元気いっぱいで、とてもかわいらしい方でした。お持ちしやすいよう、少し軽くしておきました」


 頬がゆるむ。若き王と王妃の長子と長女。まだ五つの殿下は利発で、加護にも恵まれている。――そして、御父君ゆずりの剣の才には、いまのところ誰も気づいていない。


 喉に柑橘のハーブをひと口。舌にやさしく、声が柔らかく着地する気がした。裾を一度確かめ、踵の高さを足に馴染ませる。扉の向こう、弦の短い試し音が聞こえた。午後の風が、呼びに来る。



「入場位置――よろしいですね」

「ええ」


 藍の回廊は昼より色を深め、渡した白布の影が細く揺れていた。

 先導の少年少女は花籠の縁を指で確かめ、幻灯術師が水晶板の光を読みながら小さく頷く。弦の二人が呼吸をそろえ、扉がゆるく開くと、潮の匂いがわずかに新しくなって、幕間の空気が一枚めくられたみたいに、世界が静かにこちらへ向いた。


 わたくしたちは歩き出す。

 踵が石に触れるたび音は花に吸い込まれ、視界の端には王と王妃、その隣に小さな王子と王女の姿。王女殿下は花籠を胸に抱え、もう片方の手で裾をぎゅっとつまんでいて、その可憐な緊張が、風といっしょにこちらの胸まで伝わってくる。

 王家の列の前で浅く礼をし、「ご臨席を賜りありがとうございます。本日の南部をどうぞご覧くださいませ」と言葉を置けば、王が目元だけで笑って、王妃が穏やかにうなずく。

 その合図が流れを押し出し、わたくしは諸侯、商会、職人代表の順に挨拶を重ねていく。長くは語らない。ただ遠路の労をねぎらい、これからの働きを頼み、今日の仕上がりを讃える。布地の擦れる微かな音や、掌と掌の触れて離れる温度が、言葉の続きを受け取ってくれる。


「リングピローを」


 とマリーニャの声が風に紛れて届き、王太子殿下がまっすぐ歩み出る。白い小枕は微動だにせず、その小さな集中がいとしい。王女殿下は一歩遅れて、勢いよく花びらを空へ投げた


――あ、風。


 と息を継いだわたくしの前で、白が渦を巻いて陽をまとい、遠くまで飛んでいく。


「きれい」


 と予定のない一言がこぼれると、殿下ははっとこちらを見て、わたくしの頷きに安心したように笑い、今度は両手で、すこしずつ――白と藍の小さな雨が、きちんと道を描いた。


 王子殿下の差し出す小枕に、ロジオンが膝を折って目線を合わせ、「ありがとうございます」と短く告げる。殿下の耳まで赤くなるのを、風がやさしく隠していった。弦が長く息を吐き、潮の音と重ならないところに、誓いの言葉を置く間ができる。互いに向き直り、胸の高さで両手を重ねる。。


「――この丘で、共に息をします」


 わたくしの言葉は短く、甘い。朝の薄餅に蜂蜜を垂らすみたいに、こぼれない分だけ。


「――この丘の風を、あなたの歩幅に合わせます」


 ロジオンの声は低くて、やわらかくて、胸骨の裏側をあたためた。


 マリーニャの扇が音もなく下がり、指輪の番が来る。銀には藍のきらめきが薄く映り、朝の海から連れてきたみたいな色を、わたくしは彼の指へすべらせる。

 返す彼の指がわたくしの指で一瞬ためらい、次の呼吸で確かに触れた。その一拍の遅れが、胸の奥をやさしく震わせる。大切に扱われている、と確かにわかってしまうから。


 弦が細く息を継ぐ。扇がもうひと振り、深く落ちる。


 ロジオンがヴェールを半分だけ持ち上げる。光がやわらぎ、世界が少し内側になる。彼の睫毛の影が頬に触れた気がして、鼓動が手首まで押し上がる。

 頬が――熱い。自分でもわかるほど。けれど、このレースはよくできていて、色をやわらげ、そっと隠してくれる。見えなくても、近さで彼には伝わるだろう。


 いっそ抱きしめたい衝動を、つま先へ落としてお行儀よく立つ。ロジオンの瞳にも同じ熱が灯るが、腕は動かない。二人で同じ場所にとどまる。


 ――そっと、触れる。


 海に投げない口づけを、海の手前へひとしずく置くみたいにそっと交わす。

 短く、浅く、それでも確かに。触れた瞬間、耳たぶの裏まで熱が走り、ヴェールが頬の赤みを包んで外へ漏らさない――それがかえって心臓を早める。

 抱きしめなかった腕のかわりに、ロジオンはヴェールの縁を持つ指へ力を移し、わたくしは花束を胸元で少し抱き寄せた。衝動を、所作に変えて留める。


 潮がひとつふくらみ、静かに引く。息を合わせて離れると、ヴェールがかすかに鳴って元へ戻り、視界がひらけ、風が一筋、頬を撫でた。布の下にこもった熱は、外からは見えないまま、甘く残っている。


