第2話
会計を済ませて店の外に出ると、背の高い男がさっと寄ってくる。弁当二個とお茶が二本が入った袋を渡すと、袋の中を覗いて懐っこく笑う。
「ハル! いっぱいもらっちゃったよ!」
くるんとユカに背を向けて、喜び勇んで駆けていく。
―― ハル。
きっと、あの人の名前だ。ユカの足が、その場に縫い付けられたように、動けなくなる。あの人が、渡されたコンビニの袋を覗き込んでいる。あの人が、ユカを見る。
「わりいな。もらうよ」
袋の中にあったお茶を持ち上げて、悪びれもせず言うハルの声に、眩暈がする。その瞬間、ユカの足はハルに向かって歩き始めていた。
何日も、何日も、ずっと聞きたかった声。もっと聞きたい。もっと何かしゃべって欲しい。その、衝動に近い感情に逆らえなくて、ユカは地べたに座ったハルを見下ろして、買ったばかりの菓子パンとジュースを袋ごと、ハルの目の前に突き出していた。
「なに?」
「これも、あげる」
その時、ハルの黒目ばかりの瞳が、キラっと光った。
ハルの視線が、ユカの胸元に集中する。その視線の意味がわかって、ユカは慌てて襟元の布を手繰り寄せ、ハルの足元に袋を置いた。けれど、ユカが手を引っ込めるよりも、ハルの動きの方が早かった。さっと伸びた手が、ユカの手首を掴んだ。
獲物を手元に引き寄せるように、ぐっと手に力をこめるハルに、ユカは地べたに膝をつくしかなかった。抗えるほど、弱い力じゃなかった。見上げれば、ハルは少し笑って、肌蹴たブラウスの襟口に指を入れる。
「これ、なんの傷?」
唇を噛み締めて、後悔する。胸元のボタンをきちんと留めないまま、外に出てしまった。夜だから、平気だと思ったのに。きっと、腕を伸ばさなければ、見られずに済んだのに。ハルの声が聞きたくて、不用意に伸ばしてしまった。
「火傷?」
ハルの指先が傷痕に触れる。ぞくりと何かが背筋を駆け抜けて、傷が熱く疼きだす。今まで一度も感じたことがない感覚が怖くて、ユカは手首を捻って、身体を離そうとした。けれどハルは、そんなこと気にも留めない様子で、じっと傷を見つめている。傷を探る指先が、肩のほうへと伸ばされる。
「違うな。縫った痕だ」
ユカの肩には、鎖骨から背中まで伸びる、大きな傷痕があった。
ちゃんとした治療を、きっとしなかったんだろう。あの頃のことはよく憶えていない。でも、この傷を見た人はみんな驚いて、そして嫌がるから、ユカはいつも隠してきた。誰にも見られたくないと、思っていた。
なのに、どうして、初めて話すこの人に、見つかってしまったんだろう。
「どうしたの? これ」
「……子供の頃の、怪我」
どんなに手首を捩じっても、強く握られた手は離れそうになくて、ユカが諦めて口をひらく。逃げ切れない傷痕に、ハルの指先が吸い付いている。
「へぇ。
びっくりして、思わず問い返していた。
「勲章?」
「ああ。子供の頃の傷痕は、やんちゃやった証拠だろ?」
くすくすと笑いながら、醜い傷を愛しそうに撫でている。
この傷をそんな風に言った人は、これまでいなかった。汚ないものを目にしたときのように、顔をしかめる人ばかりだった。
だからユカは、ハルの言葉が、上手く飲み込めなかった。地べたに掌をついたまま、ぽかんと見つめるユカにハルは笑いかけ、掴んだ手首はそのままに、ユカの伸ばしっぱなしの髪の耳元に指を絡める。
「あんた、なんて言うの? 名前」
耳元の髪を掴んで真っすぐに目が合うようにして、ハルはそう尋ねた。あんなにも見たいと思っていた無機質な目が、じっとユカに向けられる。ユカの胸の中で、何かが暴れだす。どんどんと、内側から胸を叩かれて、身体が震える。
「ユカ」
「また、此処に来る?」
こくんと頷くと、ぱっと手が離される。
急いで立ち上がったものの、ユカはすぐに動き出せなかった。びっくりしすぎて、膝ががくがくと震えていた。それでも帰ろうと、家に向かって歩こうと、ハルに背を向け、懸命に足を動かした。
ぎこちなく歩きだしたユカを、ハルが呼び止める。
「ちょう、待って」
身体ごと不自然に振り向くユカに、ハルが菓子パンのひとつを投げてよこす。
「それはやるよ」
餌を分け合う野良猫のように、ハルが投げてよこす。
菓子パンの、ビニールの包装紙が、コンビニの光を反射して、キラキラと光った。綺麗な放物線を描いて飛んでくる、分け与えられた餌を、ユカは両手でしっかりと受けとめていた。
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