第2話

学校は、俺にとって息をひそめる場所だ。

教室の席に座れば、隣の席の女子が、俺の気配に気づいて、わざとらしく椅子をずらす。

授業中、先生が「日比谷」と名前を呼んだ瞬間、クラスのあちこちから、小さな笑い声やひそひそ話が聞こえる。

俺がどんなに静かにしていても、俺の顔は、そこに存在しているだけで、周囲をざわつかせる。

​休み時間は、スマホをいじるふりをして、ひたすら下を向いている。

誰とも目を合わせないように。

誰にも話しかけられないように。

昼休み、コンビニで買ったパンを一人で食べる。

時々、幼なじみの光が、女子グループの中心で楽しそうに笑っているのが見える。

光は、俺が視界に入ると、一瞬だけ笑顔を消して、すぐにまた、大きな声で笑い始める。

その笑い声が、俺の心に刺さる。

ここは、俺が存在しない場所だ。

​バイト先の俺

​学校が終わると、俺は変身する。

まず向かうのは、カフェ「ル・リエーヴル」。

ここで俺は、"日比谷翔"という存在から解放される。

「翔くん、お疲れ様!」

先輩の四ノ宮雪が、笑顔で俺を迎えてくれる。

ここでは、俺の顔は関係ない。

雪先輩は、俺の顔ではなく、俺の仕事ぶり、俺という人間を見てくれる。

新作のケーキを「美味しいよ」って味見させてくれたり、手が震えていることに気づいて「大丈夫?」って声をかけてくれる。

雪先輩の優しさが、俺の心を温めてくれる。

​カフェでのシフトが終わると、次はビル清掃のバイト。

深夜の街を、ただひたすら無心で掃除する。

誰にも顔を見られない。誰にも罵られない。

ここは、俺がただの作業者でいられる場所だ。

そして、深夜2時からはコンビニ。

同僚の三笠さんは、ギャルっぽい見た目だけど、俺を顔で判断しない。

たまに、ふっと俺の顔を見るけど、それは軽蔑の目じゃなくて、何かを考えているような目だ。

この間、客に「ブサイク」って言われたとき、彼女は何も言わなかったけど、きっと何かを感じてくれていたんだと思う。

​学校とバイト先。

俺の顔を否定する場所と、俺の存在を許してくれる場所。

俺は、二つの世界を行き来する。

学校での一日が終わるたびに、俺はバイト先での時間が待ち遠しくなる。

この疲労と孤独は、いつか終わる。

そう信じて、俺はひたすら耐え続ける。

この貯金箱が、俺の人生を変えてくれると信じて。


7月21日、終業式。

担任の「それでは、良い夏休みを!」という言葉が、俺の耳には、まるで呪文のように聞こえた。

地獄から、解放される呪文。

これで、最低でも40日間は、学校という名の監獄に行かなくて済む。

クラスメイトの視線、陰口、そして光の嘲笑。

それらから、俺は一時的に逃れることができる。

​家に帰っても、居場所がないのは変わらない。

でも、学校がない。

それだけで、心なしか体の重さが違うように感じた。

夕食を一人、部屋で済ませてから、すぐにスマホを手に取った。

カフェの雪先輩、ビル清掃の担当者、コンビニの店長。

3つのバイト先に、立て続けにメッセージを送る。

​『夏休みなので、シフトを増やしたいのですが、可能でしょうか』

​すぐに、3つのバイト先から返信が来た。

雪先輩からは「もちろん!助かるよ!」と、笑顔のスタンプ付きで。

ビル清掃の担当者からは「いつでもOKだ」と、簡潔なメッセージ。