「ご挨拶を」


 午前とは違う司の声が、儀礼の枠に町の親しさを少しだけ残して呼びかける。海を正面に、ロジオンは半歩後ろ。視線を合わせず、呼吸だけを合わせる。抱きしめなかった腕の熱を、ことばに変えるために。


「――皆さま。今日の海は、とても機嫌がよろしいようです。わたくしたちも、これからずっと、こんなふうに機嫌よく暮らしていけるよう努めます。どうか見ていてくださいませ」


 拍手はせかずに満ち、弦が応える。初めての口づけは胸の内側で静かに燃え、抱きしめなかった分だけ、長くあたたかい。

 王が一歩進み、「祝詞は短いほどよい」と笑って杯を掲げると、王妃が「では祝福は、長く」と受け、場の空気がほどけていく。裏では水を足す手、旗を半刻ずらす手、弦を替える手が目に触れぬところで動き続け、マリーニャの扇が、必要な今だけを必要なぶん、静かに置いていく。


「光写の準備、整いました」


 幻灯術師が水晶板をすっと立て、光を“青の刻”へ一分だけ寄せる。海を背に半身で振り返る。午前に決めた角度。視界の端で王子殿下が親指をそっと立て、胸の奥が思わず温かくなる。花びらの最後のひと掬いが風の上に残り、水晶板の奥で白と藍の砂糖菓子のようにきらめいた。


「――公爵閣下、光写の儀でございます」


 父と兄上が光の枠へ半歩だけ進む。父の外套の裾が石をかすめ、勲章の銀が海の光をひとつ受け止める。言葉はない。ただ背筋の直線が、そのまま祝意の形になっていた。兄上は風にほどける前髪のまま、わたくしのヴェールの端を目だけで確かめ、触れずに、ほんのわずか頷く。幼い日に膝を擦りむいたわたくしへ、薬箱より先に届いた「大丈夫」と同じ温度が、胸の奥でやさしく鳴った。


 拍手がゆるやかにほどけ、弦の音が糸を巻き終えるみたいに小さく収まった。

 王家の列が静かに立ち上がり、海に一礼して退く。父は掌をわずかに上げ、言葉のかわりに「よくやった」を置いていく。兄上はひと言だけ――「行っておいで」。それで充分だ。

 回廊の布は風を小さく一度ふくらませて、すぐにおとなしくなる。

 マリーニャの扇が最後の一度、音もなく閉じられた。


「本日はここまで。ご新郎新婦様、ご退出を」


 わたくしたちが歩み出すと、通路の両側に並ぶ顔、顔。

 王の威厳に満ちた眼差しも、諸侯のほころぶ笑みも、職人衆の粗削りな笑顔も――みな同じ温度で、わたくしたちを見送ってくれている。

 誰かが掌を打ち、誰かが声をあげ、それが次々に重なって、祝福は一つの波となる。


 その波の中を、ただ二人で進む。

 指先に感じる温もりが、すべてを現実にしていた。


 青の刻はほどけ、祝福は静かな夜へと形を変えていく。


 控えの卓に、いくつかの小包と書状がそっと置かれていた。

 アモレットの癖のある筆致で「甘い湯気の立つ未来を」と洒脱な一文。彼女の雇い主――マルエル嬢からは、端正な書きぶりで「南部の秩序に、幸多かれ。王都の式には、ぜひ必ず参列させていただきます」と。


 そして最後に、無署名の小箱。

 封蝋には白い猫耳が小さく刻まれ、薄い紙片の隅に、赤い点がふたつ――ひと目でわかる印。

 わたくしはロジオンと目を合わせる。


「……無事、なのね」


 彼は短くうなずき、指先でわたくしの手を包んだ。胸の奥の緊張が、そっとほどけていく。

(アルデュス殿下、ノワールさん――どうか、あなたたちの行く先にも穏やかな風が吹きますように)

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