二学期

 夏もとっくに消え失せて鬱陶しい夏服から心落ち着く冬服になった。銀杏の木もうっすらと色づいていて汗ばむ必要もなく外をうろつける。

 困ったことにボクは二年のモドヤンに目を付けられた。

 標的にされた発端には心当たりがある。九月の終わり、風邪気味のボクがマスク着用で登校したときのこと。二年一組の前でたむろっているモドヤンたちを通り過ぎると後ろから「ストロベリーマスクしてんぞ」との声が耳に入った。ストロベリー。ボクのニキビ面からあだ名を付けたらしい。カチンときたボクは尿後、再びモドヤンの前を過ぎるときにあからさまに鼻で笑った。

 反感売買はお互い様だが、以後、手出しはされないものも敵意は剥きだしになってしまった。

 一方川田も川田で髪を逆立てたつんつん頭に奥二重の鋭い目つき。ワンタックのズボンのポケットに手を入れて歩く姿をモドヤンどもはお気に召されない。

 ボクら二人はモドヤンに狙われているのだ。

 グループ云々よりも川田と二人でつるんでいることが多くなった。五十嵐さんグループと遊んでばかりで妙につれない山本のせいでもあるが、身を守るためにはひ弱そうなボンボンよりも川田を選ぶのは当然である(実際山本は眼鏡屋の社長の息子なのだ)。

 確かにハッタリ一つで立場逆転も余裕であろう。モドヤンなど恐るに足らない。

 だがまだボクは川田にさえ親父の仕事を教えていなかった。

 モドヤンよりも事実の告白で川田との関係が変わることが怖い。

 たぶん川田は変わらないと思う。そう信じたい。

 だけど「お前の父ちゃん、刑務所にいる」「沢村という名字のこと遊んじゃいけない」「アンタ、沢村君やろ、家にもう来んといてま」の幼児体験が蘇って、ないはずのヤクザの息子という負い目が悩ます。

 ボクは高校生になって初めて自分の社会的存在の特異性を知った。

 ボクは盗み一つしたことがない。しつけはお袋がしてきた。若衆のオッちゃんたちとキャッチボールをしたけど基本的にお袋は家庭教育に踏みこませなかった。成長したボクは道に外れることなく、多少道徳倫理などに仁義のエッセンスが隠し味されはしたが、人様に後ろ指さされることは一度もしていない、と思う。

 学歴で物事を計っても自慢にならないが、一応福井県トップクラスの進学校に通っている。皮肉なことに「沢村と遊ぶな」と教えていた普通の家庭の子供にかぎって、今、不良になって暴走族を結成している。

 ヤクザの息子、そんな負い目などボクにはない。

 お袋は「言ってくる人間には言わせればいい。度量の狭いかわいそうな人間なんや」と軽くあしらうがボクにそんな度量があるとは思えない。

 第一、川田がかわいそうな人間だったらボクはどうする。そのときは卑屈な笑いを浮かべるのだろうか。

 ボクは思いあぐねて川田に告白しないままにいる。

 告白といえば、もう一つ、五十嵐さんへの恋心も喋っていなかった。当然、前者の告白よりも余程気軽で打ち明けられそうなのだが、実はボクにとっては後者の方が深刻だったりする。

 話しても支障はないが、トラウマがあって恋の相談を容易できない。

 それは聞くも涙話すも涙の思い出である。

 ボクの初恋を巡って学級会が催されたのだ。

 小学校二年時、ボクは宮川さんが好きだった。無論、リビドーとは無縁の何となく可愛いと感じただけだ。それを幼なじみのミコちゃんに教えたことが後への伏線となった。その時のミコちゃんは興味を持たなかったようで、たいした問題もなく月日が流れてボクは宮川さんを好きではなくなった。

 小学校五年生の朝、いきなりだった。

 登校して教室に入るやいなや、クラスの口軽女が「啓介は eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(宮川さん),エリ)ちゃんが好きなんやって」と大声で叫んだ。

 三年越しにようやくミコちゃんが漏らしたのだ。

 教室は騒然となって、うわー啓介、宮川が好きなんや、と相合い傘マークの嵐。

 そこへ先公がやってきて騒ぐ児童に尋ねた。

 どのクラスにも必ず一人はコロコロコミックに洗脳された余計な正義感の強い男がいる。当時のボクのクラスにもいた。彼は「啓介君が宮川さんを好きなことをばらしたんです」と口軽女に指を差す。

