第14話 南部の風を、二人で視察
最近、楽しい。――けれど、忙しい。――けれど、嫌いではありません。
朝いちばん、朱肉の蓋を開け、印面を布で拭い、朱を含ませる。
港では荷揚げ場の台割をめぐって二つの組が睨み合い、秤の管理をどちらが持つかで揉めていたから、暫定の持ち回り表と罰金規定に印を落とす。
街道では“北の二叉”の通行料に二重取りの疑い――告示の文言を修正し、回収箱の封蝋の色を、告示で定めた色に統一する。
供養地では古い石標が掘り起こされ、境の主張が三つ。――まずは鎮魂祭を荒立てぬよう、式次第と席次を赤で確定し、各陣営の代表と仲介者の名を添える。席は発言の順と責任の重みを示す“暫定の秩序”。式ののち、実地の測量と証言の審理へ進める。
幼いころから仕込まれた統治の基礎の手順どおり、ひとつ朱を打つたび、部屋の外の音が少し変わる。
小銭の触れ合う音が増え、屋台の鉄板が高く鳴り、子どもの笑い声が遠くへ駆けていく。昨日張り替えた値札には新しい墨の匂い、告示板の前では読み上げの声が二つ三つ。巡回の足取りは、荒くなく、まっすぐ。
一歩ずつ――本当に一歩ずつですが、前へ動いていると、わたくしにはわかります。
……だから、もう少しだけ忙しくても、よろしいのです。彼の隣へ辿り着く道なら。
――けれど、忙しい。
朝は地図と告示、昼は親方衆や教団の方との短い会合、夕べには書付の山。
楽しみといえば、合間にバルドさんが「ちょいと口の足しに」と差し入れてくれる、香草のきいた串焼き、ぱりっと焼けた薄餅、蜂蜜漬けの木の実――南部のご飯は、どうしてこうも美味しいのでしょう。
焼いた魚に、香草を刻んだ酸味のある麦のサラダ。パンは外がかりっと、中はふわり。つい、もうひと切れ……いえ、これは必要な栄養です。ええ、必要です――と、言い訳を胸にしまった直後のこと。
着替えの帯を締めるときに、それは現れました。
帯の上、ほんの少し――ぽにん、と。
「南部の風は、食欲を連れてきますからね」
マリーニャがやさしく微笑む。慰めは嬉しい。けれど胸の奥では、別の言葉が灯る。――ウエディングドレス。
鏡の前で姿勢を正す。角度を変えて、もう一度。さらにもう一度。……角度の問題ではありませんでした。
(で、でも大丈夫。採寸はまだ先にできますわ。今は――布と手を決めるのが先ですもの)
式服は南部の布で、と最初から決めていました。
織り・染め・縫い――南部の技で仕立てることは、わたくしたちの顔を作ること。務めでもあり、ひそやかな夢でもある。布は季節で表情が変わるし、良い職人は順番待ち。採寸の日に慌てないためにも、先に選んで、手配しておかなくては。
ぽにんのことも午前の書付けに戻れば忘れられるはず――そう思ったのに、胸のあたりはそわそわと落ち着かない。紙の端を揃えてはほどき、紅茶をひと口含んでは、ため息をひとつ。数字の列の向こうに、白い布がちらつく。
今朝はロジオンとラウレン殿、それにバルドさんが外の会合へ出向き、わたくしはマリーニャと宿で書付けを整えておりました。南部に来てから数週間――毎日同じ机に向かい、同じ地図を見て、印を押し……けれど、ふと気づきます。
(……ロジオンと二人きりで、歩いていませんわね?)
親方衆の座敷も、港の桟橋も、いつも人と紙に囲まれていた。彼の横顔はすぐそこにあるのに、“わたくしだけの彼”である時間は、まだ一度もありませんでした。
ペン先で机をとん、と弾いた音に気づいたのか、向かいで縫い物をしていたマリーニャが針先を休め、柔らかく微笑む。
「セレフィーナ様。でしたら、お誘いしてしまえばよろしいのでは?」
「お、お誘い……? で、でも、ロジオンはいま外ですし、お戻りになったらまた書付けが山ほど……」
「“デート”と申し上げるから難しくなるのですわ。――視察とすれば、すべて丸く収まります」
視察。
口に出してみると、不思議と胸の小鳥がぱたぱたと羽を鳴らした。
「ええ。南部産の式服を仕立てる工房の下見。織り場、染め場、縫い場を一巡。道すがら、市の温度と街道の具合も“拝見”。立派な公務でございます」
視察――つまり、南部の工と布を公式に選ぶこと。職人の声を聞き、告示の貼り場所を確かめ、供養地の丘は風の向きと人の流れで行列の折り返しを決める。
そして、ロジオンと並んで歩く。二人きりで。……視察、なのですから。
マリーニャは、さらに涼しい顔で続ける。
「それに、セレフィーナ様。最近――運動不足でいらっしゃいますでしょう? 歩いてまいれば、気晴らしにもなりますし、ぽにんのご心配も解消いたしますわ」
「ぽ、ぽにんっ……! ぽにんなんて、していませんわ!」
「まあ! では帯の穴がひとつご機嫌を損ねていたのかしら」
「……き、昨日の豆の煮込みが美味しすぎただけですわ」
「美味しいのは良いことです。ですから、歩いてまいりましょう。雁の宿から織り場までは坂をひとつ。お日様の下を十五分。往復でも半刻はかかりません。――“視察”としては完璧です」
完璧。なんて良い言葉。
「でも、ロジオンが……お時間をくださるかしら」
「くださいますとも。“視察ご同行のお願い”と認めた札を、わたくしがお届けします。ご予定の合間に一刻だけ。『供養地告示の前に素材・染め・縫いの実地確認』――これなら、どなたにも止められません」
マリーニャは手早く文箱を開き、上紙を一枚。さらさらと、美しい公用の文字で書き付ける。
『本日午後、南部産式服調達に係る工房視察。織・染・縫の順。道中、市況確認。――セレフィーナ』
最後の署名だけ、わたくしに促すよう目で合図。羽根ペンを受け取り、少しだけ指がふるえるのを、胸の中で笑いに替える。
「……では、“視察”にいたしましょう」
「はい、視察でございます」
マリーニャは嬉しそうに立ち上がり、衣桁の方へ。
「お召し物は、歩ける裾にいたしましょう。風通しの良い薄手の上着、低い踵のお靴。帽子は……はい、こちら。――帯は、本日はゆるめで」
「ゆ、ゆるめでなくても……」
「視察は“呼吸”が大切でございますから」
くす、と笑い合う。胸のどきどきが、今度は美しい方角へ走り始めた。
「では、わたくしがこれをロジオン様にお持ちします。お嬢様は――その間に、歩く支度を」
「……お願いね、マリーニャ」
小さな札が彼のもとへ運ばれていく想像だけで、頬が熱くなる。視察。ふたりで。南部の風の中を、並んで歩く。
(ロジオン……お忙しいあなたの、ほんの一刻。わたくしと、歩いてくださいませ)
帯を結び直しながら、そっとお腹を押さえてみる。
「……ぽにん、なんて、していませんわ」
窓の外、白い雲が軽くちぎれて流れていく。今日の風は、きっと歩くのにちょうど良い。
――視察
でも、視察だけではありません。
わたくしは、公爵の娘として、統治者としての務めを果たしに行く。
そして、恋する人の隣で、南部の風をいっしょに吸い込むのです。
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