第4話

「なんで、……触るの?」


 ユカが、上ずる声を必死に抑えつけて、声を絞り出す。


 この傷を近くで見た人は、みんな気味悪がって嫌な顔をした。触ろうとする人なんか、ひとりもいなかった。だから、ずっと隠してきた。でもハルは、左手でユカの手首を握って、傷だけに気持ちを向けるように、大事そうに、傷に触れる。


 震える問いかけに、ハルがユカを見つめる。ハルの掌は、傷の一番醜く盛り上がった部分に、ぴったりとくっついている。


「わかんない。好奇心、かな?」


 自分に問いかけるように、ハルが言う。


 その時、駐車場の外で、人の気配がした。複数の足音と話し声が、駐車場の奥にいる二人の耳にも届いた。ピンッと空気が張り詰めて、ハルが素早く立ち上がる。


「待って!」


 それは、決して大きな声ではなかったけれど、ハルはギョッとして振り返った。

 また会えなくなる。その衝動が、思わず声になってしまった。ハルが慌てたようにその場にしゃがみこんで、ユカの頭を、自分の肩に強く押し付ける。ハルの唇が、ユカの頬や耳に触れる。


「馬鹿! 見つかったらどうすんだよ。声だすな!」


 叱るように言われたのに、ハルがあまりに近すぎて、ユカは何も考えられなくなる。このまま離れてしまいたくなくて、ユカの手が、ハルのシャツを掴む。ハルの手が、ユカの長い髪を、強く握る。


 耳をすませば、ハルを怯えさせた足音が、話し声が、するすると遠のいていったのがわかった。ユカを腕に抱いたまま、ハルはその場に座り込み、コンクリートにもたれかかって、ほっと大きく息を吐き出した。

 ハルのすっきりとしたおとがいが、ユカの目の前にある。鼻梁の通った鼻筋に、長い前髪がかかっている。その奥に、ユカを捕らえた、無機質な瞳がある。


「なぁ、あんた、なんでこんなに金持って歩いてんの?」


 背中に回した手が、ユカのポケットに入れていたお金を取り出す。裸のままの一万円札が十枚近く、ハルの手の中にあった。抜かれたことに気づけなかったことが不思議で、ユカはハルの指先ばかりを見つめていた。


 お金はいつも、適当にポケットに入れて出てくる。好きなときに好きなだけ、お金はあった。


『生きていくためには、お金が必要だから』

 そう言った、あの人の顔を思い出す。意味もなく、目頭が熱くなる。あの人のことを思い出すと、いつも泣きたい気持ちになる。でも、もうなにもかもが遠くてぼんやりとしているから、本当に泣くことは、今はない。


「金持ちの嬢ちゃんが、こんな夜中に何やってんだよ」


 呆れたように言って、ハルは手にした一万円札をそのままユカのポケットに突っ込むと、「はぁっ」と溜息する。


 耳の横に、ハルの唇が触れる。肩口に押し付けられたまま、ユカは容のいい頤を見上げ、自分の耳に触れる。ハルの唇の感触を追いかけて、そっと指でなぞる。ハルの触れた場所だけが熱くなって、ユカは瞼をふせる。


 外からはもう、何も聞こえなかった。シンとした夜の空気だけが、ふたりを包み込んでいた。けれどハルは警戒する猫のように息をひそめ、動かないでいる。


 ハルが物音に怯えているのを知っていながら、僅かな音さえ聞き逃さないように神経を尖らせていると気づいていながら、それでもユカは、何か話がしたくて、ハルの声が聞きたくて、小さな声で話しかけた。


「ハル、お腹空いてない?」


 あの夜の、背の高い男の子の言葉を思い出して、問いかける。


 ―― 金無くってさ。俺ら、最近まともなもん、食ってないんだ。


 唐突すぎる問いかけに、ハルが微かに笑う。


「あぁ、空いたな。俺、朝から何も食ってないからな」


 予想通りの答えをもらえて、ユカはハルのシャツを握る手に力を込めて、顔をハルの胸に押し付けたまま、問いを重ねる。


「カップラーメン、好き?」

「何? ここにあるの?」


 ぷるぷると首を振る。


「家ね、カップラーメン、たくさんあるの」

 ユカの部屋には、たくさんの種類のカップラーメンがおいてある。

「いろんなのが、あるよ」


 コンビニに通うようになってからもずっと、カップラーメンばかりを食べていた。そのせいで栄養失調になって、病院に担ぎ込まれたのは、もうずいぶん昔のことになる。それでもユカは、カップラーメン中心の食生活を、変えることが出来ずにいた。ひとりきりの夜に、冷たいものを口にするのが嫌だった。


 ハルは黙ったまま、遠くを見ている。


「ハルにあげる。私、持ってくる」

「あんたん家、近いの?」

「うん。近いよ。すぐそこ」

「……ひとり?」

「うん」


 短い会話に、ドキドキする。ハルがどんな返事をくれるのか見当もつかなくて、不安になる。けれどユカの不安を他所に、ハルは胸ポケットを探って、二本目の煙草に火をつけたようだった。


 沈黙が、暗闇に溶け込んで、紫煙になって流れていく。その煙を眺めるユカに、ハルは何も言わない。煙草が短くなってようやく、ハルが小さな声で「もう、大丈夫かな?」と呟いた。そして、立ち上がると、短くなった煙草を足先でもみ消し、ユカの背中を軽く叩く。その合図にユカが立ち上がると、静かに歩き出す。


 人気の消えた駐車場の外は、月明かりで蒼くけぶっている。誰もいないことを確かめて、ハルがユカをふり返る。


「どっち?」


 暗闇の向こう側に、白い花が咲いていた。ぼんやりと浮かび上がった花を指差して、ユカはハルに、自分の家の方角を教えた。

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