第9話 理想の麦畑
ロジオンが旅立って五日目の午後。
セレフィーナ嬢は自室の机に広げた地図を前に、羽ペンをくるくると回していた。
窓から差し込む陽光が、地図の一角――「南部領域」と記された部分を柔らかく照らしている。
「……きっと二、三年もすれば、どこか小さな村の領主になってくださいますわね」
その声は、確信と甘やかさを等分に混ぜたもの。
アモレットから「南部に向かった」と聞かされた瞬間から、彼女の脳内には未来図が色鮮やかに描かれはじめていた。
それは――
緩やかな丘の上に、小さな砦。
砦の周囲には黄金色の麦畑が波打ち、羊や山羊がのんびりと草を食んでいる。
白いシャツの袖をまくったロジオンが鍬を肩に担ぎ、麦畑の中をゆったりと歩く。
村人たちは笑顔で「旦那様!」と声をかけ、子どもたちは無邪気にその後を追いかける。
(ああ……なんて素敵な光景……!)
頬に両手を添えてうっとりと目を閉じる。
ロジオンは収穫の季節になると、村人たちと一緒に麦を刈り、秋祭りでは踊りの輪の中で笑ってくれるだろう。
冬には暖炉の前で「よく働いたな」と笑いかけてくれるに違いない。
もちろん、領地運営はそう単純ではないことくらい知っている。
役人が難癖をつけ、商人が不当な減税を求めてくるかもしれない。
だが、そういう場面こそ彼女の出番だ。
王都の社交界で築いた人脈を駆使して、問題を見事に片づけてみせる。
(「そこは私にお任せくださいませ」――ふふ、きっと驚かれますわ)
そんな妄想の余韻の中、南部からの速報が舞い込んだ。
「長らく人々を悩ませてきた『彷徨える屍人』問題、ついに解決」――大きな見出しが踊っている。
人が住める土地が広がるということは、領地獲得の好機が早く訪れるということ。
セレフィーナ嬢は小さく頷くと、ロジオン宛ての手紙を書き始めた。
「南部の情勢はこうなりました」と添えて返せば、きっと彼も喜んでくれるだろう。
ところが翌日、先に届いたのはロジオンからの手紙だった。
南部にて所領を得る目処が立ちました。
数日内に帰還します。
話がございます。
「……まあ!」
椅子から半分立ち上がったまま、手紙を胸に抱きしめる。
二、三年はかかると思っていたのに、一週間足らずで――!
胸の奥で熱いものが込み上げる。
誓いをこんなにも早く果たしてくれた自分の騎士様に、深い敬意と誇りがあふれる。
(どんなにつつましやかな領地でも、ロジオンと共にいられるなら……それが幸せですわ)
*
*
*
七日目の朝、城門前。
煤と埃をまといながらも、まっすぐな足取りで歩くロジオンの姿があった。
鎧は着ていない。煤と埃にまみれたその姿――しかし、その瞳だけは澄みきっていた。
「――ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ……まさか一週間で、所領を……!」
「はい。思ったより早くまとまりまして」
胸を高鳴らせたまま、セレフィーナ嬢が尋ねる。
「まぁ……畑を耕す人々を集めて、柵を作って……?」
ロジオンが一瞬、首を傾げた。
「……畑も、柵も、結果的には整いました」
「結果的に?」
「はい。魔王軍の残党と、地回りと、教団をまとめたので」
「……え?」
「それから、亡者の供養も」
「……え?」
「あと港と街道の利権も」
「……あの、それは……村をひとつ手に入れる、というお話では……?」
「ええ。……南部全体が、私の所領です」
(青空の下で麦を刈るロジオン――の、はずが……)
なぜか脳裏に割り込んできたのは、昔読んだ三文小説の挿絵。
港町を牛耳る親分衆の、そのど真ん中で、煙草をくゆらせ、肩を揺らして笑うロジオン――という、ありえない構図。
よりにもよって、その真ん中で一番いい笑顔を浮かべている――しかも主役がわたくしのロジオンだなんて!
……これ、どう見ても開拓ではなく、抗争勝利の祝賀会ですわ。
セレフィーナ嬢は、静かに――しかし念入りに、自らの「ほのぼの開拓計画」を心の奥の納戸へと封じた。
ほんの一瞬、窓の外の麦畑の向こうで鍬を振るうロジオンの幻が見えた気がする。
その柔らかな残像が胸に残るうちに、ロジオンがふと問いかけた。
「……南部での私の姿を、何か想像していましたか?」
セレフィーナ嬢は肩をびくりと揺らし、慌てて目を逸らした。
耳まで赤く染まるセレフィーナ嬢を見て、ロジオンは小さく息を吐き、片方の口角をわずかに上げた。
「可愛らしい想像に水を差してしまいましたかね。ですが……」
一歩、距離を詰め、声を低く落とす。
「あなたを娶るには、南部だけでは足りないかもしれません……。それでも――どうか、ご容赦を」
「……っ、も、もちろんですわ!」
こうして、「ほのぼの開拓計画」と「なぜか物騒な南部制圧」の落差は、優雅に、しかし容赦なく幕を閉じた。
*
*
*
アークレイン公爵執務室。
年輪を刻んだ渋い顔に、穏やかそうな笑み――しかし瞳だけは氷のように冷たい。
それがセレフィーナ嬢の父であった。
机上にはロジオンの手紙。
「南部の支配権をアークレイン家の権威のもと認めさせてほしい」
平和な空白地帯と見られ、誰かが手を伸ばす前に、家の名で防波堤を築く必要がある――その要請だった。
「……七日で南部をまとめたか。大したものだ」
公爵は低くうなり、短く考える。
「婚姻を結べば南部は我が家の勢力圏……他家に渡すより、はるかに良い」
セレフィーナ嬢は、ゆるやかに扇を広げ、微笑む。
「でしたら――結婚と、この件を、ぜひセットでお認めくださいませ」
公爵は一瞬だけ娘を見据え、ふっと口角を上げた。
「……むしろ田舎の小領主でも連れてこられた日には、どうしたものかと頭を抱えていたところだ」
セレフィーナ嬢は、くすりと笑い、扇で口元を隠した。
「あら、その時は――私がお父様に呑ませましたわ」
公爵は机に肘をつき、娘をじっと見据えた。
「セレフィーナ。南部は広い。まとめたとはいえ、まだ牙を抜ききったわけではない。
人も掟も、金も、すべてが脆い。……あの男は、それを呑み込む器を持っているのか?」
「もちろんですわ。そして――私もおります」
ゆるやかに首を傾げ、淑やかに答える。
「お父様がお認めくださったこの婚姻は、私の誇り。
南部がどれほど荒れようとも、その秩序と誇りは、決して崩させませんわ」
短い沈黙。
そして、公爵は署名を終えると、額を指先でさすりながら言った。
「……またお前に毛を焼かれてはたまらんからな」
「今回はご理解が早くて助かりますわ」
ふと公爵は、ほんの少し視線を和らげ、呟く。
「まったく……母親に似すぎだ」
「光栄ですわ」
人懐っこい笑顔の奥に、父の計算は揺るがない。
だが、温厚そうな顔立ちの額に刻まれたM字は――……少しだけ深くなっていた。
そしてその影には、愛娘の選んだ男を認めた誇らしさが、ほんのわずかに滲んでいた。…………もちろん、その誇らしさすら計算に含めて。
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