第28話 『ロジオンの、えっち』
寝室に入ると、白い小卓に小さな包みが置かれていた。封蝋には、見覚えのある狼の刻印。
わたくしは胸の奥がふっと緩むのを感じながら、封を切った。陽の色を閉じ込めた小瓶――蜂蜜酒が現れ、短い紙片がひらりと落ちる。《兄貴、姐さん、おめでとうございます。甘い時間の補助に――あなた方の子分一同》。文字の端々に、あの人たちの豪気な笑顔が滲んでいる。
「バルドさんたち、ですね」
わたくしが紙片を指で整えると、ロジオンは柔らかな目でうなずいた。彼は脇の棚から小ぶりの杯を二つ取り出し、わたくしの見えるところで慎ましく注ぐ。琥珀色が灯りを抱き、甘い香りがふっと立ちのぼった。
「はい。いい友です」
杯がわたくしの指へ渡る。触れた瞬間、体温が琥珀へ移っていくのがわかる。唇に運ぶ前に香りだけで胸の奥がほどけ、さっきまで張っていた緊張の糸がひとつ緩む。
(ああ――この時が、ほんとうに来たのだわ)
二人で長椅子に並び、肩と肩のあいだに、息ひとつぶんの余白を置く。窓の外では、夜の海が小さく息をしている。
「ねえ、ロジオン。覚えていらっしゃるかしら? 初めてあなたにお会いした時のことを」
わたくしは杯の縁を指でなぞりながら、そっと問いかけた。琥珀の面に灯りが揺れて、思い出のかけらがその中に浮かぶ。
「忘れようなどありません。あなたが魔王国へ人質として向かわれ、私が護衛として伴ったあの日のことを」
彼の声は低く、よく知った安らぎの調べだった。あの旅路の一本道、砂塵、沈む夕日――いくつもの景色が胸に戻ってくる。
「初めてあなたに会ったとき、わたくし……なんて不愛想な騎士様かしら、と思いましたの」
いたずらを告白するように言うと、ロジオンは目尻を少しだけ下げた。
「私のほうも、なんと高慢で、花も知らぬお姫様だろうかと……思っておりました」
「まあ、ひどい」
笑い合う。杯の琥珀がこつりと触れ合い、ささやかな音が広がる。
「ですが、違いました。魔王国での日々、あの二人のお嬢様方との交流を通じて、本当のあなたを知りました」
「本当の、わたくし?」
問い返すわたくしの声に、自分でも気づくほどの熱がまじる。彼は視線をそらさない。まるで、長い旅の先でようやく見つけた井戸を覗き込むみたいに、まっすぐに。
「好奇心が強く、負けん気が強く、でも少し寂しがり屋で。他人の幸せをわがことのように喜び、不幸をわがことのように悲しめる――そんな方だと」
言葉が、そっと胸に落ちる。杯の甘さよりも先に、頬が温かくなった。
「まあ……買い被りすぎではなくて?」
「いいえ。言葉を尽くしても、まだ足りません。そして、あの落城の夜――あなたの『泥なんて何さ』という一言に、私は生涯をかけてお仕えしようと誓ったのです」
“泥なんて何さ”。
崩れ落ちる回廊、煤(すす)の匂い、手を取り合って駆けた闇。あの夜の鼓動が、掌の内側で微かにふるえ直す。
「『泥なんて何さ』、ね。そう……だってわたくし、悲しいことが嫌いなんですもの」
笑おうとして、うまく笑えない。喉の奥で甘いものがほどけるみたいに、言葉が少し遅れて出てくる。
「セレフィーナ様……」
「セレフィーナ、と呼んで。これからは、いつもの、二人だけのときのように。いつでも。――わたくし、あなたの妻になったのですから」
最後の一語を言い終えたとき、わたくしは自分の声の震えに気づいた。嬉しさと、少しの怖さと、全部を束ねた細い糸の震え。ロジオンはその震えごと受け止めるみたいに、静かに名を呼ぶ。
「……セレフィーナ」
名を呼ばれただけで、胸の奥があたたかく沈み、膝の裏まで熱が降りていく。蜂蜜酒を一口。甘さが舌に触れ、ゆっくりと体の芯へ落ちていった。
「ロジオン。わたくしの場合は……“愛してしまった”が正しいのかもしれません。あなたのように特別な一言があったわけではないの。でも、わたくしは知っています。あなたがいつだって、わたくし自身を見てくださっていたことを。アークレインの娘としてでも、光魔術師としてでもなく――ただの、わたくしを」
言いながら、視線が泳ぐ。逃げ場をさがすのではなく、置き場所を探して。ロジオンの手の甲が、そっと近づき、わたくしの指先に触れた。そこに置けばいい、と教えられた気がして、わたくしは指を絡める。
「……セレフィーナ」
