第25話 青の刻、歩幅を測る
南部の丘は、潮と柑橘の匂いで満ちていた。
新居は骨組みが立ち上がり、白い帆布が風にふくらむ。帆布の隙間からのぞく海は、藍の濃淡をかすかに変えながら、遠くまでつづいている。わたくしは、胸元の小さな藍のリボンを指で整え、ふう、と息をついだ。
「セレフィーナ様。本日は会場の下見にございます。導線、光、音の返り……ひととおり、ご一緒に」
現場監督の女性が軽やかに会釈し、マリーニャは手帳を抱えてわたくしの横に立つ。庭師たちはレモンとローズマリーの苗木を微妙にずらし、石職人は半円形の台座を据え付けている。白木のアーチはまだ骨組みのままだけれど、そこには貝殻と藍ベリーを絡める計画だと聞いた。
「まずは、ご来賓の動線をご確認くださいませ。南門から『藍の回廊』へ――」
白い柱のあいだに藍の布をゆるく渡した半屋外の通路。布の影が波のように床へ揺れ、歩くと涼しい。足元は薄い石畳で、ヒールでも沈まない。
「トレーンは大丈夫かしら?」
「お確かめいただくため、仮ヴェールをご用意しております」
マリーニャがやわらかい布をそっとわたくしの後ろへ垂らす。歩幅を半歩だけ小さくして進むと、布の波が石にささやく気配がして、許される余白が肌でわかった。角は丸く、曲がるたびに布がやさしく追いつく。
「この角の丸み、好きですわ」
中庭に出ると、海に向かって扇状に広がる席のレイアウトが白い紐で描かれていた。中央には未完成のアーチ。フローリストが白い花の小瓶を開け、香りを一滴空気に混ぜる。潮とレモンに、白い花の翳が重なって、胸の奥がふっと整う。
「音の響きを見ます。この位置で、お言葉を一言いただけますか」
幻灯術師が小さな水晶板を持って立つ。わたくしは喉の奥の緊張をほどいて、海のほうへ声を置いた。
「――本日は、ようこそお運びくださいました」
一拍遅れて、やわらかな音が戻る。胸の内側にそっと触れて、消えない。強すぎない。風に千切れない。
「良い響きです。潮が高い日でも言葉は崩れません」
「午後の三刻から『青の刻』の手前が最適です」
幻灯術師が水晶に光を通す。庭の一角だけ色が少し深まり、白い布と藍の実と緑が穏やかに溶ける。わたくしの仮ヴェールは淡く青みを帯びた。
「まあ……」
胸がきゅっと鳴る。裾が石に触れかけたのを、マリーニャが自然に指先で受け止めた。何も言わず、息の長さだけで合図が交わる。
「こちらが雨天時の代替動線です。透明幕を出し、奏楽台は軒下に。段差は柔らかく面取り済みでございます」
手帳の紙がかすり、鉛筆の先が小気味よく進む。祖父母世代の足取りも想像しながら、わたくしは白い階段を一段ずつ下り、踵の感触を確かめる。石が吸い付くようにやわらかい。仮ヴェールの端が段鼻に当たらない。
「退場は、海を背にして。ここで振り返っていただければ、お二人のお顔と海が一枚の絵になります」
「振り返る角度は、これくらい?」
半身で振り返ると、未来がやさしく見えた。白い椅子の列、風に揺れる布、アーチの向こうの水平線――そこに、ロジオンの笑みを置いてみる。
(ここで、目が合うのね)
思うだけで、頬の内側が甘く熱くなる。言葉にすれば崩れてしまいそうで、胸の中で小さくうなずいた。
「リングピローは中庭の中央通路を。小さなお子さまでも迷わないよう、低い花で目印を――リングボーイは、確か……」
「ええ。王太子殿下にお務めいただく手筈にてございます。『王家の公認』と『特別な加護』を賜る趣向で」
若き王と王妃の長子で、下に幼い王女殿下がいらっしゃる。まだ五つにして利発、聖なる加護にも恵まれている。――ただ、御父君のような剣の才は、いまのところ誰にも気づかれていない。
新しい王国の国王と王妃、元勇者と元聖女の間には一人の男児が生まれていた。今5歳。大変に利発な方だと聞いている。聖なる加護も、魔法の才能も稀有なものをお持ちだとか。ただ御父君のような剣の力は引き継がれなかったようだが、それは望みすぎというものだろう。
フローリストが指先で高さを示す。背の高い花は視線を攫うから、足元に香りを、という。ローズマリーは強すぎず、レモンの若い葉は爽やかだ。
「装花の水分管理は潮風に合わせ、花器に細工を。――それから、花びらのシャワーは白が主体で、藍の小花をほんのすこし混ぜます」
「藍は、わたくしの色ですものね」
