第11話 あなたのいる空の下で

 砂の匂いと、乾いた風。

 それは、記憶の底にほのかに沈んでいた感覚だった。


 あの時――魔王城からの帰路。

 護衛に囲まれた馬車の窓を、ひとときだけ開けたことがある。

 夜の風は冷たく、けれどどこか澄んでいて、胸の奥が静かに鎮まったのを覚えている。


 (この空の下を、彼は歩いた)


 その想いだけが、深く残った。

 だから、わたくしはここに戻ってきたのだ。

 ただ、あなたに会いたくて――もう一度、ちゃんとこの空気を吸いたくて。


「セレフィーナ、様……?」


 わたくしの名を呼ぶその声は、夢で聞いたものとまるで同じ。

 変わらぬ声音、少し戸惑いを含んだ優しさ。

 その声は、耳ではなく、胸の奥に届いた気がした。


「どうしてここに……?」


 問いかけの意味は分かっている。

 わたくしはただ、微笑んで言葉を紡いだ。


「……魔王城を落ち延びたあのとき、ほんの一瞬すれ違っただけの空気が、ずっと忘れられなかったのです。

もう一度、胸いっぱいに吸い込みたくなりまして」


 少し意地悪な冗談のように言ってしまったけれど、

 心の底では、もっと率直に叫びたかった。


 だから、わたくしはまっすぐに顔を上げる。

 気持ちを整えて、誇りを込めて告げる。


「けれど――それだけではなく、

 あなたの傍で支えることこそが、妻となる者の正しい務めですわ」


 たとえ誰に問われても、胸を張れる言葉。

 けれど、彼の目を見てしまったら、それだけではもう足りなくて。


「……でも、本当はただ、会いたかったのです」


 その一言が、喉の奥からこぼれ落ちたときには、

 もうわたくしの身体は、彼の胸元に吸い寄せられるように動いていた。


 彼の腕が、そっと背中を包む。

 胸に伝わる鼓動と、静かな体温。


 そのとき、彼がぽつりと呟いた。


「……あの光の柱を見て、もしやと思いましたが……やはりあなたでしたか」


 それだけで、長い旅路の疲れが溶けていく。

 わたくしは、この温もりを求めてここに来た。

 ただそれだけの理由で、どんな困難でも超えられた。


 ふと、顔を上げると、彼は何も言わずに微笑んでいた。

 わたくしの髪にそっと触れたその手に、懐かしさが宿る。


 この空の下で、こうしてまた逢えた。

 ただ、それが嬉しかった。


 南部の空は、今日も乾いている。

 けれどその乾いた風の中で、

 わたくしの心は、しっとりと潤っていた。


 ――あなたのいる場所が、わたくしの帰る場所。

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