その呼び名は、祝福の鐘よりも静かに、でもずっと深く響いた。
「気づいたときは驚きましたわ。でも、すぐに腑に落ちましたの。わたくしがあなたに恋していると。だからね、ロジオン――」
言葉のつづきを、わたくしは仕草で結んだ。肩へ腕を回し、彼の首筋へそっと手を添える。彼は一瞬、息を呑む。その気配がわたくしに伝わり、わたくしの鼓動も一拍分、跳ねる。
ためらいの薄膜が、二人の間に最後にひとつだけ残っていた。わたくしはそれに指先で触れて、そっと、押し開く。
最初の口づけは、小鳥が種をついばむみたいに軽かった。触れたのか触れていないのか、境目で迷うほどに短い。
もう一度。今度はすこし長く。蜂蜜の気配が唇にとどまり、二人の間の空気がやわらいでいく。わたくしは思わず目を閉じそうになって、でも、閉じる前の世界をもう少し見ていたくて、まつ毛を半分だけ下ろした。
一歩、深くなる前に、わたくしは身を離した。頬が熱くて――自分でも、笑ってしまうほど。
「――蜂蜜酒のせいかしら。わたくし、少し大胆になってしまったのかもしれません」
冗談めかして言いつつ、指先は正直で、彼の手を探し当てると、そのまましっかり握った。掌(てのひら)の温度が行き来する。言葉より早く、安心が往復する。
「ロジオン。わたくしを――あなた“だけ”のものにしてくださいませ」
その一文を口にするまでに、ほんの短い沈黙があった。窓の外で海がひとつ息をして、遠くで風鈴のような何かが鳴った。
ロジオンは答えのかわりに、わたくしの指先へ唇を寄せ、そっと触れた。蜂蜜酒よりも淡い、やさしい口づけ。視線が絡む。
扉の向こうの世界は、もうしばらく、わたくしたちを放っておいてくれる――そう確信できる静けさが、二人の寝室に満ちていた。
ロジオンの手が、躊躇いを含んだまま、しかし優しくわたくしの肩を促す。
背が長椅子のクッションに沈む。張り地がかすかに鳴り、驚きに見開いた目が、すぐ彼の視線にとらえられた。
吐息が触れ合う距離。耐えようとしても、長くは保てない。わたくしはそっと視線を逸らし、頬の熱をヴェールのない今は隠せないのだと思い知る。
覆いかぶさる影は、塞ぐのではなく守るように。
首のうしろに触れた掌は軽いのに熱い。指の腹で脈をなぞられるみたいに鼓動が合い、そこからひと筋、火が背骨へおりていく。
「……セレフィーナ」
名で呼ばれるだけで、膝の裏へ熱が降りていく。
彼の口づけは、触れるか触れないかの軽さから始まり、二度目で少しだけ長くなる。蜂蜜酒の甘い気配が唇に残り、胸の鼓動がきれいに揃っていくのがわかる。
腕が自然に彼の首のうしろへ回る。引き寄せる力は強くはないのに、離したくない気持ちだけは確かだった。背に添えられた大きな手が、衣擦れの音を小さく鳴らし、緊張の残り火を撫で消していく。
密閉した唇からは蜂蜜酒の甘い匂いが口腔に伝わってくる。
私たちは舌を伸ばし、ゆっくりと絡み合わせた。秘めやかな水音がちくちくと口元で立つ。
唾液を混ぜ合うようにふたりの舌が動き、ざらついた舌の表皮を擦り合わせていく。
わたしの睫毛の長い目は開かれていたが、それが心地よさげに細くなる。
「あん、ちゅ――……、ん……、はぁ……」
互いの内部をまさぐるような口づけに、私はは短く息を漏らした。ロジオンは私を吸い、からかい、求めて舌を動かしてくる。爽やかな甘さが塗りつけられるたびに、私はそれを初めてのどきどき共に、心地よいと感じるようになっていく。
――わたくしは、あなたと同じ高さで息をしています。
囁きもしない言葉が、重ねた胸のあいだに留まる。抱きしめたい衝動は所作の端へほどよく移され、指先は張り地の縁を確かめ、腕の力はやさしさの形だけを選ぶ。窓辺の薄布がわずかに揺れ、夜の海が遠くでひとつ息をした。
彼の厚い胸元に掌を添えると、心音が伝わる。
(……よかった。彼も、同じようにドキドキしている)
そんな益体のないことを思っていると、背中に回された掌が、ためらいがちに夜衣の上を撫で――やがて、双丘の片割れを、そっと包みこんだ。
衣一枚を隔てただけの指先の動き。熱は伝わるのに、そこには確かに迷いがある。
きっと蜂蜜酒のせいなのであろう。
それとも、彼の胸板の熱にわたくしが浮かされたのか。
だから――わたくしの口から、不意にこぼれてしまったのだ。
「……服の上からだけで、よろしいのですか?」