コンビニの店長からは「助かる。遠慮なくシフト入れてくれ」と。

俺は、震える手で、3つのシフト表に、びっしりと自分の名前を書き込んでいった。

​計算機を叩く。

学校がある日と違って、朝から晩までバイトができる。

平日の昼間はカフェ、夕方からはビル清掃、そして深夜はコンビニ。

睡眠時間を極限まで削れば、1日で稼げる金額は、今までの倍近くになる。

200万円という目標金額までの日数を、改めて計算し直す。

すると、画面に表示された数字は、俺が思っていたよりも遥かに短くなっていた。

​あと、1年と数ヶ月。

この地獄を、あと1年ちょっと耐えればいい。

俺は、心の中でガッツポーズをした。

疲労で体が悲鳴を上げても、眠気で意識が朦朧としても、俺は耐えられる。

だって、終わりが見えたから。

この夏休みは、俺の人生を変えるための、加速期間だ。

汗と、疲労と、孤独にまみれても、俺はひたすら稼ぐ。

この夏休みが終わる頃には、貯金箱は、今までで一番重くなっているはずだから。


夏休みの地獄と、微かな喜び

​夏休みが始まって、もう何日経っただろうか。

俺の生活は、学校という枷が外れたことで、より過酷で、そして単純になった。

朝、ファミレスで宿題を終え、昼からカフェ。夕方からビル清掃、そして深夜はコンビニ。

睡眠時間は、もはや1日3時間もない。

肉体的な疲労は、想像を絶する。

ビル清掃のバイトで、重いゴミ袋を運ぶたびに、肩が悲鳴を上げる。

コンビニの品出しで、段ボールを何十個も開けるたびに、指の絆創膏が増えていく。

​だが、それでも俺は止まらない。

疲労で意識が朦朧とするとき、頭の中で貯金箱の重さを想像する。

10円玉、100円玉、500円玉。

日々の積み重ねが、確実に俺の未来を作っている。

そして、その重みを感じるたびに、心に微かな喜びが湧き上がる。

​カフェでの、雪先輩との会話だけが、俺の唯一の癒しだ。

「翔くん、顔色悪いよ。ちゃんとご飯食べてる?」

そんな風に心配してくれる雪先輩に、俺はいつも「大丈夫です」としか言えない。

でも、彼女の優しい眼差しは、俺の心を温めてくれる。

このカフェにいる間だけは、俺は「ブサイクな日比谷翔」ではなく、ただの「日比谷翔」でいられる。

​深夜のコンビニでは、三笠さんと顔を合わせる。

彼女は相変わらず、俺の顔を気にしていないようだ。

ただ、黙々と作業をこなす俺を、時々じっと見ている。

ある日、休憩時間に俺が栄養ドリンクを飲んでいたら、「それ、効くの?」と声をかけられた。

「…たぶん」

俺がそう言うと、彼女は「ふーん」とだけ言って、自分の作業に戻った。

言葉は少ないが、その距離感が、俺にとっては居心地が良かった。

彼女は、俺を顔で判断しない。

そして、俺に余計な干渉もしない。

誰も俺を見ていないようで、誰かが俺を見ている。

そんな感覚が、俺を支えていた。

​あと、1年と数ヶ月。

この夏休みは、俺の人生を変えるための、加速期間だ。

汗と、疲労と、孤独にまみれても、俺はひたすら稼ぐ。

この貯金箱が、俺の人生を救ってくれると信じている。


夏休みが始まってから、俺は休みなく働き続けていた。ビル清掃、カフェ、コンビニ。シフトの合間を縫うように、仮眠を取って、また次のバイトへ向かう。この夏、俺の生活は「稼ぐこと」以外、何もなかった。