 普通なら先生が、はい、はい、と頷いて尻軽女に、もうそんなこと言っちゃいけませんよ、啓介君に謝りなさい。みんなもよく聞いてね。男の子が女の子、女の子が男の子を好きになるのは当たり前のことなのよ。みんなのお父さんお母さんを見てみなさい。だからもう啓介君をからかっちゃだめよ。と深読みすると性教育へと発展する説教をするだろう。

 でもその先公は異常だった。

 正義少年の告発を受けるとつかつかと後ろの黒板に何やら書きはじめる。

『啓介君のこと』

 相合い傘からの解放を期待していたボクとは裏腹に緊急学級会の議題はボクになった。

 先公は口軽女を叱らなかった。一言も触れなかった。

 ただ矢継ぎ早に「啓介君、宮川さんのこと好きなの?」「いつ言ったの?」「どうしてそんなこと言ったの?」との偏執的な追及。

 なんでオレが怒られるんやろ?と、しどろもどろに、好きじゃない、好きじゃない、と半泣きになって首を振った。

 さらに悪いことに宮川さんもボクのクラスメイトで先公に、宮川さんはどうなの?と詰問。宮川さんは「啓介君なんか好きじゃない」泣き出してしまった。

 以降、ボクは先生全般を信頼しなくなり他人に恋愛暴露はできなくなった。

 だからボクは川田にもひた隠す。

 二学期が始まってもボクと五十嵐さんの関係は変わらない。

 挨拶はするけど世間話はできないでいる。残った右手の感触だけが五十嵐さんとの唯一の接触、それは十歳のときに無理やり親戚のオバさんに抱きすくめられた婆乳の対極にあった。

 恋じゃなくて愛やろか?と考えるようになった。

 五十嵐さんを想うたび心臓の鼓動が速くなり胸苦しくなる。息を思いきり腹の底まで吸い込んで鼓動を押し流そうとしても大きな堤防となってせき止められる。

 授業は呆けて身に入らず、片肘をついて口を半開く。今日の帰りに五十嵐さんからラブレターをもらいボクは躊躇いを装いしばし考えながらも快く了承、仲良く高校生活を送って一緒の大学に入って家に彼女を連れてくるとお袋は、いい子見付けたのう、親父は黙っているけど溢れんばかりの笑顔、そしてボクは結婚して・・・・・・、ボクの大往生までのストーリーに酔いしれて白昼夢。終われば違うパターンで繰り返される。

「啓介君、五十嵐って子知ってるか?高志校に入ってから色気づいて大変やって親御さん、愚痴ってんのや。うらも前に男と自転車二人乗りしてんの見かけたんやけど。ちかっぺ色気づいててみてるうららが恥ずかしいんや。知らんけ?」

 お盆に家に訪れた丸岡のオッちゃんの台詞が脳天に突き刺さった。

 五十嵐さんと同じ丸岡町に住む丸岡のオッちゃんを信じるか?男と二人乗り?そんなん人違いじゃ。たまたま自転車なかったから乗ってただけじゃ。と自分を説得しようしても、もしや、と引っかかって頭から離れない。ホントやったらどうしよう?左肋骨とみぞおちの中間がハリセンボンが膨らんだみたいにシクシクしてくる。

 痛みのポイントをカンペン筆箱で押し当ててグッと呻きながら痛さを堪えていると後ろからトントンつつかれた。

 小さな紙切れ、よく女の子が回しあっているやつだ。

 授業中の女の子専用の通信手段であり無関係のボクらが媒体となる。結構鬱陶しい。

 前に送るんか?ボクは気にも留めずに前のやつに手渡すと紙切れは再びボクの机に帰ってくる。

「なんじゃ?ちゃんと回せま。オレに戻しても意味ないやろが」

「何言ってんの。沢村君宛やよ」

 は?

