第3話 「記憶の交換」
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処置室は薄暗く、二つの椅子が向かい合うように設置されていた。
エミ子は震える手で同意書にサインをしながら呟いた。
「これで楽になれるんですよね?」
「ええ」シンは機械の調整をしながら答えた。「ただし、一つ条件があります」
「条件?」
「記憶の処理には、同等の『記憶容量』が必要です。あなたの美咲さんへの愛の記憶を抽出する際、その空白を埋める記憶を移植する必要がある」
それは嘘だった。技術的にそんな必要はない。しかしシンは、もう決めていた。
「どんな記憶を?」
「同じ事故に関する記憶です。ただし…」シンは手を止めた。「異なる視点からの記憶を」
エミ子は不安そうに首を傾げた。
「どういう意味ですか?」
「被害者ではなく、加害者の視点からの記憶です」
「なぜそんなものを?」
シンは振り返った。五年間背負い続けた重みを、ついに共有する時が来た。
「その記憶の持ち主が、私だからです」
エミ子の顔から血の気が引いた。
「あなたが…美咲を?」
「五年前、雨の日。私は別の仕事を終えて車で逃走していました。青山通りの交差点で、赤信号を無視して」シンは椅子に座った。「美咲さんを轢いたのは、私です」
エミ子は立ち上がろうとしたが、膝から力が抜けて座り込んだ。
「嘘…」
「だからこの仕事を始めました。人々の痛みを消すことで、少しでも贖罪をしたくて。しかし皮肉なことに、被害者の母親が私のところに来てしまった」
「殺してやる」エミ子の声が低く唸った。「美咲を返して」
「できません。しかし、別の提案があります」
シンは記憶処理装置の電源を入れた。青い光が二人を照らした。
「私の罪の記憶と、あなたの愛の記憶を交換しませんか」
「何を言ってるの?」
「あなたは事故の瞬間を、加害者の視点から体験することになります。ハンドルを握り、ブレーキを踏み、それでも間に合わなかった絶望を知るでしょう」
エミ子は恐怖に震えた。
「そんなこと…」
「その代わり私は、美咲さんを愛し、育て、誇りに思った記憶を受け取ります。母親として彼女を愛した、その重みを背負います」
「私の美咲への愛を、あなたに渡すって?」
「はい。そうすれば」シンは装置のヘルメットを手に取った。「あなたは私の罪悪感を背負い、私はあなたの愛を背負う。二人とも美咲さんを忘れることはありません」
「それが贖罪だと?」
「いいえ。それが責任です」シンは自分の頭にヘルメットを装着した。「記憶を消すことは逃避です。しかし、記憶を分かち合うことは―」
「狂気よ」
「かもしれません。しかし、美咲さんは二つの視点から愛され続けます。被害者の母親としてのあなたの愛と、加害者としての私の償いと」
エミ子は長い間沈黙していた。そして、震える手でもう一つのヘルメットを取った。
「これで…美咲は安らかに眠れるの?」
「分かりません。しかし、忘れ去られることはありません」
「私は…あなたを許せない」
「構いません。私も、私自身を許していませんから」
二人は同時にヘルメットを被った。機械の駆動音が響く。
「始めます」
青い光が強くなった。
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記憶が流れ込んできた。
エミ子は、突然ハンドルを握っていた。雨に濡れたフロントガラス。急ぐ理由。後ろから追ってくる不安。そして―
赤信号の交差点に、小さな影。
「だめ!」
ブレーキを踏んだ。間に合わない。衝撃。後ろ髪を引かれる思いで逃げていく自分。罪悪感。
一方でシンには、別の記憶が流れ込んだ。
美咲の産声。初めて「ママ」と呼んでくれた日。運動会で一等賞を取った時の誇らしい笑顔。毎朝作った弁当。読み聞かせた絵本。愛しい娘への、深く純粋な愛―
二人は同時に叫んだ。
処置が終わった時、部屋には静寂が戻っていた。
エミ子は震え声で呟いた。
「あなたも…苦しんでいたのね」
シンの頬に涙が流れていた。
「美咲さんは…こんなに愛されていたんですね」
二人は向かい合っていた。加害者と被害者という立場は変わらない。しかし今、二人とも同じ重みを背負っていた。
「これからどうしましょう」エミ子が問いかけた。
「一緒に、美咲さんのお墓参りに行きませんか」シンが答えた。「二人で謝りましょう。そして、二人で愛していることを伝えましょう」
エミ子は頷いた。
「美咲は…きっと混乱するでしょうね。お母さんが犯人の気持ちを理解して、犯人がお母さんの愛を知ってるなんて」
「それでも」シンは立ち上がった。「忘れられるよりは、いいかもしれません」
二人は記憶処理室を出た。外では雨が止み、薄日が差していた。
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その夜、クロウから電話があった。
『どうだった?本当に消したのか?』
「消していません」シンは答えた。「交換しました」
『何だって?』
「エミ子さんは美咲さんを覚えています。私も覚えています。だから美咲さんの記憶を偽造して売る必要はなくなりました」
『馬鹿な真似を。それで罪が軽くなると思ってるのか?』
「重くなりました」シンは微笑んだ。「愛を知った分だけ、罪の重さも増しました。しかし、それが正しい重さです」
電話を切って、シンは保管庫を見上げた。無数のメモリーカプセルが青く光っている。
明日から、この仕事を続けるかどうか分からない。しかし今夜だけは、美咲への愛の記憶に包まれて眠ろう。
母親の愛を知った犯人として。
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