​そんな毎日が、ある夜、少しだけ変わった。

コンビニでの深夜バイトを終えて、始発を待つ間、駅前の広場から賑やかな音が聞こえてきた。

今日が、近所の夏祭りだったことを思い出した。

​いつもなら、迷わずファミレスへ向かう。

でも、その日は、なぜか体が勝手に音のする方へ向かっていた。

提灯の明かりが、夜空にぼんやりと浮かんでいる。

射的、金魚すくい、焼きそばの屋台。

浴衣を着た人たちが、楽しそうに笑っている。

その中には、学校のクラスメイトや、幼なじみの光の姿もあった。

光は、男の子たちと楽しそうに笑いながら、焼きそばを食べていた。

俺は、見つからないように、提灯の影に身を潜めた。

​俺とは違う世界。

俺の顔が、存在が、邪魔をしない世界。

​その時、ふと、視線を感じて顔を上げた。

カフェの先輩、四ノ宮雪が、浴衣姿で歩いていた。

いつもとは違う、大人っぽい浴衣姿に、俺は少しドキリとした。

彼女は、俺の存在に気づいたのか、こちらに歩いてきた。

「翔くん?こんな時間にどうしたの?」

いつもと変わらない、優しい声。

俺は、とっさに「バイトが…」と口ごもった。

「そっか。いつも頑張ってるもんね」

雪先輩は、そう言って微笑んだ。

​その笑顔を見ていたら、自分の手にある、バイトで汚れた作業着が急に恥ずかしくなった。

俺は、こんな夏祭りの賑わいとは無縁の場所にいる人間だ。

そう思って、目を伏せた。

​「たまには、こういうのもいいでしょ?」

そう言って、雪先輩は、俺の手にそっと冷たい缶コーヒーを握らせてくれた。

缶の冷たさが、疲れた俺の手にじんわりと染み渡る。

「ありがとう、ございます…」

俺は、それしか言えなかった。

​雪先輩は、何も言わずに隣に立って、一緒に祭りの光を眺めてくれた。

俺と先輩の間には、会話はなかった。

でも、その沈黙は、居心地のいいものだった。

俺は、自分がこの世界の片隅にいても、こうして隣にいてくれる人がいることに、気づいた。

たったそれだけの、短い時間だった。

でも、俺は、この顔のままで、少しだけ「普通」の夏を体験できた気がした。


夏休みも、もう終わりが近づいている。

相変わらず俺の生活は、バイトと睡眠時間の削り合いだった。

昼はカフェ、夕方はビル清掃、深夜はコンビニ。

街は、夏の終わりを告げるように、少しずつ涼しくなってきた。

だが、俺の心はまだ熱かった。

貯金箱は、重い。

毎日、バイトから帰るたびに、その重みを確かめる。

それは、俺がこの夏を無駄にしなかった証拠だった。

​そして、もう一つ、片付けなければならないことがあった。

宿題だ。

ファミレスで早朝にやる日課だったが、バイトを増やすにつれて、なかなか進んでいなかった。

この夏休みのバイト代で、整形費用はかなり貯まった。

だが、このままでは二学期が始まったら、また学校で周りの視線に晒されることになる。

それは、何としてでも避けなければならない。

​深夜のコンビニバイトを終え、いつものファミレスへ向かった。

深夜営業のファミレスは、深夜2時を過ぎると、人がまばらになる。

俺は、一番奥の席に座り、バッグから参考書とプリントを取り出した。

英語の長文読解、数学の公式、歴史の年表。

眠気で頭がぼーっとする。何度かペンを落としそうになった。

それでも、俺は手を止めなかった。

​この宿題も、バイトと同じだ。

誰も見ていないところで、黙々とこなす。

この作業が終われば、次の段階へ進める。

完璧に宿題を終わらせて、誰にも文句を言わせない。

それが、俺がこの場所でやるべきことだった。

朝日が差し込む窓辺で、最後のページを終える。

俺は、やりきった安堵感と、眠気で、少しだけ笑った。

これで、二学期も、最低限の平穏は保てるだろう。

​さあ、次は、病院を調べて、いよいよ美容整形だ。

俺の人生は、もうすぐ始まる。

夏休みが終わり、二学期が始まった。

俺の生活は、再び学校とバイトの繰り返しになった。

夏休みに稼いだ大金が、貯金箱の中でずっしりと重みを増している。

目標金額まで、あと少し。

そう思えば、学校での嫌な視線も、以前ほど気にならなくなった。

すべては一時的なものだ。もうすぐ終わる。

​そう自分に言い聞かせながら、日々を耐え抜いていた。

だが、身体は正直だった。

​二学期が始まって数日経った日の夜、バイトを終えてファミレスに向かう途中で、急に強烈な吐き気に襲われた。

胃が痙攣しているみたいで、立っているのも辛い。

俺は、コンビニのトイレに駆け込んだ。

吐いても吐いても、何も出ない。

ただ、胃液だけが込み上げてきて、喉を焼いた。

全身から汗が噴き出し、頭は熱いのに、手足は冷たい。

