第15話 藍の試布と、星の口づけ

 昼下がり、雁の宿の玄関で――ラウレン殿とバルドさんが、どこかいたずらっぽい顔で立ちはだかりました。

 ラウレン殿が小さな木札を差し出す。


「視察札です。市場と工房で通りがよくなります。胸元にどうぞ」


 紐を通してかけると、札が「ちり」と小さく鳴った。


「本日の書付と回しは、こちらで。帰館は……日が落ちてからで結構です」

「兄貴、姐さん。夕刻までは戻っちゃダメっす。戻ったら書付の山で死にます。……今日は俺らで回しますんで。だから今のうちに行ってきて!」


 わたくしとロジオンは顔を見合わせ、思わず笑った。


「行ってまいりますわ」

「頼んだ」


 視察札は胸元で軽く鳴り、わたくしたちは並んで石段を降りた。



 街は、良い音で満ちていた。

 新しい値札の墨の匂い、農車の車軸に差した油の匂い、揚げ油が小さく笑う音。

 通りの向こうから「姐さん!」と声が飛び、「兄貴!」と手が上がる。返す手を、わたくしの指がふと迷って――勇気を出して、差し出した。


 触れた。

 彼の手が、すぐに握り返してくれる。きゅ。

 手のひらが合わさって、体温が一枚、増える。

 胸の奥で小さな火花が散る。わたくしは、嬉しさのリズムのまま、きゅ、きゅ、と強弱をつけて返した。


「……暗号、ですか?」

 彼の横顔が、かすかに照れる。


「ち、違いますの。ただ……楽しくて」

「では、復唱します」


 きゅ。――きゅ、きゅ。

 指先で、ふたりだけの文通が始まった。



 織り場は、杼(ひ)が走る音で満ちていました。

 陽にきらめく糸、ぴんと張られた経(たて)、踏み木の律動。

 ご挨拶をして、反物をいくつか見せていただく。

 指先に、さらり。別の布には、しっとり。耳元では布が鳴る。


「この薄手は風をよく通します。こちらは見た目より強い。縁(へり)を二重にすれば式にも耐えます」


 職人の説明を聞きながら、わたくしは、織目の影の美しさに息を呑みました。

 ロジオンは、ときどき鏡越しにわたくしを見る。視線が合うと、すぐ真面目に布へ戻る――その様子が、可愛い。


 染め場は、色の香り。

 藍の甕(かめ)からすくい上げる布、空気に触れるたび、青が深くなっていく。茜は夕焼けのように、黄は日の粒のように。


「南部の色、ですわね」

「ええ。ここで生まれた色だ」


 わたくしが藍の滴を見つめていると、ロジオンがふと横に立って、小さな試布束を差し出しました。


「……候補を三つ。あなたの肌に、これが綺麗だと思う」


 声が、少し小さかった。耳が、ほんのり赤い。

 鏡に布を当てると、藍に白が映えて、喉のあたりが涼しく見える。


「よろしいの? 藍は強い色ですのに」

「強い色が、あなたの静けさを連れてくる」


 言ってから、彼は視線を落として、布の端を整えました。

 わたくしの胸の小鳥が、ぱたぱた。



 仕立て場へ移る道すがら、市場の甘い匂いに、足が止まる。


「……視察、ですわ」

「視察の一部です」


 堂々と、路地の薄餅に蜂蜜を垂らしたものをふたりで分け合う。

 わたくしが一口、彼が一口。つい、もう一口。

 ロジオンが目を細めて、わたくしの頬についた蜂蜜を指先で示した。


「……ここに、少し」

「えっ……」


 慌てて拭おうとすると、彼が布巾を差し出す。

 受け取る指が触れ、火花みたいに熱が走る。


「歩いたぶん、差し引きでちょうどです」

「そ、そうですわね。ぽ……いえ、ちょうど、ですの」


 言いかけた言葉を飲み込むと、彼が肩で笑った。知られている気がして、くすぐったい。



 仕立て場。

 丈を測る木尺や、白い仮縫い布が並ぶ静かな部屋で、わたくしは設計図のような図案をひろげる。

 胸元の線を指差して、彼に問う。


「……これは、どう、思われます?」

 わたくしの指先が触れているのは、少しばかり大胆な開き。


 ロジオンは、図面を見て――図面を一瞬で通り越し、わたくしを見て――そして慌てて視線を戻した。

 耳、とても赤い。


「す、すみません。えーと……私は、その……」

「はい?」

「あなたが、綺麗すぎると……皆が、見ます」

「皆が?」

「ええ。だから――」


 喉が、ごくりと動く音が聞こえた。

 彼は小さく息を整え、机の上の別の絵型を指さす。襟は浅く、鎖骨の弓を薄い布でなぞるだけの、静かな美しさ。


「こっちのほうが、好きです。風で、少しだけ透けて、でも……あなたを見るのは――」


 そこで言葉が途切れ、耳が、完全に赤くなる。

 わたくしの口元が勝手にほころぶ。


「自分だけに、なさりたい?」


 最後の言葉は、ほとんど囁き。

 わたくしの胸に、やさしい雷が落ちた。


「……承知しましたわ」


 指が勝手に、彼の袖を小さくつまむ。

 彼は気づかぬふりで、でも手の甲だけ、わたくしの指に触れてきた。きゅ。



 ひと巡り終えるころ、空は蜜柑色にほどけて、風がやわらいだ。

 小高い見晴らしの、染め川を見下ろす土手へ。

 わたくしは繋いだ手に、また、強弱をつけてしまう。


 ぎゅ、ふわ、ぎゅ。


 ロジオンは何も言わない。ただ、指を絡め直して、もう片方の手でマントを肩にかけた。

 視線が合う。笑って、逸らして、また合って――それだけで胸が忙しい。


 夕闇が落ちて、最初の星がひとつ。

 彼はそっとわたくしを抱き寄せ、額に、星みたいに短い口づけを落とした。


「……セレフィーナ。今日は、よく歩きましたね」


 胸の鼓動が肩越しにやさしく伝わる。

 わたくしは両腕を彼の首に回し、すこしだけ引き寄せる。背伸びをして、頬に小さく口づけ。

 ――そこまでしたところで、顔を上げる勇気が出なくて、そのまま彼の肩口に頬を埋めてしまった。


 耳もとで、彼が低く笑う。


「……視察、はおしまいです」


わたくしも笑って囁く。

「あら、わたくし今日は“デート”だと思っていましたのよ」


「では――デートを続けましょう。少しだけ」

「ええ。もう少しだけ、このままで」


 胸元の視察札が、風に「ちり」と鳴った。

 視察は終わり。


 ――でも、恋は、まだ続く。

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