第6話 共生のヒント
視点を転換してからは、生きづらさとの向き合い方も変わってきた。それは「解決すべき問題」ではなく、「付き合っていくべき現実」として受け止めるようになったからだ。
まず大切だと気づいたのは、生きづらさを「自分のせい」と片付けないことだった。確かに改善できる部分もあるかもしれないが、すべてを個人の責任にしてしまうと、結局は自己否定のループに陥ってしまう。「努力すれば解決する」という発想から離れて、「これは構造的な問題でもある」という理解を持つことで、少し気持ちが楽になった。
同時に、「社会のせい」と切り捨ててしまうことも避けるようになった。社会に問題があることは事実だが、それを指摘するだけでは現実は変わらない。むしろ、「与えられた条件の中で、どうやって自分らしく生きていけばいいか」を考える方が建設的だと思えるようになった。
この転換の中で見えてきたのは、「ズレを埋める工夫」の重要性だった。完璧に適応することは無理でも、小さな調整や工夫で、そのズレを少しでも小さくすることはできるかもしれない。
例えば、朝の満員電車が苦手なら、少し早い時間や遅い時間の電車を選んでみる。職場での会議が苦痛なら、事前にメールで意見を共有しておく。SNSを見て落ち込みがちなら、見る時間を制限したり、フォローする人を調整したりしてみる。
こうした工夫は、根本的な解決にはならないかもしれない。でも、日々の息苦しさを少しでも和らげることはできる。そして、その積み重ねが、長期的には大きな違いを生むかもしれない。
もう一つ重要だと感じたのは、「同じように感じる人との連帯」だった。自分だけが生きづらいと思っていたが、実際には多くの人が似たような感覚を抱えていることがわかった。それに気づけたのは、少しずつ本音を話せる関係を築けるようになったからだった。
最初は勇気が要ったが、信頼できる人に自分の感じている息苦しさを話してみた。すると、相手も似たようなことを感じていることがわかった。「みんな完璧に適応しているわけではない」という当たり前のことが、実感として理解できたときの安堵感は大きかった。
そうした人たちとの関係は、お互いの「ズレ」を受け入れ合える貴重な場所となった。完璧である必要がない、弱みを見せても大丈夫、そんな安心感の中では、自然体でいることができる。それは、息苦しい日常の中での小さな避難所のような存在だった。
こうした経験を通して、最終的に一つの理解にたどり着いた。生きづらさは、誰のせいでもなく、誰もが多かれ少なかれ抱える宿命に近いものなのかもしれない、ということだった。
現代社会の複雑さ、多様性の中で完璧に適応することは、そもそも不可能に近い。みんなそれぞれに何らかの「ズレ」を抱えながら、それでも何とかやっていこうとしている。その中で大切なのは、そのズレを恥じることでも、社会を恨むことでもなく、その中でどうやって呼吸を見つけるかということなのかもしれない。
呼吸を見つけるということは、完璧な適応を目指すことではない。むしろ、自分なりのリズムを見つけること、無理をしすぎないこと、時には立ち止まることを許すこと、そして何より、一人ではないということを忘れないことなのかもしれない。
生きづらさは完全に消えることはないかもしれない。でも、それとうまく付き合っていく方法は、きっと見つけることができる。そして、その方法は人それぞれ違っていていい。大切なのは、自分なりの方法を見つけることと、その過程で出会う人たちとの小さな連帯を大切にすることなのかもしれない。
息苦しい世界の中でも、小さな隙間を見つけて、そこで静かに呼吸をする。それが、今の私なりの生きづらさとの向き合い方なのだろう。
(了)
生きづらいのは自分が悪いのか、社会が悪いのか 君山洋太朗 @mnrva
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