ロジオンの動きが一瞬固まる。
言ってしまったわたくしの顔が、火を噴くように熱くなる。
言い訳を探すより早く、唇で塞がれた。
弁明の代わりに、わたくしは舌で応える。
――そのとき。
かすかな音が、夜の静けさをほどいた。
胸元をなぞる風のような感覚とともに、衣の隙間がひとつ、開いていく。
空気が素肌に触れた瞬間、全身がびくりと震える。
唇はゆっくりと滑り、口づけが鎖骨へ、さらに下へと降りていく。
彼の髪がかすかに揺れ、その香りが鼻先をかすめる。違う場所に触れられるたび、胸の奥の糸が一本ずつほどけていくようで、逃げたいのに逃げたくない――そんな相反する思いがせめぎ合う。
そして――先端を、そっと口に含まれた。
熱に包まれて、硬さを帯びていく自分がわかる。
その必死さがいとおしくて、気づけば頭を抱えるように撫でていた。
くすぐったさと甘さが波のように交互に押し寄せ、やがて心地よさが身体の芯をほぐしていく。
音にならない吐息がこぼれて、自分の中で小さな花がひとつ、またひとつと開いていくようだった。
――けれど。
このままでは、流されてしまう。
胸の奥で、小さな声が必死に呼びかける。
わたくしは震える指でロジオンの肩に触れ、囁いた。
「……ベッドへ、連れて行ってくださいませ」
一瞬、彼の瞳が大きく見開かれる。そのあと、微笑とともに息を吐き、確かに頷いた。
腕がわたくしの背と膝裏にまわされ、軽々と抱き上げられる。胸の奥が甘く跳ねる。――お姫様抱っこなど、童話の中だけのことだと思っていたのに。
ベッドへそっと下ろされると、ロジオンは迷いを噛みしめるように、しばらくわたくしを見つめていた。その指が夜衣の結び目へ触れる。ためらいがちに解かれていく布。背筋に夜気が入り込み、熱と冷たさが入り交じる。
次に彼自身も衣を外し、たくましい胸板が夜の光を受けた。
――これまで幾度も守られてきた背中、その力の源を、初めて目にする。
息がひとつ、喉の奥でほどける。胸の奥の小さな鳥が、ぱたぱたと落ち着かない。
ふと、視線が下へ滑ってしまい、慌てて引き戻す。初めて目にする男性のしるしに、熱が頬に上っていくのが自分でもわかる。
「……明かりを、消していただけませんか」
声は自分でも驚くほど小さく、灯りに赤みを映した頬を隠すように目を伏せる。見られたらどうにかなってしまう――そんな羞恥が胸の奥で暴れていた。
ロジオンは片眉をわずかに持ち上げてから、ふっと笑った。
「いいえ。消しません」
「……どうして、ですの」
問いかける声は震えて、喉の奥に引っかかる。
「あなたの輪郭も、肌の色も、今夜この瞬間のすべてを、目に刻んでおきたいからです。……それにセレフィーナは光魔法で暗視ができますよね、それでは不公平です」
「っ……!」
頬の熱が一気に強まる。視線を逸らしても逃げ場はない。自分のいちばん弱いところを真正面から言われてしまったのだ。
思わず唇を噛んで、声にならない声を吐き出す。
「……ロジオンの、えっち」
つい、いつもの調子で言ってしまう。彼の口元に、柔らかな影が差した。
「ええ。私は“えっち”だそうですから」
彼は手を伸ばし、頬の熱を確かめるみたいに、指の甲でそっと撫でる。
「今夜のあなたは、一段と綺麗です」
「そんなに見ないでくださいませ」
「見ます。見て、覚えます。守ってきた時間の先にある、私だけの光景ですから」
言い負かされたふりをして、私は枕元の布に指を埋める。熱は、もう怖くない。
「……では、せめて、近くで」
私が言うより先に、彼は距離をひとつ埋め、ゆっくりと抱き寄せた。肌と肌が触れ合うたび、夜の色が甘く濃くなる。
「ロジオン」
「はい」
「――“えっち”の責任、取ってくださいませね」
「もちろん。今夜から、ずっと」
そうして私は目を閉じる。灯りは消えない。けれど、恥ずかしさは甘さに変わり、甘さは確かさに変わって、胸の奥で長く灯り続けた。
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――あっ……
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ロジオンの、えっち。
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