第10話 セレフィーナ嬢、南部に告ぐ
その夜――
一条の閃光が、南部の空を引き裂いた。
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セレフィーナ・ルクレツィア・アークレインは、公爵家の令嬢である。
魔王国への人質として送り出された彼女と、その護衛役を務めた騎士ロジオン――そこから始まった関係は、幾多の困難を越えて婚約へと至った。
今の彼女は、もう無敵――少なくとも、恋する乙女としては。
婚約が決まった翌日、ロジオンは穏やかに告げた。
「貴方を迎える準備を整えてまいります」
「ええ、お待ちしておりますわ」
――その時は、本気で待つつもりだった。
……三日後。
「駄目ですわ……もう、限界です」
窓際の肘掛椅子にちょこんと腰を下ろし、両膝を抱えて小さくうずくまる令嬢。
朝はお茶の香りを嗅いでは「これはロジオンの好む銘柄ですわ」と呟き、昼は空の雲を見て「……あの形、後ろ姿に似ていますわ」とため息。
夜には抱き枕を抱きしめ、ぽそりと「ロジオン……」。
侍女から見れば、完全にロジオン欠乏症である。
「……待つだけでは、婚約者としての務めを果たしたことになりませんわ」
そう言いながら、自分でもそれが詭弁だと分かっている。
けれど、理由は欲しい。恋に理由をつければ、堂々と動けるから。
勢いよく椅子から立ち上がると、机に広げた地図を指先でとんとん叩く。
「彼の働きぶりをこの目で確かめ、必要とあらば支える――それこそ妻となる者の務めですわ!」
もちろん、真の理由はただ一つ。「会いたい」以外の何物でもない。
その動きを察したアークレイン公爵は、反対することなく出立を許可した。
同時に四名の随行を選び出す。
ひとりは公爵家直属の近衛騎士で副隊長格。
残る三名は、南部の荒い気風にも臆さぬ実戦経験豊富な精鋭たち。
彼らは護衛であると同時に、公爵の目でもあった。
――ロジオンに近い視点からの報告も、あって困るものではない。
こうしてセレフィーナ嬢一行は南部へ向けて出立した。
馬車の中、セレフィーナ嬢は両頬を手で支え、窓の外を眺めながら時折にやける。
「きっと、働くロジオンも素敵なのでしょうね……ああ、でも寝起きの髪もきっと可愛い……」
やがて、目を細めて想像の中の婚約者に問いかける。
「私が行ったら……驚くかしら。喜ぶかしら」
侍女は口元を押さえ、笑いをこらえて視線を逸らした。
秋の陽は早く、空の端に暮色が差し始めた頃、一行は南部の城下に差しかかる。
しかしそこで待っていたのは、花道でも楽隊でもなく――怒号と笑いが渦を巻く混沌の広場であった。
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広場の片隅には、酒樽や屋台のようなものまで並んでいた。
昼間から飲んでいる者もいれば、串焼きを片手に大声で笑う者もいる。
「管理官ご一行お帰りの儀」と書かれた木札が揺れ、どうやらこれは半ばお祭りだった。
そして――その「お帰りの儀」の標的と間違えられたのが、セレフィーナである。
「おい、ありぁ管理官の馬車じゃねぇのか!」
「また来やがったか! ロジオンの兄貴以外はお断りだって、何度言や分かる!」
「今日は派手に送ってやろうぜ!」
「木箱持ってこい、前回より高く積むんだ!」
「ぶっ潰せ!」
男たちの声が波のように押し寄せ、馬車の進む道は人垣で塞がれていた。
怒号と笑い、酒の匂い、乾いた砂煙――祝祭と喧騒がないまぜになった空気が押し寄せる。
「……通せ!」
護衛の副隊長ラウレンが声を張るも、群衆は意に介さない。
誰かが轅を掴んで馬車を揺らす。馬が高く嘶き、前脚を振り上げた。
「姫様、このままでは……!」
ラウレンが扉を押さえた瞬間――
「――目を閉じなさい」
落ち着いた声が、狭い馬車の中に響く。
その声音に、護衛たちは反射的に従った。
――閃光。
それは、陽光を凌ぐ白の奔流だった。
馬車の屋根を貫き、広場全体を白で塗りつぶす。
影は一瞬で消え、輪郭すら溶け落ちる。
瞼を閉じてなお、焼き付くような残光が視界を支配した。
音もなく光が引いたとき――
そこに立っていたのは、淡金の髪を陽光の冠のように輝かせた少女。
砂を払うように長いマントを翻し、馬車屋根の上で群衆を見下ろしている。
風が彼女の裾をかすかに揺らすほかは、すべてが静止したようだった。
「もう、管理官は来ませんわ」
澄んだ声が、広場を満たす。
「あなた方が、そしてロジオンが、それを退けたのです。アークレイン公爵家が、その事実を保証いたしますわ」
ざわめきが起こる前に、彼女はさらに言葉を紡いだ。
「――私は、ロジオンの妻となる者、セレフィーナ・ルクレツィア・アークレイン」
その名は静けさの中に響き渡る。
「皆様の後押しと支えあって、ロジオンはこの南部をひとつに束ねることができました。
けれど、それで全てが安泰というわけではありません。
掟はまだ脆く、人も揺らぎ、足場は決して固くはない」
ひと呼吸置き、視線を巡らせる。
「それでも、あなた方は立ち上がった。
もし希望を見出してくれるなら……
どうか、その希望を脚に宿し、共に歩んでください」
「――ロジオンが皆様をまとめたといっても、まだ南部はひとつではありません。
その脆さを埋めるのは、外からの権威ではなく、あなた方自身です」
深く息を吸い、凛とした眼差しで人々を見渡す。
「もし希望を感じ、その光を一歩に変え、共に立ってくれるなら……
私は新参ではありますが、あなた方と共に、この南部を築きます」
そして、言葉を一拍置き、真っ直ぐに告げる。
「ロジオンを愛するというのであれば、凛として在りなさい。
愛する者に恥じぬ自分で在りなさい」
その言葉は、彼らに向けた戒めであると同時に、彼女自身が生涯を通して背負ってきた矜持でもあった。
愛する者の隣に立つため、己を律し続ける――それがセレフィーナ・ルクレツィア・アークレインという少女の在り方だ。
「歩むと決めたなら、浮き足立つのはここまでです。
祭りは終わり。これからは、あなた方の選んだ道を胸を張って歩きなさい」
その声は決して荒くはない。だが、柔らかさの奥に、否応なく背筋を伸ばさせる力があった。
そして、最後に再び。
「――私はセレフィーナ・ルクレツィア・アークレイン。
間もなくロジオンの妻となる者です」
言葉が落ちた瞬間、広場の空気が変わった。
浮つきは消え、胸の奥に熱が走る。
「……いい女だ」
その一言が合図のように、人垣が左右に割れる。
土煙の中、馬車のための道が開かれた。
ラウレンが無言で頷き、御者台の手綱が軽く引かれる。
馬車は砂を踏みしめ、ゆっくりと進み出した。
道の両脇では、無骨な顔つきの男たちが黙ってその姿を見送る。
その瞳には、先ほどまでの浮ついた光はもうない。
やがて馬車が角を曲がり、姿が見えなくなると、誰かが口を開いた。
「……なあ、今の」
「おう」
「ありゃあ……兄貴の嫁さんだ」
短い沈黙。
次の瞬間、笑い声と口笛が混ざり、
「姐さんだ!」
「姐さんがお出ましだ!」
南部の空に、祝いの喚声が高く響いた。
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