過労とストレスが、俺の身体に限界を告げているのだと、ぼんやりと理解した。

​家に帰るしかなかった。

重い体を引きずって、誰にも見られないように、ひっそりと家にたどり着いた。

自室のベッドに倒れ込む。

その夜は、激しい吐き気と腹痛に一睡もできなかった。

翌朝、母の早苗が、珍しく俺の部屋にやってきた。

「あんた、顔色が悪いわよ。学校は?」

震える声で「…体調が悪いです」と答えると、母は眉をひそめた。

「熱も出てきたじゃない。あんまり迷惑かけないでよ」

そう言い残して、母は部屋を出ていった。

​結局、学校もバイトも休むことになった。

布団の中で、スマホを握りしめる。

雪先輩には「体調不良で休みます」とメッセージを送った。

三笠さんには、何も言わなかった。

​計画が狂った。

このまま休んでいれば、稼ぐペースが落ちてしまう。

目標金額を貯めるのが、また遠くなる。

焦りと不安が、胃の痛みに追い打ちをかける。

そして何より、悔しかった。

この夏、死ぬほど頑張って、あと少しで希望が見えるところまで来たのに。

俺の体が、それを許さない。

俺の人生は、俺の顔だけじゃなくて、俺の体にも、足かせをはめられているみたいだった。

​俺は、ベッドの上でただ横になるしかなかった。

誰にも見られない。

誰にも声をかけられない。

いつもは望んでいた孤独が、この日ばかりは、俺の心を深く沈ませた。


バイト先のカフェの先輩四ノ宮雪視点___

翔くんから、体調不良で休むという連絡が入ったのは、朝のシフトが始まる直前だった。

「体調不良で休みます」

たったそれだけの簡潔なメッセージに、私は胸騒ぎを覚えた。

​翔くんは、この夏、本当に頑張っていた。

毎日、疲労で顔色が悪くて、隈もひどかった。

それでも、弱音一つ吐かずに、黙々と働いて、いつも丁寧な仕事をこなしていた。

「夏休みだし、ちょっとバイト増やしたくて」

そう言っていた彼の言葉を、私はただ微笑ましく聞いていた。

まさか、そこまで無理をしていたなんて。

​シフトに入って、彼の定位置だったレジの後ろを見ると、何だかぽっかりと穴が開いたみたいだった。

いつもは隅っこで静かに作業しているから、彼がいなくても気づかない人もいるかもしれない。

でも、私にはすぐにわかった。

彼のいないレジは、どこか寂しくて、冷たい。

他のバイトの子たちは「あー、あのブサイク休んだんだ。ラッキー」なんて言っているのが聞こえてきた。

その言葉を聞くたびに、私の心はざわついた。

​翔くんが、何を背負って、こんなにも必死に働いているのか、私には分からない。

でも、彼の目に宿る、諦めない光は知っている。

彼の顔の奥にある、強さと悲しみを知っている。

この夏休み、疲労の限界を超えてまで、彼が追い求めていたものが、彼の体を壊したんだとしたら。

私は、無性に悔しかった。

​夕方のシフトに入った時に、私は店長に翔くんの体調のことを聞いてみた。

「ああ、あいつね。なんか、相当無理してたみたいでさ。医者に行けって言ったんだけど、行かないって言うんだよな」

私は、ますます心配になった。

彼は、人に頼ることができない。

助けを求めることすら、知らないのかもしれない。

​明日、バイトのシフトは入っていないけれど、彼の家まで行ってみようか。

いや、それはやりすぎだろうか。

でも、もし彼が一人で苦しんでいるのだとしたら。

私は、ただメッセージを送ることしかできない。

返事はない。

彼は、この世の誰からも「いない者」として扱われている。

でも、私には、彼がちゃんとここにいるのがわかる。

今はただ、彼が一日も早く元気になって、またこのカフェに戻ってきてくれることを願うしかなかった。

彼の席を、温かいコーヒーで満たして待つ。それが、今の私にできる精一杯のことだった。


バイト先のコンビニの同僚三笠麗視点___

夜中の2時。

いつもなら、この時間にはもう来ているはずの日比谷翔が、今日も来なかった。

私から店長に聞くことはしなかったけど、店長の「あいつも体がもたなかったか」という独り言が聞こえてきた。

​あいつが休むのは、これが二日目だ。

あんなに毎日、疲れた顔をしてまで、必死に働いていたのに。

いつかこうなるんじゃないかとは思っていた。

だって、あいつの顔には、もう感情なんて何もなかった。

ただただ、疲れ切った、無機質な表情で、黙々と作業をこなすだけ。

まるで、動く機械みたいだった。

初めてあいつが、指に絆創膏を何枚も貼っているのを見たとき、私は「何かに追われているのかな」なんて、勝手に想像した。

彼氏との旅行代?新しいブランドバッグ?

