杏という少女 #2

 武蔵野藍矢むさしのあやは腕にあんと呼ばれた少女を抱きかかえたまま、誘拐に至った理由を語り出した。


「この子の事は数ヶ月前から知っていた。家庭事情までは知らないけど、この子は姉妹みたいにそっくりな年の離れた美人の女性二人にそれはもう大切に育てられていた。後で聞いた話だと、年上の方の女性はこの子にとってはお婆ちゃんにあたる存在だったらしい。私も八郎もこの子を見かけるたびに『可愛い、可愛い』そう言って見かけるたびに少しずつ大きくなっていくこの子の成長を見ていた。

 去年のクリスマスを迎える少し前だったか、この子のお婆ちゃんの姿をぱったりと見なくなった。最初のうちはまだ若いから良い男でも見つけて再婚でもしたんだろうかなんて話をしていたけど、彼女のことを知っているっていうパチ屋のおっさんから大動脈解離だかって言う病気で亡くなったって知らされて私らってば、この子たちとは一切接点がないのに自分の事のように悩んじゃって。

 年が明けて色々と落ち着いたのか、久しぶりに二人が出掛けている姿を見た。でもその姿はなんと言うか、見ていてとても辛い姿でね。美人だったあの子の顔はやつれていたし、この子もこの子で徐々に痩せこけているように見えて……。

 またそれからしばらくこの子を見かける機会が無いまま四日前、二人でパチを打っていると同じ店に目が虚ろなあの子が一人でやって来た。

 その姿を見た私らの脳裏にはこの子の姿が浮かんで、私らはすぐにパチ屋を出てこの子の家を探した。そうしたら、いつもこの子たちを見かけていた場所のすぐ近くで肌着におむつだけ、何週間か前に比べると気温は下がったとはいえ夏の日のアスファルトの上を泥だらけの足で歩いて『ママ』と声を上げるこの子を見つけた。

 誘拐になる事はわかっていた。でも、この子を放ったらかしにしてパチ屋に行くような親の元にこの子を置いておくわけにはいかないと思って、警察や児童相談所に預けたことであの子の元に戻ってまた同じようなことになったらと思って、私らは人生を棒に振る覚悟で全国に向けて声明を出した。

 全国で取り上げられるようなニュースになれば、仮にあの子がこの子を引き取っても誘拐のきっかけとなったネグレクトが露呈して、まだ幼いこの子は救われるかもしれない。そんな思いを抱いていたけれど、今に至るまであの子からは連絡はなくニュースも一週間と経たずに風化しかけていて、この子は……杏は私らが責任をもって育てようなんて八郎と話していたのに……」


「そのような理由が」


「ところで、どうしてその子を杏と呼ばれているのでしょう?」


「私らは遠めに見て頂けの他人でこの子の名前を知らない上、着ていた肌着やおむつにも名前らしきものは記載がなかった。そんな時、この子をつい普段の癖で『あんた』って呼んでみたら……」


「あいっ」


「今みたいにそう返事をした」


「推測ですけど、母親が常日頃からあんたと呼んでいたことでそれを自分の名前だと思ったとか? 『た』はまだしも『あん』は子供向けの絵本の主人公の名前の一部としても使われる程に子供にとって言いやすい単語のようですし」


 八重彦の推測はまさにその通りで、最上瀬理亜もがみせりあという名前であったその少女は母である希亜良きあらから何度も『あんた』と呼ばれ続け『あんた』を名前として認識してしまっていた。


「可哀想に。『あん』で返事をするから仮とはいえ杏って呼んでいたけれど……ごめんね」


「じょーぶ?」


 知らなかったこととはいえあまりに安直に名前を付けてしまった事を後悔した藍矢あやが涙を流して杏を抱き寄せると、杏は藍矢の事を心配しているかのように『大丈夫』を意味する幼児語でそう言い藍矢の頭を小さな手で撫でた。


 その行動は杏がこの四日間で藍矢と八郎はちろうと共に過ごしているうちに覚えた言葉と行動であったが、誰一人と知る由もなかった。


「とにかく、結果はどうであれお二方がこの子のためを思って行動したことはわかりました。こちらの一存でどうにか出来るようなものではありませんが、情状酌量の余地があると働きかけてみます」


「それと、杏ちゃんのお母さんについてですが、うちの所長から連絡がありましてネグレクトの疑いで逮捕となったそうです」


「そっか、それは良かった」


「先ほど、本部に応援を依頼しましたのでまもなくこちらにも志湧しわき管轄の警察が来ますので先ほどのお話を嘘偽りなくお伝えください」


「わかりました。あの、まだ杏の事は抱いていても?」


「恐らく本部の人間と共に児童相談所の人間も来るかと思いますのでそれまでは思う存分」


 日本全国を震撼させた誘拐犯の二人が逮捕されるまでごくわずかな時間しか残されていなかったが、そんな僅かな時間の中で藍矢、八郎、杏の三人は本当の家族よりも家族のような穏やかな時間を過ごしていた。

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