第12話 そして夜は、静かに沈む
夜が明ける少し前――その静けさの手前に、昨夜の余韻がまだ温もりを残しておりました。
雁の宿。南部の政務を支える仮の拠点となっている、その名のとおり渡り鳥のように人と情報が行き来する宿でございます。もっとも、もとより一般客の姿はなく、ここしばらくはロジオンとその協力者たちだけが寝起きしている場所。街の喧騒から半歩だけ外れた高台の上、石段を上がるたび、胸の奥に、ぽつぽつと灯りがともるような、不思議なほど落ち着く場所でした。
到着の折、ラウレン殿とロジオンが、短く言葉を交わしました。公爵家に仕えていた時期は重なっていたけれど、担う役目は違っていたのだとか。ことさら親しげでもないのに、目と頷きだけで呼吸が合う――場数を踏んだ者同士の、無言の手際。あれは安心という名の見えない手すりで、わたくし、あの一瞬で足元がしっかりした気がいたしました。
夕食は簡素。けれど、しみじみ美味しゅうございました。素朴なスープは野菜の甘みが真面目に立っていて、塩気は遠慮深く、最後に舌の端で小さく挨拶をするだけ。焼きたてのパンは、皮がぱり、と短く鳴って、内側は湯気ごとふわりと崩れていく。ハーブ茶は香りに小さく背筋が伸びるような清さがあって、深く吸えば胸の中がひとつ片づく、そんな一杯でした。なにより、あなたの隣でひと口ずつ味わえるということ――それ自体が、いちばん贅沢なお皿でございましたわね。
「本当に……急に押しかけてしまって、ごめんなさい」
そう言ったわたくしに、あなたは首を横に振り、目元だけでそっと笑って。
「あなたが来てくださって、救われました」
この一言の前では、気の利いた返事は役に立ちません。胸の奥がふわりとひらいて、しばらく言葉が出ませんでした。わたくし、幸福を飲み込むときだけは、少し不器用なのです。
食後、明日の段取りを短く交わしました。
「しばらくは、政務と整備で手一杯になると思います」
疲労の色は隠せないのに、声の芯だけはまっすぐで、手元の仕事がよく見えている人の声音でした。
「それなら……明日も、傍で見ていてもよろしいかしら?」
「もちろんです」
その「もちろんです」で、胸の糸がほどける感覚。約束の言葉というのは、どうしてこうも簡単に人を眠らせるのでしょう。わたくし、安心という毛布にくるまれてしまいました。
部屋はマリーニャと同室。彼女は侍女にして、父が付けてくれた四人の護衛のうちの一人――身の回りの世話を欠かさず、同時に護身の手も決して緩めない人です。南部慣れしたその手際は流れるようで、髪を解く、夜着に替える、湯を整える――その一つひとつが、旅の埃をやさしく落としてくれます。湯は少し硬めの水でしたが、乾いた草木の香りが漂い――どこかで嗅いだことのある、勇気の匂い、という感じ。湯気の向こうで、今日の自分と少しだけ目を合わせます。ああ、本当に――会えたのだ、と。
寝具に潜り込んでから、マリーニャが小声で。
「……本当は、手を繋いで眠りたかったんじゃありませんか?」
反射的に背中を向けてしまったわたくしに、彼女はくすりと笑いました。意地悪ではなく、女同士の内緒話の合図みたいな笑い。わたくしも、小さく、枕に笑いを埋めました。――ええ、焦らなくてよろしいのよ、と自分に言い聞かせながら。
灯りを落とすと、雁の宿の静けさが戻ってきます。ところが、その静けさを、遠くの足音が一瞬だけ切りました。廊下の敷石を、勢い任せに叩く音。角でスピードを誤ったのでしょう、壁に肩をぶつけた鈍い音。次いで――抑えきれない声。
「兄貴ィィ!! てぇへんだぁ!! 『兄貴のお嫁になる』って名乗ったお方が、広場で一席ぶって――……あ、あれ? も、もうお休み中……?」
マリーニャが肩を小さく震わせ、わたくしの耳元で囁きます。「お気になさらず。南部は、元気が良いのです」
わたくしは布団の中で笑いを噛み殺しながら、胸の中で、そっと灯りを撫でるように確かめました。広場の空に残した言葉が、どこかで誰かの背中を押しているのなら――それもまた、嬉しいこと。
そうして夜は、ようやく、静かに沈んでいったのです。
……さて。朝になりましたら、約束どおり、あなたのお仕事を拝見いたしましょう。わたくしが並んで歩くと決めた道が、どんな石畳で敷かれているのか――この目で、ちゃんと。
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