いや、そんな軽いものじゃない。

彼の目には、もっと深く、重い、何かがあった。

​あいつが休んでから、シフトの穴埋めは大変だ。

でも、私はそれを不満に思わなかった。

ただ、彼の顔が頭から離れなかった。

あの、疲労でやつれた顔。

でも、その顔の奥に、何か強い光を宿していた目。

あの光は、何だったんだろう。

そして、あの光は、今、どうなっているんだろう。

​あのとき、客にあいつが「ブサイク」って言われたとき、私は何も言えなかった。

「何言ってんだ、この人」って、心の中で思ったけど、それを口に出すことはできなかった。

でも、たぶん、あいつが休んでいるのは、あのときの言葉が原因じゃない。

あいつは、もっと前から、ずっと、一人で戦っていたんだろう。

顔のせいで、家族からも、学校からも、誰からも、存在を否定されてきたんだろう。

あいつの顔は、彼の背負ってきた苦労を物語っていた。

​今はただ、あいつが早く戻ってきてほしいと願っている。

いや、違う。

私は、あいつが顔で判断されない世界で生きてほしい。

ただそれだけを願っている。


ベッドの上で、ただ天井を眺めている。

体は重いし、胃はまだキリキリと痛む。

熱で頭がぼんやりして、昨日のバイトのシフトが、まるで夢の中の出来事のように思えた。

スマホには、雪先輩からの「お大事にね」という優しいメッセージが一件。

それだけだ。

家族は誰も部屋に来ない。

たまに、母さんがドアの外から「あんた、熱は下がったの?」と聞くだけ。

いつもは気にも留めないはずの、その一言が、今の俺にはひどく冷たく聞こえた。

​俺は、一人だ。

この体調不良さえ、俺一人で乗り越えなければならない。

学校では無視され、家では居ない者として扱われる。

バイト先では、かろうじて居場所があった。

雪先輩や、三笠さん。

彼らは俺を顔で判断しない。

でも、彼らは俺の味方というわけではない。

当たり前だ。たかがバイト先の同僚に、俺の人生の何がわかる。

俺がどれだけ苦しんできたか、どれだけ必死に働いてきたか、誰も知らない。

だから、俺は、ただ一人で耐えなければならない。

​貯金箱が、目に入る。

ベッドの脇に置かれた、ずっしりと重い貯金箱。

この夏休み、死ぬほど頑張って、稼いだお金。

このお金があれば、俺は生まれ変われる。

でも、その希望の象徴が、今は俺を苦しめる。

俺の体が、この貯金箱を埋めることを許さないと言っているみたいだ。

​このまま、この地獄がまた続くのか。

せっかくあと少しまで来たのに。

焦燥感が、熱い体をさらに熱くする。

悔しくて、悔しくて、涙がにじんだ。

こんなに頑張ってきたのに。

頑張ってきた俺の体は、なんで、こんなに簡単に壊れてしまうんだ。

​俺は、ただ、静かに目を閉じた。

そして、この世界から、俺の存在が完全に消えてしまえばいいのに、とぼんやりと思った。

でも、この天井を見つめている俺は、まだここにいる。

そして、俺が手に入れた希望の重みも、たしかにここにある。

俺は、このまま終わるわけにはいかない。

そう、心の中で強く誓った。

このままでは、今まで耐えてきた日々が、全て無駄になってしまうから。


目を覚ますと、窓の外は薄暗い。

もう夜か。俺は一体、何時間眠っていたんだろう。

体はまだ少しだるいが、胃の痛みはだいぶ引いている。

頭のぼんやりとした熱も、引いてきているようだった。

​枕元のスマホに手を伸ばす。

いくつか未読メッセージがある。

その中に、雪先輩からのメッセージがあった。

「またいつでも待ってるからね。無理しないで、ゆっくり休んでね」

その言葉に、俺は少しだけ心が温かくなった。

無理しないで。

その一言が、これまでの俺の生き方を否定しているようで、でも、この時の俺には、優しく響いた。

まるで、俺の頑張りを認めてくれているみたいに。

​三笠さんからは、やはり何もメッセージは来ていなかった。

でも、それが逆に、俺には彼女らしい気遣いのように思えた。

彼女は、俺に干渉しない。

そして、俺が一人で戦っていることを、言葉にはしないが、理解してくれている気がした。

​俺は、ゆっくりと体を起こした。

ベッドの脇に置かれた貯金箱。

その重みを、改めて手に取って確かめる。

夏休み、死ぬほど頑張って稼いだ、俺の希望の重みだ。

この貯金箱が、俺の人生を変えてくれる。

その思いに、一点の曇りもない。

ただ、俺は無理をして、体を壊してしまった。

この顔を捨てる前に、俺自身が壊れてしまっては意味がない。

​俺は、もう一度、深く息を吸い込んだ。

体調が完全に回復したら、また働く。

休んでしまった分、また稼ぐ。

でも、これからは、もう少しだけ、自分を大切にする。

この体は、この顔を変えるための、唯一の武器だから。

俺の人生は、もうすぐ始まる。

そう、心の中で強く誓った。

このままでは終われない。

今まで耐えてきた日々を、無駄にはしない。


体調は完全に回復した。

胃の痛みも消え、熱も下がった。

休んでしまった分、バイトのシフトをまた少し増やした。

貯金箱は、確実に重みを増している。

​学校では、体育祭の準備が始まっていた。

クラスごとに集まって、応援の旗を作ったり、競技の練習をしたりする。

クラスの賑やかさが、普段以上に騒がしく感じる。

俺はいつも通り、隅っこでひっそりと過ごしていた。

旗の絵を描くグループ、ダンスを練習するグループ。

誰も俺には声をかけない。

俺も、誰かに声をかけることはしない。

​俺が、このクラスに存在しないのは、みんなが知っていることだ。

体育祭の選手決めでも、俺の名前は最後まで呼ばれなかった。

「日比谷、何に出る?」

「…何でもいいです」

そう答えると、誰も俺の顔を見ずに、また別の生徒に話しかける。

俺は、借り物競争の「借り物」にでもなるのが、一番似合っているのかもしれない。

​そんな俺の、居場所のない体育祭の準備期間。

だが、そんな日々の中にも、微かな変化があった。

ある日の昼休み、グラウンドで体育祭のダンス練習が行われていた。

クラスメイトが楽しそうに踊っている。

俺は、いつも通り、教室で一人でパンを食べていた。

すると、幼なじみの光が、女子グループから少し離れて、俺の席に近づいてきた。

​「…あんた、体育祭、何に出るの?」

突然のことに、俺は驚いて、何も言えなかった。

「…借り物競争です」

俺がそう答えると、光は「ふーん」とだけ言って、また女子グループに戻っていった。

彼女の顔は、相変わらず無表情だった。

だが、その日、光は俺を「ブサイク」と呼ぶことはしなかった。

ただそれだけの、些細なこと。

でも、その一言が、俺の心に小さな波紋を立てた。

もしかしたら、光も、俺のことを少しだけ気にかけているのかもしれない。

そう思っても、すぐに頭を振って、その考えを打ち消した。

期待して、裏切られるのは、もうこりごごりだ。

​それでも、俺は、この体育祭が終われば、もうすぐ冬休みが来る。

冬休みが来れば、もっと稼げる。

希望の計算式は、俺の頭の中で、常に更新されていた。

俺の人生は、この体育祭とは無縁だ。

俺の戦いは、別の場所にある。

そう、心の中で強く誓った。

この顔を捨てて、新しい自分になるために。


​体育祭当日。

校庭は、クラスの旗や万国旗で飾り付けられ、いつもより賑やかだった。

俺は、借り物競争のプログラムに自分の名前が載っているのを確認し、それ以外はひたすら教室で過ごすことにした。

みんなは楽しそうにグラウンドで応援したり、写真を撮ったりしている。

俺には関係のない世界だ。

​昼休み、教室を出て、誰もいない校舎の裏に回った。

人目を避けるように、ひっそりとパンを食べる。

その時、背後から声をかけられた。

「翔くん、やっぱりここにいたんだ」

振り返ると、カフェの先輩、四ノ宮雪が立っていた。

私服姿の雪先輩は、いつもと少し雰囲気が違って見えた。

「あ、雪先輩、どうしてここに…?」

「妹の体育祭を見に来たの。そしたら、翔くんの学校だって知って」

雪先輩は、俺の隣に座って、持っていたペットボトルのお茶を差し出してくれた。

「なんか、全然楽しそうじゃないね」

彼女はそう言って、俺の顔ではなく、校庭の方をじっと見ていた。

「俺には、こういうのは…縁がないので」

俺がそう言うと、雪先輩は静かに微笑んだ。

「そっか。でも、頑張ってる翔くんは、かっこいいと思うよ。周りは見てないかもしれないけど、ちゃんと見ている人はいるから」

