第13話 赤鉛筆は走る、心拍も上がる
夜の名残が薄れてゆくころ、わたくしは目を覚ました。
――いま行けば、彼はまだ眠っているかもしれない。
そんな考えが胸のあたりをふっと掠め、起き上がりかけた膝が布団の中で止まる。だめ。そういうのは、ずるい。朝になったのだから、ちゃんと挨拶をして、まっすぐ顔を見て「おはようございます」と言う。手を繋いで眠りたかった昨夜のわたくしに、そっと背筋を伸ばさせる。
身支度を整え、襟元をひと撫でして廊下に出る。角を曲がった先、扉の向こうから紙の擦れる音と、薄く漂う紅茶の香り。もう、手が動いている。胸の奥の小鳥が騒ぐ。足取りが弾みすぎないように、一度だけ深呼吸。
ノックしてから、扉を開く。
雁の宿の執務間には、壁いっぱいの地図、束ねられた書付。窓辺には冷めかけの紅茶が一杯。ここは宿であり、すでに役所で、そして――彼の場所だ。
「おはようございます、セレフィーナ様」
ラウレン殿が先に立ち上がり、まっすぐに礼を取った。机上の紙束はきっちり三つに分けられ、指先は紙より先に段取りの形を整えている。左の薬指の細い指輪が、控えめに光った。道中、小さなご子息の話を聞いたのを思い出す。――この人は、家族に誇れる仕事をここで積み上げたいのだ。
「ラウレン殿も……今朝はここに?」
「昨夜、ロジオン殿と短く顔を合わせました。公爵様より補佐の任を拝命しております。微力ながら、与力としてお仕えし、まずは段取りを整えたいと考えております」
「心強いですわ。父も喜びましょう」
「僭越ながら」とだけ言って、ラウレン殿は口元を和らげる。
視線は、すぐ彼へ吸い寄せられる。ロジオンは、袖口を少し折り、指先にインクの影。地図に触れる手はやさしく、目が合った瞬間、胸の小鳥が羽ばたいた。
――二人きりで「おはよう」を。できれば朝食も一緒に――そのささやかな願いは、ラウレン殿の気配にそっと胸の引き出しへしまい、代わりに背筋を伸ばす。今日は、彼の隣に立つ――そう決めた。
「おはようございます。……来てくださって、心強い。朝のうちに要点だけ――こちらへ」
ロジオンが、わたくしの椅子を少しだけ引いてくれる。そのささやかな所作だけで、朝の空気がひと息あたたかくなる。
「――まず、優先課題の認識を揃えましょう、セレフィーナ様」
彼は壁の地図に指を置いた。港からの赤い糸と、供養地――戦で散った者を鎮める聖域――へ向かう赤い糸が新しく走っている。留め蝋はまだ艶を残し、糸には折れ癖ひとつない。今しがた足された線だ。
指が地図を離れ、視線がこちらへ返る。
「南部は混乱していますが、無秩序ではありません。手を入れるべきは供養地――先日、亡者たちの手から解かれたばかりの地です。解放の報せは内外に広まり、流入が始まっている。ゆえに、新たな規則と、それを守らせる手段を急ぎ示す必要があります」
「それと同時に、街道と市場は当面、現状維持――昨日より悪くしない。悪くなったと感じれば、人心は離れます。信任を得た者の義務として」
続けて、ラウレン殿が静かに頷いた。
「幸いにして――いえ、さすがと申すべきでしょう。ロジオン殿は南部入り以前から骨格を整えておられた。ゆえに、現状とのすり合わせから進められます」
胸の中で、何かがカチリとはまる。背筋が自然に伸びた。
「……わかってはおりましたけれど、やることが山ほどですわね。わたくし、すぐにでも式を挙げられると考えておりましたのに。――いっそ、駆け落ちでも、しちゃいませんこと?」
赤鉛筆の先がぴたりと止まり、ラウレン殿が小さく咳払い。ロジオンは一瞬だけ目を大きくして、それから目尻をやわらかくした。
「魅力的な提案ではありますが――あなたに相応しくない」
「ええ、冗談ですわ。ロジオン、わたくしもあなたに“逃げる”という選択肢は相応しくない――そう信じています。だからわたくしたちは共に南部を安定させて、それから堂々と式を挙げますの」
「承知しました。では――お二人の逃げ道はすべて、治安上の理由で封鎖しておきましょう」
思わず笑いがこぼれ、部屋の空気が一度だけゆるむ。すぐに、紙と朱と地図の温度へ戻った。
「では、朝食前に片づけられるところから。港の控え帳(荷改め)と、街道の見回り記録――それから、昨夜あなたがもたらした広場の温度を」
「温度……?」
「ええ。温度が高ければ――口上は短く強く、見回りは一手多め、港は積み替えを先行させる。落ち着いていれば――告示は丁寧に二度、貼り出しを厚く、供養地の会合は正午に合わせて席次を整える。
つまり今日の手加減を決めるための体温です。――だから、いまのうちに見立てを固めましょう」
ロジオンの言葉が落ちた、そのときだった。
扉が二度、控えめに叩かれ――三度目は、勢いのままに開いた。
「失礼しやす! 港の控え、まとめてきやした!」
昨夜、寝入る間際に聞いた声。廊下を全力で駆け抜けた足音の主である。肩で息をしつつ掲げる紙束、指先に残る墨の染み。荒事の擦り傷と帳場のインクが同じ手にある――そんな手だった。
「入ってくれ、バルド」
ロジオンが名を呼ぶ。バルドと呼ばれた彼は短く頷き、胸を張って紙束を掲げた。
「へい! って、うぇ?……あっ!! あ、兄貴、こちらの別嬪なお嬢様はもしかして!?」
「セレフィーナ様だ」
「おお……! 噂の兄貴の!!――姐さん! あ、名乗りが遅れやした。バルドってぇもんです。兄貴が南部に来たその日から一の子分やってます。どうぞご贔屓に!」
「はじめまして、バルドさん。ロジオンを支えてくださっているのですね。ありがとうございます」
「いやいや、支えるなんてめっそうもねぇ。兄貴がすげぇんだ。……でもよ、昨日の広場での姐さんの口上、あれは痺れた!
『ロジオンを愛するというのであれば、凛として在りなさい。愛する者に恥じぬ自分で在りなさい』――さすが兄貴の姐さんだって、港じゅうで話題っすよ」
わたくしが微笑むと、彼は耳まで赤くして頭を下げた。ラウレン殿が半歩出て、やわらかく会釈しつつ紙束を受け取る。
「まとめていただき、助かります。こちらに――通りの呼び名を赤で記していただけますか。掲示用の公文書表記は私が整えます」
「了解っす!」
椅子をぐいと引き寄せ、彼は赤鉛筆を耳から抜いた。紙に体を寄せ、線を走らせ始める。筆圧が強く、紙がかすかにきしむ――迷いのない音。
「……字が整っていますね。帳場を知る字です。頼りにしています、バルドさん」
「へっ。じゃ――五分とかかりやせん。先触れが利いたんで、親方衆が帳面を出してくれました。仲買頭の印もここに。教団からは、告示の頭にのっける祝詞を一行、預かってきやした」
ラウレン殿が静かに頷く。
「それじゃ、残りも片づけやしょう」
言うが早いか、窓の桟に落ちる朝の光を砂時計みたいに横目で測り、赤が走る。
一本、二本。曲がり角は三度止めてから引き直し、呼び名の端に小さく印を打つ。
「ここは“魚骨”、で、ここは“鼠戻り”っす。似た名が三つあるから、貼り出しは併記に。読み上げの口上じゃ“港側の魚骨”って言い分けしとくのが早ぇ」
「助かります。告示は併記、口上は言い分け――了解しました」
ラウレン殿が淡々と復唱し、添え字を入れていく。ペン先が紙を滑る音が、朝の部屋を気持ちよく整える。
「……温度は高めと見立ててよろしいかしら?」
ロジオンが短く頷いて答えた。
「はい、セレフィーナ様。あなたが撒いてくださった熱で、今朝は足が軽い。冷めぬうちに、短く強く打って進めます」
そう言って、彼は窓辺の冷めかけの紅茶を取り上げ、そっと脇へ退ける。代わりに、まだ湯気の立つ新しい杯を――わたくしの手元へ。
指先が触れた。驚くほど、彼の手はあたたかい。
「……ありがとう、ロジオン。けれどその熱は、わたくしのものではありませんわ。
あなたがくださった火ですの。だから――今日も、消さないでいて」
紙と朱と地図の間で、わたくしたちは一瞬だけ目を合わせる。
仕事の朝に、恋の朝が、静かに重なった。
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