第5話
瀟洒なマンションの最上階に、ユカの部屋はあった。
重々しく開く鉄の扉と、広い階段。古い洋画に出てくるような、手開きのエレベーターに乗って、ユカは鍵をかけずに出た部屋に入っていく。細い廊下を数歩進むと、薄い壁に遮られたL字型のキッチンと広々としたリビングがある。造り付けの家具以外、なにひとつ置かれていないそれらの部屋は、まるでモデルルームのようで、人の匂いを感じさせない。
ユカが、リビングの奥にある、両開きの扉に手をかける。その向こうに、辛うじて人の気配のする部屋があった。それでも置かれているのは大きなベッドとテレビだけ。寝乱れたベッドの真ん中には、茶色のテディベアが、ぽつねんと座っている。
テディを抱き上げ「ただいま」と言うユカの背中を素通りして、ハルはベランダに続く窓を開け放つ。ひゅんと吹き込んでくる夜の風が、部屋に詰まった重苦しい空気を洗い流していく。ひんやりと心地良い風が、ユカの長い髪を梳いて、頬を撫でていく。
風が気持ち良いなんて、初めて知った。ユカは、窓を開けたこともなかった。
「ラーメン、くれる?」
視線を外に向けたまま問いかけるハルに、ユカはテディをベッドに放り出し、通り過ぎたキッチンまで引き返す。収納棚を開け、両手いっぱいにカップラーメンを抱えて、ベッドルームに戻ってくる。
「どれがいい?」
いくつかのラーメンが、コロコロと床に散らばる。
「全部食べていいよ」
ユカの言葉に、ハルの表情が変わった。
「なんだよそれ。売るくらいあるじゃん」
そう言って、可笑しそうに、笑い出す。
パンと何かが、弾け飛んだ。その笑顔を見た瞬間、ユカの中にあった張り詰められていた糸が、ぷつんと切れた。ハルは、笑わない人だと思っていた。口の端だけの、造られた笑顔しか持っていない人だと思っていた。その思い込みが、ぱっと散った。ハルの笑顔が、きらきらと眩しくて、涙が出そうになる。
その場にドミノのように、一個一個ラーメンを並べていくユカの前にしゃがんで、「こんなに食えるわけねーだろ」とハルが笑う。それでも興味深そうに幾つかを手にとって、眺めている。
「味見、する?」
どれを食べようか、決めかねているように見えたハルは「じゃ、半分こしよう」なんて、子供みたいなことを言う。結局、ふたつを選んで、ハルはその殆どを自分で食べた。ペットボトルの水を交互に飲みながら、ユカが「美味しい?」と聞くと「美味いよ」と言って笑う。
この部屋に初めて来たはずのハルは、今までも何度も来ていたかのように、すんなりと溶け込んだ。こんなやり取りも昔から、何度もしていたかのように、まるで違和感がなかった。低く穏やかに続く会話は、意味がないぶん永遠で、流れる空気はごく自然だった。こんなふうに昔から、ずっと一緒にいたみたいに。
満腹になって、やっと一息つけたらしいハルが、食べ終わった容器のひとつを抓み上げる。
「コレ、使って良い?」
煙草を片手に問われて、ユカが頷く。
灰皿代わりの容器を手に、ハルはベランダのふちに腰掛けて、夜の街を見下ろす。白い煙が、風に乗って流れていく。その煙を見ながら、ぺたんと隣に座るユカに、ハルは視線を向けないまま、話しかけてくる。
「こんなに広くて、こんなに何にもない部屋って、俺、初めてだよ」
くつくつと笑う。
「此処って、引っ越したばっか?」
ちらりと向けられる視線に、首を振って応えると、「じゃ、此処住んで長いの?」と続ける。単純な好奇心は、今も続いているんだろう。ハルの問いかけには他意がなく、なんとなくと言った感じが漂う。
「長いよ」
「地元?」
ハルの「地元」と言う言葉がよくわからなくて、ユカが小首を傾げる。
「何処で生まれたの?」
「東京」
「じゃ、地元じゃん。学校も都内?」
学校と言う言葉に、ユカの心臓が、とくんと反応する。ハルは答えを待っている。ゆっくりと煙草の煙を吐き出しながら、ユカの返事を待っている。
「私、学校、行ったことない」
「えっ?」
ハルの視線がまっすぐに、ユカに向けられる。
そう、今ならわかる。それがどんなに変わったことなのか、今のユカにはわかる。
ハルの瞳が、何かを問うように、僅かに揺れた。その瞳を、見返すことしか出来ないユカと視線を絡めたまま、ハルは手元の煙草を容器に放る。じゅっと乾いた音が夜風に紛れて、紫煙が消える。ハルの指先が、そっとユカに伸ばされる。窓から届く微風に揺れる前髪を梳いて、顔の輪郭を辿るように、ユカに触れる。その指先が、すっと流れて、肩に落ちる。冷たい指先が、ユカの傷をなぞる。
「ここ、見ていい?」
それは本当に問いかけだったのか、ユカにはわからなかった。
傷のはじまりの部分はすでに、夜風にあたっていた。ハルの手は、キャミソールの肩紐の下に滑り込んでいる。
「もっとよく、見せて」
ハルはユカの顔を見ないで、傷だけを見ている。もっと何か、話してくれたらいいのに。ハルの声が、聞きたい。
「いいよ」
シャツを自分で脱ぎ捨てて、ハルが触りやすいように肩紐をずらす。明るすぎる蛍光灯の下に、醜い傷痕がくっきりと浮かび上がる。開け放した窓から入る風が、傷全部を撫でていく。
顔を近づけて、じっと傷を見つめるハルの吐息が、肌に触れる。丹念に、何かの行方を探るように、ハルは傷痕を指先でなぞる。
「痛かった?」
ハルの問いかけに、ぐらりと視界が揺れる。
「血、いっぱい、出た?」
ハルの唇が、傷痕にふわりと落とされる。まるで今、血が流れているかのように、傷口を強く吸い上げる。
その瞬間、どこかへ落ちていってしまいそうな感覚に、ユカはぎゅっと目を瞑った。
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