 薄桃色の小さなメモ用紙、ボクには縁遠いモノが媒体者たるボクに届いた。確かに四分の一に畳まれた紙切れに『啓介君へ』と eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(したた),認)められていた。

 ドキドキしながら、誰やろ?動揺を悟られぬよう鼻を鳴らしたり顎をさすったりして、いざ開かん、の前に手汗をズボンで拭う。

 そして慎重に開く。

『啓介君へ。ローリング・ストーンズのCDもってるんだよね。わたしも興味があるの。よかったら今度かしてほしいな。お願い。五十嵐より』

 三回読み返した。夢じゃない。

 稲妻のように顔を上げて五十嵐さんの席に視線を落とすと彼女は小さく手を振っている。

 ボクは目礼で答えた。顔が紅潮していたと思う。

 休み時間に、

「貸してくれる?」

「いいけど、どんなのが聞きたいの?ストーンズっても連中キャリア長えからいろいろあんぜ。ブルースもロックもダンスも」

「うーん。啓介君のお勧めでいいよ」

 おっしゃぁ。心の中のリトル啓介がガッツポーズを決めた。ビッグ啓介も絶好調、即座にお勧めCDを前頭葉にピックアップ。

 やっぱ丸岡のオッちゃんの言ってたこと嘘や。腹部の痛みもなくなって、五十嵐さん、オレのこと好きなんかもしれん、と希望が降臨する。

 放課後、教室にいない山本を放っておいて川田と二人でゲームセンター、ジョイランドでヴァンパイアハンターに熱中した。川田も最近、考え事をしているときが多いようで対戦ではボクの圧勝。

 自室に戻るやいなや、スタート・ミー・アップを選曲し、ガソリン注入、ガソリン注入、と叫びながら念入りに対五十嵐さん専用CDを選んだ。

 二時間の苦戦、ハイ・タイド・アンド・グリーン・グラス、スティッキー・フィンガーズに決定。ベストチョイスに満足。

 夢でも絶好調。




 ミスチルのイノセントワールド、中島みゆきの空と君のあいだが世間では流行っている。ドラマでは家なき子。

 でもボクは興味がなくて専ら洋楽に聴き狂っている。

「お前も聴いてみろや、啓介。思ってるほど悪くねえぞ」

 川田が幾度となくテープを貸してくれるが今一ピンと来ない。音楽に関しては川田よりも山本との方が相性があうらしく競うように洋楽知識自慢をひけらかしあった。

 ボクが聴く洋楽はロック、ハードロック、パンク、ポップとジャンルにこだわらず多種多様の雑多の寄せ集め。ローリング・ストーンズ、ビートルズ、ビリー・ジョエル、ディープ・パープル、セックス・ピストルズ、エリック・クラプトン、ボブ・デュラン、レッド・ホット・チリペッパーズ。山本とボクの違いといえば山本がマライア・キャリーとボーイズ・トゥー・メンを好むところ。

 この中で唯一、全部のアルバムをそろえていたのがストーンズである。ピストルズも好きだったけどペイント・イット・ブラックで心奪われて以来、ストーンズが一番自分にフィットしている。

 五十嵐さんにCDを貸してから一日一回秘め事のように五十嵐さんとストーンズ談義をするようになった。

 CD貸して数日は五十嵐さんからの回答がなくて、貸したCDのビッチやブラウン・シュガーが彼女に悪い印象を与えたのかもしれないと深読み、選曲を誤ったか?と気に病んでいたがそれも完治している。

 ホップステップジャンプと順序正しく階段を進んではいる。でもはやく先に進みたい。いつも踊り場でくすぶっている気がするのだ。しかも、心の中とはあべこべに人前では硬派を演じようとして消極的になってしまう。結局五十嵐さんからのアプローチを待っている。その辺、当たり前に五十嵐さん達と笑いあう山本を遠目ながらそねむ。

 授業も土曜日、午前中で終わってしまい、ああ、明日は五十嵐さんと話せんのか、と口をすぼめていると、

「啓介、大判でラーメンでも食おうぜ」

 大判とは高志校裏門の駄菓子屋兼軽食屋で高志校生ご用達の店、昼食に川田から誘われた。珍しく今回は小橋が一緒だ。

 裏門には道場前を通る必要がある。ボクは思わず声を潜めた。剣道部には夏合宿から一度も出席していない。

「どうしたんや?」

「アホ、大声出すなま。オレがサボってんの見付かるやろが」

 口に人さし指を近づけて川田を制す。

 すると川田はにんまりと笑って

「お前、まだ辞めてんかったんか」

 と呟いた。

 ボクは肩をすくめながら頷く。

「何で?」

「親にばれると面倒なんじゃ」

 でも遅かれ早かればれんぞ、と川田は答えた。

「まあ、そやけどな」

 ボクは困って俯いた瞬間、川田は大きく息を吸いこんだ。川田の胸が膨らむ。

「一年十二組沢村啓介、今から部活サボって大判行きまーす!」

 おお?

