第15話 藍の試布と、星の口づけ
昼下がり、雁の宿の玄関で――ラウレン殿とバルドさんが、どこかいたずらっぽい顔で立ちはだかりました。
ラウレン殿が小さな木札を差し出す。
「視察札です。市場と工房で通りがよくなります。胸元にどうぞ」
紐を通してかけると、札が「ちり」と小さく鳴った。
「本日の書付と回しは、こちらで。帰館は……日が落ちてからで結構です」
「兄貴、姐さん。夕刻までは戻っちゃダメっす。戻ったら書付の山で死にます。……今日は俺らで回しますんで。だから今のうちに行ってきて!」
わたくしとロジオンは顔を見合わせ、思わず笑った。
「行ってまいりますわ」
「頼んだ」
視察札は胸元で軽く鳴り、わたくしたちは並んで石段を降りた。
*
街は、良い音で満ちていた。
新しい値札の墨の匂い、農車の車軸に差した油の匂い、揚げ油が小さく笑う音。
通りの向こうから「姐さん!」と声が飛び、「兄貴!」と手が上がる。返す手を、わたくしの指がふと迷って――勇気を出して、差し出した。
触れた。
彼の手が、すぐに握り返してくれる。きゅ。
手のひらが合わさって、体温が一枚、増える。
胸の奥で小さな火花が散る。わたくしは、嬉しさのリズムのまま、きゅ、きゅ、と強弱をつけて返した。
「……暗号、ですか?」
彼の横顔が、かすかに照れる。
「ち、違いますの。ただ……楽しくて」
「では、復唱します」
きゅ。――きゅ、きゅ。
指先で、ふたりだけの文通が始まった。
*
織り場は、杼(ひ)が走る音で満ちていました。
陽にきらめく糸、ぴんと張られた経(たて)、踏み木の律動。
ご挨拶をして、反物をいくつか見せていただく。
指先に、さらり。別の布には、しっとり。耳元では布が鳴る。
「この薄手は風をよく通します。こちらは見た目より強い。縁(へり)を二重にすれば式にも耐えます」
職人の説明を聞きながら、わたくしは、織目の影の美しさに息を呑みました。
ロジオンは、ときどき鏡越しにわたくしを見る。視線が合うと、すぐ真面目に布へ戻る――その様子が、可愛い。
染め場は、色の香り。
藍の甕(かめ)からすくい上げる布、空気に触れるたび、青が深くなっていく。茜は夕焼けのように、黄は日の粒のように。
「南部の色、ですわね」
「ええ。ここで生まれた色だ」
わたくしが藍の滴を見つめていると、ロジオンがふと横に立って、小さな試布束を差し出しました。
「……候補を三つ。あなたの肌に、これが綺麗だと思う」
声が、少し小さかった。耳が、ほんのり赤い。
鏡に布を当てると、藍に白が映えて、喉のあたりが涼しく見える。
「よろしいの? 藍は強い色ですのに」
「強い色が、あなたの静けさを連れてくる」
言ってから、彼は視線を落として、布の端を整えました。
わたくしの胸の小鳥が、ぱたぱた。
*
仕立て場へ移る道すがら、市場の甘い匂いに、足が止まる。
「……視察、ですわ」
「視察の一部です」
堂々と、路地の薄餅に蜂蜜を垂らしたものをふたりで分け合う。
わたくしが一口、彼が一口。つい、もう一口。
ロジオンが目を細めて、わたくしの頬についた蜂蜜を指先で示した。
「……ここに、少し」
「えっ……」
慌てて拭おうとすると、彼が布巾を差し出す。
受け取る指が触れ、火花みたいに熱が走る。
「歩いたぶん、差し引きでちょうどです」
「そ、そうですわね。ぽ……いえ、ちょうど、ですの」
言いかけた言葉を飲み込むと、彼が肩で笑った。知られている気がして、くすぐったい。
*
仕立て場。
丈を測る木尺や、白い仮縫い布が並ぶ静かな部屋で、わたくしは設計図のような図案をひろげる。
胸元の線を指差して、彼に問う。
「……これは、どう、思われます?」
わたくしの指先が触れているのは、少しばかり大胆な開き。
ロジオンは、図面を見て――図面を一瞬で通り越し、わたくしを見て――そして慌てて視線を戻した。
耳、とても赤い。
「す、すみません。えーと……私は、その……」
「はい?」
「あなたが、綺麗すぎると……皆が、見ます」
「皆が?」
「ええ。だから――」
喉が、ごくりと動く音が聞こえた。
彼は小さく息を整え、机の上の別の絵型を指さす。襟は浅く、鎖骨の弓を薄い布でなぞるだけの、静かな美しさ。
「こっちのほうが、好きです。風で、少しだけ透けて、でも……あなたを見るのは――」
そこで言葉が途切れ、耳が、完全に赤くなる。
わたくしの口元が勝手にほころぶ。
「自分だけに、なさりたい?」
最後の言葉は、ほとんど囁き。
わたくしの胸に、やさしい雷が落ちた。
「……承知しましたわ」
指が勝手に、彼の袖を小さくつまむ。
彼は気づかぬふりで、でも手の甲だけ、わたくしの指に触れてきた。きゅ。
*
ひと巡り終えるころ、空は蜜柑色にほどけて、風がやわらいだ。
小高い見晴らしの、染め川を見下ろす土手へ。
わたくしは繋いだ手に、また、強弱をつけてしまう。
ぎゅ、ふわ、ぎゅ。
ロジオンは何も言わない。ただ、指を絡め直して、もう片方の手でマントを肩にかけた。
視線が合う。笑って、逸らして、また合って――それだけで胸が忙しい。
夕闇が落ちて、最初の星がひとつ。
彼はそっとわたくしを抱き寄せ、額に、星みたいに短い口づけを落とした。
「……セレフィーナ。今日は、よく歩きましたね」
胸の鼓動が肩越しにやさしく伝わる。
わたくしは両腕を彼の首に回し、すこしだけ引き寄せる。背伸びをして、頬に小さく口づけ。
――そこまでしたところで、顔を上げる勇気が出なくて、そのまま彼の肩口に頬を埋めてしまった。
耳もとで、彼が低く笑う。
「……視察、はおしまいです」
わたくしも笑って囁く。
「あら、わたくし今日は“デート”だと思っていましたのよ」
「では――デートを続けましょう。少しだけ」
「ええ。もう少しだけ、このままで」
胸元の視察札が、風に「ちり」と鳴った。
視察は終わり。
――でも、恋は、まだ続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます