第2話 「記憶の値段」



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青山通りは、今日も何事もなかったかのように人と車で溢れていた。


シンは交差点の角に立ち、五年前と変わらない風景を見つめていた。街角に小さな花束が供えられているのを除けば、何も事故があったことを示すものはない。


「綺麗な花ですね」


振り返ると、黒いスーツを着た男が微笑んでいた。見覚えのある顔だった。かつて同じ組織に属していた後輩の一人、クロウ。


「久しぶりだな、シン。こんなところで会うなんて偶然だ」


「偶然じゃないだろう」シンは警戒した。「何の用だ」


「そう冷たくするなよ。今度、新しいビジネスを始めてさ。君の協力が欲しいんだ」


クロウは名刺を差し出した。『メモリーブローカー株式会社』と書かれている。


「記憶の売買を組織化した。君のような職人が抽出した良質な記憶を、適切な価格で流通させる。win-winの関係だ」


「断る」シンはそっけなく答えた。


「まあ、そう言うと思ったよ。でも面白い情報がある」クロウは携帯端末を取り出し、画面を見せた。「田中美咲、享年八歳。この子の記憶、闇市場で高値がついてるんだ」


シンの血が凍った。


「死者の記憶なんて存在しない」


「そうかな?」クロウは意味深に笑った。「母親が大切に保管していた動画、写真、日記。そういうものから記憶は『再構築』できる。特に、愛する人を失った遺族の記憶からはね」


画面には美咲の笑顔の写真が映っていた。その下に『入札開始価格:500万円』の文字。


「なぜ美咲の記憶が商品になる?」


「純粋な子供の記憶は貴重なんだよ。特に悲劇的な最期を遂げた子供のものは、富豪のコレクターたちに人気がある。『失われた純真』を疑似体験したがる変態どもがいるのさ」


シンは拳を握りしめた。


「やめさせろ」


「無理だね。もう市場に出回ってる。ただし」クロウは声を潜めた。「元データを持っている母親の協力があれば、もっと『本物らしい』記憶を作れる。君が説得してくれれば、マージンを出そう」


「消えろ」


「考えておけよ。ビジネスは止められない。君が協力してくれれば、少しは『品質管理』ができるかもしれないが」


クロウは立ち去っていった。シンは花束を見下ろした。造花ではなく、生花だった。毎日誰かが取り替えているのだろう。


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夕方、オフィスに戻ると新しい客が待っていた。


二十代前半の青年で、緊張した面持ちでいた。


「何を忘れたいのですか?」


「僕の…初恋の記憶です」青年—佐藤と名乗った—は恥ずかしそうに言った。「彼女にフラれて、もう三年になります。でも忘れられなくて」


「三年で初恋を忘れたいと?」


「友達は『時間が解決する』って言うんですが、全然だめで。彼女の笑顔を見るたびに苦しくなって、新しい恋もできません」


シンは青年を観察した。傷つきやすそうな目をしているが、どこか純粋な光があった。


「その記憶を消したら、あなたは何になりますか?」


「え?」


「初恋があなたを形作っている。優しさも、恋への憧憬も、今の感受性も。それを消したら、あなたは別人になる」


「でも楽になれます」


「楽になることと、成長することは違います」


シンは立ち上がって、保管庫を指した。


「ここには無数の記憶が保管されています。愛、憎しみ、希望、絶望。でもその記憶は、もう誰のものでもない。商品として売買されるだけの『データ』です」


青年は困惑した表情を浮かべた。


「あなたの初恋の記憶には、どんな値段がつくと思いますか?」


「値段って…」


「純粋な初恋の記憶は、一千万円程度でしょうか。買い手は、自分の初恋を美化したい中年男性や、恋愛経験のない富豪など」


青年の顔が青ざめた。


「僕の気持ちが、お金で売買されるんですか?」


「記憶を商品にした瞬間、それは『物』になります。もはやあなたの人生の一部ではなく、他人の娯楽の道具です」


「でも、苦しいんです」


「苦しみを乗り越えてこそ、本当の強さが生まれる。記憶を消すのは簡単ですが、それで得られる平穏は偽物です」


青年は長い沈黙の後、立ち上がった。


「もう少し、頑張ってみます」


「それが賢明です」


青年が帰った後、シンは一人考え込んだ。自分は今、何をしているのだろうか。記憶を消すことで人を救っているつもりが、実際は人間性を『商品』に変えているだけなのかもしれない。


ドアチャイムが鳴った。エミ子が立っていた。


「決めました」彼女は毅然とした表情で言った。「美咲の記憶を消してください」


「考え直すことはできませんか?」


「もう限界です。それに」エミ子は震え声になった。「美咲の記憶が売買されてるって聞いたんです。私が覚えている限り、美咲は商品にされ続ける。それなら、いっそ」


シンは息を呑んだ。クロウの言った通りになっている。


「誰から聞いたのですか?」


「黒いスーツの男性が教えてくれました。『母親の記憶を消せば、娘は安らかに眠れる』って」


罠だった。クロウは最初からエミ子を追い込むつもりだったのだ。母親の記憶を消して口封じをし、偽造した美咲の記憶を売り続ける計画だ。


シンは決断した。


「分かりました。明日の夜、処置を行います」


エミ子は安堵の表情を浮かべて帰っていった。


一人残されたシンは、携帯電話を取り出してクロウに電話をかけた。


「条件がある」


『何だ?』


「エミ子の記憶処理は俺がやる。その代わり、美咲の記憶の売買は中止しろ」


『面白い。で、本当に消すつもりか?』


「それは明日分かる」


シンは電話を切り、雨の降り始めた窓の外を見つめた。


明日の夜、全ての決着をつける。エミ子にも、美咲にも、そして自分自身にも。


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