第26話 潮と蜂蜜の一日

 夜明けの海は、まだ息を潜めている。

 白絹のカーテンの縁が淡く光り、机の上の藍のリボンに朝が降りる。


 マリーニャの控えめなノックにうなずいて、胸の前の結び目をひとつ整えた。



――今日、わたくしは花嫁になる。




 今日は、南部と王都で予定されている三段構えの結婚式のうちの二段――南部で二度、花嫁になる日。

 午前は地元の祝言を職人衆と町の方々と。そして午後は南部披露の式を。陛下にも父にも、こちらへご来臨いただき、南部がどう息づきどれほど整っているか――この丘の風の中で、ご覧いただくのです。


(目まぐるしさも、甘さで包めばご馳走ですわ)


 そう言いきかせて扉を開けると、潮と柑橘の匂いが、もう丘の上まで昇ってきていた。



 新居の骨組みの下、赤土の大甕(おおがめ)が陽を含んで温かい。ふるまいの甘酒から立ちのぼる湯気は麦のやわらかな甘さ、そこへ土の匂いが混じって、南部の朝そのものだった。

 柄杓(ひしゃく)を受け取り、両袖を留める。最初の盃を鍛冶組の手に、次を石職人へ。木槌の音と笑い声が、たえず背中を押してくれる。


「おめでとうございます、姐さん」

「ありがとうございます。こちら、とても元気になれる甘さですわよ」


 盃が次の盃を呼び、手の温度が少しずつ違うのがたのしい。名を呼ぶと、骨組みの影から笑顔が現れて、祝詞(のりと)の代わりの「おう」「任せてください」が返ってくる。


  列の向こう、薄餅がちょうど良い色になった。縁がやや香ばしく、真ん中はまだ白い――最初の一枚は、二人の役目だ。


 小ぶりの木杓子に蜂蜜をすくい、糸にして、くるり。黄金の光が生地を走り、ふわりと立った香りに潮とレモンが混じる。


「あ、端」


 ロジオンが糸の終わりを指先で受け止め、わずかに首を傾けて笑う。指に残った甘さを布でぬぐい、その布をマリーニャが受け、目だけで合図が交わる。

 目まぐるしいのに、どの所作も、二人の間では短い呼吸ひとつでつながっていく。


 棟梁が一歩すすみ、木槌で梁をひとつ、澄んだ音。

「ただいまより、三献(さんこん)の儀。海と土と家人(いえびと)へ、感謝を」


 小さな杯が二つ、同時に手渡される。

 一献目――塩。舌に触れるより早く、潮の匂いが胸まで満ちる。

 二献目――柑橘。ほのかな酸が、これからの働きへ背を押す。

 三献目――蜂蜜。唇だけを濡らし、甘さを結びのしるしに。

 盃を置く音が波と溶け、拍に合わせて結縄(ゆいなわ)が棟木へ渡される。


「縄を、お願いいたします」


 ロジオンが縄の端を受け、わたくしが結び目をきゅっと締める。指先の力加減まで合う。上で揺れる縄が海の光をひと刻みして、骨組みに影が走った。


「祝布(いわいぬの)を――」

 若い衆の声。藍の布がするりと引かれ、棟の上で風を孕(はら)む。帆のようにふくらみ、貝の鈴が軽く鳴った。

 その瞬間、出来(しゅったい)の気配が場を包む。午前の締めが、確かに上がった。


 結び終えた縄が、棟木の上で小さく揺れた。

 風が一枚、祝布をふくらませる。そこまでが手順。ここからは、言葉の番。


 貝の鈴がひとつ鳴る。輪のざわめきが、すっと澄む。

 年長の司(つかさ)が微笑んで、やわらかく告げた。


「さあ、お二人のお心を、海にも聞かせておやりなさい」


 呼ばれたのは名前ではなく、場の息づかい。わたくしたちは自然に海へ身を返した。

 骨組みの間からのぞく藍が、少しだけ濃く見える。仮のヴェールが肩先でことりと鳴り、わたくしは胸のなかの小鳥が落ち着くのを待って、一歩分の沈黙を置く。


「本日は……ありがとうございます。

 わたくしは、この丘で暮らします。潮の匂いも、窓を渡る風も、いま皆さまの笑い声も、ひとつ残らずいただいて――どうか末永く、仲よくしてくださいませ」


 言葉は海へ投げるのではなく、海の手前にそっと置く。そう教わった通りに。

 拍手がまるく起こり、蜂蜜の薄餅が陽を拾って、きらり。小さな子の笑い声が一拍遅れて混じり、場がもう一度、やわらかく結び直される。


「ありがとさん、ありがとさん」――棟梁の低い声がどこかで応え、マリーニャの筆が手帳の端で音もなく止まる。

 午前の祝言は、温い渦のままほどけていく。ほどけながら、ちゃんと結び目を増やして。


 布の影が少し長くなった。歯車は、つぎの刻へ。

 午後の式次第が、音もなく噛み合い始める。こちらの息は乱さずに、しかし着替えと装花と調弦は、容赦なく前へ。


――目まぐるしいのに、甘い。今日はそういう日と決めている。

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