その言葉が、俺の心の奥深くにじんわりと染み渡った。

雪先輩の視線は、俺の顔ではなく、俺自身を見てくれている。その事実が、何よりも俺を救ってくれた。

​雪先輩と別れ、再び校舎の裏を歩いていると、もう一人の人物とすれ違った。

コンビニの同僚、三笠麗だ。

まさか、こんな場所で会うとは思わず、俺は思わず立ち止まった。

彼女も、俺に気づいて、少し驚いた顔をしている。

「…あんたも、ここにいるんだ」

三笠は、そう言って、俺の顔をじっと見つめてきた。

いつもの、何を考えているかわからない、でもどこか必死さを含んだような目だった。

「三笠さんは…?」

「弟の体育祭。あんたと同じ高校だったみたい」

彼女はそう言って、ポケットからタバコを取り出そうとしたが、校内であることを思い出してやめた。

「…何やってんの、こんなとこで」

俺は、彼女の言葉に、何も答えられなかった。

「……別に、あんたの人生なんてどうでもいいけどさ。でも、あんたの顔、疲れてんのに、なんか必死な感じ。ま、頑張りなよ」

そう言い残して、三笠は去っていった。

彼女の言葉は、雪先輩のように優しいものではなかった。

でも、その無愛想な言葉の裏に、彼女なりの優しさが隠されているような気がした。

​体育祭の賑やかさから離れた、静かな校舎の裏。

俺は、この顔で、俺を「見て」くれる二人に出会った。

俺の人生は、この顔だけじゃない。

この顔を否定する世界も、この顔を認めてくれる世界も、同時に存在している。

だが、俺は、俺自身が、この顔を許すことができない。

だから、俺は、この夏休みに貯めたお金で、この顔を捨てる。

俺の人生は、まだ始まっていないから。


体育祭が終わり、家に帰った俺は、誰にも声をかけずに自室へ向かった。

制服を脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込む。

今日の出来事を反芻する。

雪先輩の優しさ、三笠さんの不器用な励まし。

彼女たちは、俺の顔ではなく、俺自身を見てくれた。

その事実は、俺の心を温かくした。

だが、それと同時に、俺の決意をさらに強くした。

​俺がこの顔のままでいる限り、この不滅の孤独は続く。

雪先輩や三笠さんのように、俺を理解してくれる人は、この世界にごくわずかしかいない。

そして、その優しさは、俺を苦しめてきた世界を変えることはできない。

この顔が、俺の人生の全てを定義している。

この顔を捨てなければ、俺は、いつまでもこの地獄から抜け出せない。

​夜が深まり、家族が眠りについた頃、俺は静かにベッドから抜け出した。

部屋の隅に置かれた、ずっしりと重い貯金箱。

その蓋を開け、中に詰まった紙幣と硬貨を机の上に広げる。

カフェ、ビル清掃、コンビニ。

汗と疲労と孤独の結晶。

俺は、それらを一枚一枚、丁寧に数えていった。

そして、その総額を計算機に入力する。

​目標金額:200万円

​画面に表示された数字は、195万円だった。

足りない。

あと、5万円。

たった5万円。

だが、そのたった5万円が、俺の人生の最後の壁のように思えた。

すぐにでも、このお金を持って、病院へ向かいたい。

今すぐにでも、この地獄を終わらせたい。

俺の心は、焦りで満ちていた。

​翌日、俺は学校を休んだ。

もちろん、家族に理由を話すことはない。

ただ、一日中、バイトのシフトに入った。

ビル清掃、そしてカフェ。

朝から晩まで働いて、その日のうちに5万円を稼ぎ切る。

家に帰る途中、コンビニのATMで、稼いだお金をすべて引き出した。

ATMから出てきた紙幣を、俺は震える手で握りしめた。

これで、目標金額に到達した。

​家に帰り、貯金箱の蓋を開ける。

足りなかった5万円を、そこに加える。

ずっしりとした、希望の重み。

俺は、この貯金箱を手に、ゆっくりと立ち上がった。

俺の人生は、この貯金箱に詰まっていた。

そして、今、この貯金箱は、俺の未来を解放する鍵となる。

この顔を捨てて、新しい自分になる。

俺の人生は、明日から始まる。

そう、強く心に誓った。

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