 いきなり声を張り上げ胸がしぼんでいく川田に唖然とする。

「沢村啓介、サボってまーす」

 ちょ、ちょっと、待て。慌てて周囲をキョロキョロ見回す。

 ボクの意も解さず川田は小橋の脇をつついて促すと小橋も続いた。

「沢村、今、サボってまあす!」

「大判、行きまーす!」

 おい、やばいって。やめろってま。冷や汗がたらりと流れて二人を押さえるがますます調子に乗って大連呼で大行進。

「マジでやめろって」

 ボクが二人の口を押さえると道場の入り口がガラリと開き剣道着姿の顧問の先生が顔を覗かした。

「沢村、どこ行くんやってか?」

 とっさの言い訳が一つも浮かばない。あかん、もうあかんわ。焦りながらも一切合切あきらめた。

「・・・・・大判ですわ」

「大判か。でも今から剣道部は練習や。沢村、部活どうすんや?」

「はあ、辞めます」

 先生は鼻の穴を一杯一杯広げて目を見開くと何も言わずにそのまま顔を引っこめた。

 先生が消えると川田と小橋は腹を抱えて笑い転げた。

「目茶苦茶になっつんたげ。お前ら、全然シャレなってないやろが。お前らのせいでオレが怒られるんやぞ」

 怒鳴るボクの肩を組んできて川田は言った。

「気にすんな、啓介。考えたら負けじゃ。どうせ辞めるつもりやったんやし、いいげ。嫌なことは早く終わらせたんがいいんじゃ。小学校の先生も夏休みの宿題は早く終わらせって言ってたやろ」

 今一釈然とせずに苦虫を潰したような顔のボクを軽く弾いて川田は囁いた。

「わかった。わかった。オレがラーメンおごってやるで怒んなよ」

 それからラーメンを食べてジョイランドで遊んだ後、塾がある小橋と別れ、残ったボクらは駅前の勝木書店で立ち読みした。

 いつもなら真っ直ぐ三階の漫画コーナーへと上るはず、でも川田は中二階の岩波文庫コーナーに立ち寄った。

 川田は神妙な顔つきで本をペラペラめくる。不思議に思って表紙を覗けばゲーテ『若きウェイテルの悩み』だ。 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(こわもて),強面)の川田から想像もできない題名にボクの頬が緩みそうになる。

「こんなの読んで頭おかしくなったんか?そんなん読んでたら性格暗くなるぞ」

 川田は鼻で笑うと額に皴を寄せる。

「アホ、啓介。おぞえそ。せっかく読書の秋なのに本ぐらい読まんでどうすんじゃ。お前、この本バカにしてるけど読んだことあるんけ。読んだことないのに笑うのは一番アホやぞ」

 なるほど一理ある。ボクは題名から少女漫画チックなものを連想していた。川田の言う通りだ。

 川田は一々論理的で説得力がある。だからボクは川田に魅かれるのかもしれない。だけどそれを丸ごと認めるのも納得がいかない。

 反抗期の子供のように、いや今もボクは反抗期真っ最中で疾風怒涛の時代なのだが、口を尖らせて一応の反論感を示した。

 川田は気にも留めずにウェイテルに読みふけっている。

 結局、ウェイテルにぞっこんの川田を待ちきれずマルクス・アウレリウスの『自省録』を購入した。

 川田もウェイテルを購入。

 家で購入した自省録を拝読する。マルクス・アウレレリウスは哀しいことに鉄人皇帝と思っていたのが哲人皇帝だったのだ。

 勘違いに嘆いても時すでに遅く、壮大な宇宙観、人間観、世界観を省き道徳観だけ読み流した。一つ、素晴らしい条項発見『性交とは粘膜と粘液の擦りあいにしか過ぎず』、うわあ、嘆息。

 哲人皇帝の乾燥しきった男女観に感動中、電話らしくお袋に呼ばれた。

 東京の女子高生間にポケットベルが流行っているそうだが福井では関係のないことだった。福井でポケットベルを携帯しているのは事務所のオッちゃんとかで、カマクラのオッちゃんに至っては無線機に似た携帯電話を持っている。「どうや?啓ちゃん、前のと較べて小さいやろ」と見せてくれたことがある。前のとはハンドバックみたいに型で担ぐタイプで、ボクは無線兵を想像した記憶がある。

「誰や?」

「オレやけど」

「オレじゃわからんど」

「オレや。山本や」

 うん?訝しかった。

 川田からはたまに電話がかかるが山本は初めてだ。川田、山本と三人で遊ぶときはいつも川田がかけてきた。

「おお、山本か。何の用じゃ」

「あのな、お前、明日暇か?」

「明日?まあ、暇やけど」

「一緒にボーリング行こうぜ」

 山本とボーリング?二人きりはちょっと窮屈な気がする。だったら川田もいたほうがいい。

「別にいいけど川田も来るんけ?」

「いや、川田は来ん」

 案の定、山本と二人きり、となれば明日の日曜、独りで白昼夢にふけっていたほうが気持ちいい。

「お前とオレ、二人きりでボーリングかよ。だったら遠慮するわ。だいたいそれじゃおもろないやろが」

「ち、違う。誰がお前と二人きりでボーリングに行くかよ」

「じゃ、誰が来るんじゃ」

「え?あのぉ、村木と五十嵐」

 へっ?聞き間違いか、自分の耳を疑った。

「誰やって?」

「村木と五十嵐」

 受話器から耳に電撃、声が一オクターブ高くなる。

「マジで来るの?」

「そうや」

 受話器を置いて小躍り、なあもないけど洗い残しがある、と不審がるお袋を誤魔化してもう一度風呂に入り直した。

 明日、五十嵐さんとボーリングに行く。

 彼女とは縁がある。じゃなきゃ誘われるはずがない。

 喜びに満ちて日ごろ疎遠な山本に感謝した。

 パラパラッパッパラッパと頭の中でレッツ・スペンド・ナイト・トゥギャザーをかき鳴らす。

 遠足修学旅行よりも心が弾んで中々寝られなかった。なんだかミック・ジャガーと夜を過ごした気分になった。




 キメにキメたオールバック、本革製ハーフコートにジーンズのズボン。

 客観的には高校生というよりチンピラ。それでも普段学生服しか着ないボクにとっては精一杯のおめかしだ。

 福井駅前では休日出勤のサラリーマン、部活遠征のジャージ団、金沢京都買い物遠征オバさん組、可愛らしからぬカップルがうろうろ過ぎていく。

 改札口からは一向に五十嵐さんが現れる気配はない。

 待ち合わせ三十分前は早すぎたか。

 ボクは待ち合わせに遅れたことはない。親父の教えの賜物で待ち合わせ時間の三十分前に到着がマナーらしい。それもそのはず下手に遅れれば指切り的な習わしも辞さない世界だ。でも、その習わしを女の子との遊びに適用するボクはおかしいかもしれぬ。

 ウォークマンはスタート・ミー・アップ。

 甘い期待を乗せて徐々にテンションを上げていく。

 五十嵐さんの好意を得ている。だから誘われたのだ。ならば期待に応えるようエンジンを点火しなければなるまい。

 深呼吸をして全神経を緊張させる。

 エンジンに点火、気軽に二人でデイト、告白、お手手ちょうだい、接吻、胸もみ、そして性交成功。

 悲しいかな、現実感がない。

「啓介」

 後ろから呼ばれて不覚にもビビッと痙攣。山本だった。

「お前も早いな」

 時計はまだ二十分前、お互い苦笑する。

「五十嵐さんらは?」

「まだや」

「あっそう」

 心臓がバクバクしてきた。

 あいたいのか、あいたくないのか不明瞭になる。あえばもっとグチャグチャな内臓になる。あわなきゃ悶々と精神が砕ける。

 できるなら------否できなくてもあいたい。

 山本は平常通りで緊張の色はない。実際、山本本人は、そのつもりがないのだろうが、いつも顔のどこかが笑っている。川田や女子の中を小利口に立ちまわって弱いと見なした相手を徹底的に見下し勝てそうもない相手にはとことん媚びへつらう、そんな頼りがいのある男。

 強ばっているのはボクだけか。

 ビビっている自分を山本に知られるのも癪、目は泳ぎつつも雑談を交わす。

「・・・・・・なんで川田呼ばんのじゃ?」

「川田が来たら一人あぶれるやろうが。せっかく向こうが二人なんやし二対二の方がいいやろ」

「じゃあ、どうしてオレを呼んだのよ?」

「・・・・・・別に。お前なら暇やろ。うん?ああ、そうや、五十嵐の方がお前呼べっていってたんや。なんか知らんけどな、お前が来たほうが面白いからって呼んだんじゃ。まあ、川田には悪いけど啓介も呼ばれたのうれしいんやろ」

 まあな。

 聞き流すふりをしながら表情に気を配るのは難しい。ボクの顔は思いっきり不貞腐れた風になっている。他人が見れば山本にケンカを売っていると思われるだろう。

「山本。啓介君、もういたの?」

 女の子はいつの間にか来ていた。頭と感情の整理で気が付かなかった。

 ボクの緊張は吹っ飛んでいた。

 自分とは思えないほど饒舌にそつなく女の子達と話している。

 高志校でのボクはどこに行ったのか。五十嵐さんとは積極的に話せなかった自分。別人になったようだ。

 五十嵐さんは白のブラウスにジーンズ。よく似合ってるよ。頭での台詞が、セーラー服とは全然違うなあ、と当たり前かつ不自然なことを口走った。

 五十嵐さんは不思議そうに首をかしげた。髪はテレビのcMみたいにキラキラなびく。

 ボクらはボーリングをした。二対二のチーム対戦。しかも感激のことに五十嵐さんとボクがペアなのだ。ボールを投げるたびにお互いに応援し褒め笑う。ストライク、スペアで手と手を叩きあう。山本村木チームのレーンに野次を飛ばしあう。

 微笑んでいる五十嵐さんの横顔を見ながら思った。付き合うってのはこんな感じなのか、と。

 結果はボクらの惨敗だった。ボーリング歴三回のボクは七十三、五十嵐さんは八十一で百五十を越える山本一人にさえ敵わない。

「ゲームを面白くしようとせんと、マジになってやるんなんて山本、つまらん男やの。アカンわ。流れを考えんやつは」

 そうね。

 五十嵐さんは、鼻を鳴らして負け惜しみをするボクに同調してくれた。沢村五十嵐の相思相愛連合結成である。

 夕ご飯をケンタッキーで食べる。

 ボクの正面は当然五十嵐さんだ。

 たわいもない話が次々と生まれ消えている。

 ボクは隣の可愛らしからぬカップルに心なし勝ち誇っている。

 五十嵐さんを見せびらかしたい。自慢したい。

 そう言えば初めて五十嵐さんの顔をじっくりと眺めた気がする。ボクの脳内にストックされたイメージ、春の遠足の集合写真よりもはるかに五十嵐さんは美しかった。笑っていても何となく果無さが漂うクッキリとした二重の目、高くはないけど整った鼻筋、小さくて艶のある唇、美術の教科書に載っていたフェルメールのターバンの少女に面影が似ていなくもない。

 ボクの好きな人は美人だ。引け目を感じてしまうけどそれ以上にいい気分になれる。五十嵐さんから見たボクはどう写っているのだろう。考えただけで吐きそうになる。

「 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(村木),薫)、お前、進路どうすんの?」

「うーん、まだ決めてないけど・・・・・・。でもとりあえず文系に行くと思う。 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(山本),敬治)は?」

「理系に行く。大学で環境問題について勉強したいんや」

 話題は進路問題になっていた。山本と村木さんの会話に五十嵐さんが首を突っこんだ。

 ボクは少し妬んだ。

「でも山本、自分ん家の会社どうするの?後継がんでいいの?一人息子やったじゃない。お父さん、何も言わんの」

「後は継がん。眼鏡屋なんてやってられんし。好きなように俺は進む。五十嵐はどうすんじゃ?」

「私も村木と一緒やわ。まだ決めてない。だって一年生で決めるなんて早すぎるやろ、だってまだ一六やよ、はや過ぎるって」

 三人で会話が進められている。居心地が悪い。飲み終えたコーラの紙コップの底をストローで突く。氷はとうに溶けている。

「啓介君は?」

 えっ?