「ええ、セレフィーナ様に似合います」
マリーニャが微笑んだ。わたくしは小花の色を思い浮かべ、胸元のリボンにそっと触れる。
(ロジオンが、よく見つけてくれる色。わたくしの瞳の碧だと、そう言って)
陽が少しだけ傾き、風読みの細旗が一定の角度で揺れる。木陰に置かれた水の鉢に、風が触れて、光の輪がふるえた。
「お席に一度お掛けくださいませ。見え方のご確認を」
前列、中央、後方。いくつかの席に腰を下ろす。
中央に座ると、アーチが額縁のように海を切り取ってくれる。後方からは、布の揺れが美しく、風の行き来まで祝福に見える。前列に座ると、誓いの言葉が唇の形から分かるほど近く、でも押しつけがましくない。
同じ庭なのに、席の場所によって感じる“甘さ”が違うのが愉快だ。わたくしは小さく頷く。
「甘い、とおっしゃいました?」
マリーニャが耳を傾ける。
「ええ。――お砂糖ではなくて、光と風の甘さ、ですわ」
彼女は嬉しそうに目を細め、チェックをひとつ付けた。
「音楽の位置はここで。弦の響きが回廊をくぐって、少し遅れて中庭にそっと届きます」
試しの音が流れた。短いフレーズ。波の音に寄り添って、やさしくほどける。あの人の肩におちる陽の色が、ふいに思い浮かぶ。
(この音の上に、わたくしの一日がのるのね)
「最後に『青の刻』の光を、もう少しだけ強めます」
幻灯術師が水晶板を回す。影が長く伸び、世界が一瞬静かになった。海が藍を増し、白木のアーチの輪郭が薄金色に縁取られる。風が仮ヴェールを持ち上げ、頬にやさしい布の端が触れた。
その触れ方が、まるで未来から届いた祝福のようで、胸の中心に灯りがひとつ点る。
「――素敵」
声に出してしまって、頬が熱くなる。けれど、誰も笑わない。
マリーニャは、わたくしよりもわずかに大きくうなずいた。
「ここが、セレフィーナ様の歩幅でございますね」
「ええ。歩くたびに、心がほどけていく歩幅ですもの」
階段の脇には、透明な鉢に浮かぶ小さな白い花。水の面を撫でた指先が涼しくて、わたくしは指をすぐに引っ込めた。甘い熱と涼しさが交互に来て、少し笑ってしまう。
「雨が降ったら?」
ふと思って尋ねると、監督が待ってましたとばかりに図面を広げた。
「透明幕の角度を変え、光を入れます。地面は短時間で水が引くよう層を重ねていますから、足元は保たれます。アーチは布装花に切り替え、香りは少し強めに」
「雨の日の藍も、きっと綺麗ですわね」
「はい。海の藍が、ひとつ深くなります」
心配がひとつずつほどけるたび、楽しみがひとつ増える。不思議な算術。
丘の向こうから、建て方の槌音が軽く響く。新しい家の音。わたくしの胸の奥でも、同じような音がしている気がした。
「本日の確認は以上です。仕上げは来週、装花とクロスを実物で」
「ありがとうございます。とても――楽しみになりましたわ」
確認のために集まってくださった方々が散っていく。回廊の布が海の風でふくらんで、日陰が移動する。わたくしはもう一度だけ、歩き出しから退場まで、ひと息に辿ってみた。
布の影を踏み、白い椅子の間を進み、アーチの手前で一拍おく。胸の灯りをひとつ増やし、言葉を海に置いて、振り返る。
心の中で、誰かの瞳とまっすぐに会う。
たった今、そこにいないひとの温度まで、風が運んでくるみたい。
「セレフィーナ様」
マリーニャが仮ヴェールを外し、端のほつれを指先で整えた。布越しに見上げる海は、少し深い藍。わたくしの影は、以前よりもやわらかい。
「『青の刻』、ぴったりでございますね」
「ええ。南部の海が、一番きれいに息をする時間ですもの」
新居の窓から見えるはずの景色を、想像で先取りしてみる。朝の薄金、昼の白、そして夕方の藍。そのすべてに、同じ人の横顔を置いてみる。置いても置いても、不思議と馴染んで、甘い。
「帰りに、藍ベリーのジャムを買って帰りましょうか」
「朝のパンに合いますね。……それから、リボン用の細い布、追加で手配いたします」
「お願い。今日の藍は、とても機嫌がいいの」
笑い合い、丘を下りる。背中で、帆布がふわりと鳴った。
白と藍に満たされた庭は、わたくしの歩幅に合わせて、海へ向かってまっすぐ延びている。
甘やかな、ひと続きの未来の道として。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます