記憶を売る掃除屋

マスターボヌール

第1話 「雨の日の依頼」



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雨が降っている日は、記憶がよく売れる。


窓を叩く雨音が、人々の心の奥に眠っていた痛みを呼び覚ますからだろう。シンは薄暗いオフィスで、手のひらサイズのメモリーカプセルを光に透かして見つめていた。淡いブルーに光る液体の中に、誰かの十年分の恋愛記憶が凝縮されている。


「高く売れそうだな」


独り言を呟いて、シンはカプセルを専用の保管庫にしまった。壁一面に並ぶ無数のカプセル。喜び、怒り、悲しみ、絶望―—人間の感情の全てが、ここでは商品として整理されている。


ドアチャイムが鳴った。


「記憶処理サービス『忘却』へようこそ」


シンが振り返ると、黒いコートを着た中年女性が立っていた。雨に濡れた髪が頬に張り付き、腫れぼったい目をしている。典型的な「消したい記憶」を抱えた客の顔だった。


「あの、記憶を…消してもらいたくて」女性は震え声で言った。


「まずお座りください。何を忘れたいのか、聞かせてもらえますか」


女性—田中エミ子と名乗った—は、ゆっくりと話し始めた。


五年前、一人娘の美咲を交通事故で亡くした。犯人は当て逃げで、今も捕まっていない。夫は酒に溺れ、家を出て行った。エミ子は娘の部屋をそのままにして、毎日写真に話しかけて生きてきた。


「でも、もう限界なんです。美咲の記憶があるから苦しいんです。全部忘れて、新しい人生を始めたい」


シンは黙って聞いていた。この手の依頼は月に数件ある。しかし今回は、何かが引っかかった。


「娘さんの事故は、どちらで?」


「青山通りの交差点です。午後三時頃…」


シンの手が、わずかに震えた。五年前の青山通り。午後三時。雨の日。


記憶が蘇る。ターゲットを始末した帰り道。慌てて車を走らせていた。赤信号を無視して―—


「小学生の女の子でしたか」シンの声がかすれた。


「はい。美咲は小学三年生で…どうして知ってるんですか?」


シンは立ち上がった。エミ子の娘を轢いたのは自分だった。当時は裏社会の暗殺者として生きていて、警察に追われることを恐れてそのまま逃げた。その罪悪感から足を洗い、この仕事を始めたのだ。


「申し訳ありませんが、今日はここで終わりにしましょう」


「え?でも、まだ何も…」


「考え直してください。娘さんとの記憶は、あなたにとって本当に消すべきものなのか」


エミ子は混乱した表情で立ち上がった。


「分からないんですか?この苦しみが。毎晩美咲の声が聞こえて、眠れないんです。記憶があるから苦しいんです!」


「記憶がなければ、娘さんは本当に死んでしまいます」


「もう死んでるじゃないですか!」


エミ子の叫び声が、雨音に混じって消えた。


シンは窓の外を見つめた。五年前と同じ雨が降っている。


「一週間、考える時間をください。それでも消したいと思うなら、必ず引き受けます」


エミ子は何か言いかけたが、シンの表情を見て黙った。そして雨の中に消えていった。


一人残されたシンは、壁の保管庫を見上げた。無数のメモリーカプセルが青く光っている。その中に、自分の記憶だけは入っていない。


技術的に不可能だからではない。


自分だけは、忘れてはいけないと思うからだった。


雨が強くなっていた。今夜も、美咲の顔を夢に見るだろう。五年間、一日も欠かすことなく。


シンは机の引き出しから、古い新聞の切り抜きを取り出した。『小学三年生、当て逃げで死亡』の見出しが目に入る。


「忘れることは救いか、裏切りか…」


その答えを、一週間後に彼は知ることになる。


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