第5話 視点の転換
行き詰まりの中でもがいているうちに、ある日ふとしたことがきっかけで気づきがあった。それは、電車の中で見かけた光景からだった。
満員電車の中で、車椅子を利用している人がいた。周りの乗客は少しずつ場所を空けて、その人が安全に乗車できるように配慮していた。でも、その車椅子の人の表情を見ると、感謝の気持ちと同時に、どこか申し訳なさそうな表情も浮かんでいた。
その瞬間、はっとした。この状況で「悪い人」は誰なのだろうか。車椅子を利用している人が悪いわけでもないし、周りの乗客が悪いわけでもない。電車の設計が悪いと言えなくもないが、設計者も悪意があったわけではないだろう。誰も悪くないのに、何か居心地の悪い状況が生まれている。
これは、自分が感じている生きづらさと似ているかもしれない、と思った。「誰が悪い」という問題ではなく、単純に「合っていない」「噛み合っていない」ということなのかもしれない。
そう考え始めると、これまでとは違った見方ができるようになった。生きづらさは、「自分」と「社会」のあいだの、ちょうど境界線上に存在するのかもしれない。どちらか一方に原因があるのではなく、その境界部分で起きている「ズレ」や「不適合」の問題なのかもしれない。
例えば、朝型社会と夜型人間の間には、構造的なズレがある。夜型人間が朝の会議で集中できないのは、その人の努力不足でもないし、朝型社会が間違っているわけでもない。ただ、リズムが合っていないだけだ。
SNSで感じる疎外感も、同じように考えることができる。キラキラした投稿を見て落ち込むのは、自分の心が弱いからでもないし、投稿している人が悪いからでもない。「見せる文化」と「比較してしまう心理」の間に、構造的なズレがあるだけだ。
職場での人間関係も同様だ。空気を読むのが得意な人と苦手な人がいるのは当然で、どちらが優れているという話ではない。ただ、「空気を読むこと」を前提とした文化と、そうでない人の間にズレが生じているだけだ。
こうして考えていくと、社会の仕組みが一人ひとりに完璧に合うわけがないということがよくわかる。社会というのは、多くの人にとって「そこそこ機能する」ような仕組みとして作られている。でも、「そこそこ」ということは、完璧にフィットしない人が必ず存在するということでもある。
そして、誰しもが何かの場面では「普通」から外れる瞬間を持っている。完璧に社会に適応している人など、実際には存在しないのかもしれない。みんなそれぞれに、何らかの「ズレ」を抱えながら生活している。ただ、そのズレが表に出やすい人と出にくい人がいるだけなのかもしれない。
この気づきは、これまでの「悪い/良い」という二元的な思考から、「合う/合わない」という相対的な思考への転換を意味していた。問題を「誰かの責任」として捉えるのではなく、「状況の特性」として捉える視点だった。
その視点に立つと、自分を責める必要も、社会を一方的に批判する必要もなくなる。代わりに、「この状況で自分はどうやって呼吸していけばいいのか」という、より実践的な問いが浮かんでくる。
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