 五十嵐さんは急にボクに振ってきた。迂闊。

 三人が話している間に進路のことを考えておけばよかった。浮かばない。そもそもボクは進路のことを考えたことはなかった。知り合いの人間についてならいくらでも知っている。兄貴は早稲田大学への指定校推薦を狙っているし、マーシーはスポーツ推薦、従姉妹はできちまった結婚、中学の eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ヤンキー),同級生)はやっちまった退学、マコトは文系で当分は保留、川田は政治学をやりたいそうだ。そうだ。川田で誤魔化そう。

「あっそうや。川田は文系にするんやって。大学で政治学したいそうや。あいつは政治家なりたいっていってたしピッタシやもんな」

「へえ、川田君は文系に行くんだ」

 五十嵐さんは素っ気無かった。

 嫌な空気の匂いを直感した。

 新たな話題を提供せんと。

「それにしても今日川田も来ればよかったのにな。あいつも来たら喜ぶぜ。なんかボーリングもうまいらしいしよ」

「そうやの」

 微妙に冷たい。五十嵐さんは足下を眺めて村木さんは俯き表情は読めない。山本は口元を歪めている。

「いや、あのな、川田いいやつやし、いたら楽しいかなって思って。だからな、女の子も上松さんを呼んでさ、六人やったらもっと盛り上がるんじゃないかなって思ってね・・・・・・」

 山本がボクの靴を強烈に踏んだ。

 悲鳴を上げそうになったボクは途中で口を閉ざした。

 この雰囲気はなんやろな?

 状況がさっぱり掴めない。一体何が起こったのか?ボクが何をしでかしたのか?わからない。

 白々しくなったらしく山本は席を立った。じゃ、オレら帰るわ、とボクを残して店を出た。慌ててボクも、いや今日楽しかったわ、と五十嵐さんに手を振って山本を追った。

 別れ際に五十嵐さんが微笑んでくれたけど何が何だか意味不明だった。

 山本は無言だった。




 もうもうと煙草の煙が立ち込めているゲームセンター、ジョイランドでボクはゲームに遊びふけっていた。

 止まると五十嵐さんのことが浮かんでくる。彼女を忘れたくてボクは次々と五十円硬貨をゲームにつぎこんだ。

 自分でもわかるくらい荒れている。

 こんなやったらサボらんとけばよかったわ。

 ボクは何度も舌打った。

 五十嵐さん達と遊び呆けてからボクはかなりの前進をしたと思っていた。事実、自分から積極的に話せるようになったのだ。残すところは告白だけだった。

 今日七限目の補習を川田から、啓介、サボろうや、と誘われて一緒にサボった。

 放課後の五十嵐さんとのおしゃべりを逃すのは勿体なく残念だったが近ごろの川田はどことなく思い詰めているらしく付き合うことにした。川田に秘密で五十嵐さんと遊んだことの後ろめたさもある。

 学校のサボり道、 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ひがし),東)大通りを歩いているところボクらと同じように補習をサボった五十嵐さんを目撃した。

 発見の喜びもつかの間、五十嵐さんは男と手をつないで楽しそうに歩いていた。

 五十嵐さんには eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(彼氏),男)がいた。

 胸を射ぬかれたような衝撃を感じた。切なさが溢れた。目に涙が溜まっていくようだった。

 あれ五十嵐やげ、と顎差す川田に悟られたくなくて、そやな、と一生懸命平静を振る舞った。感情を押し潰した。いや、押し殺した。

 そのまま帰りたかった反面、誰かといたかった。

 川田に打ち明けたい。だけど今更言えない。

 全てはボクの思い過ごしだった。ボクの妄想、先走りだった。よく一緒に話すだけで好きになるはずはない。ただの喋り友達なのだ。

 彼女にとっては普通の振る舞いに過ぎなかった。

 唇から血が出るくらい強く噛む。

 裏切られた気がした。でも彼女は誰も裏切っていない。

 もし彼女が悪いのならボクは彼女を憎めた。楽になれた。

 だけど彼女は何もしていない。それどころかボクにとってはいいことだらけだった。

 尚更気持ちの持ち方がわからない。嫌いになる理由はない。でも好きになってはダメなのだ。

 ゲームは終わっていた。集中力がないに等しい今、パズルゲーム、ぷよぷよをまともにできるわけない。

 ステージは進まない。

「川田、もう終わったぞ。お前、やれま」

 後ろで見ていた川田に声をかけた。

 川田は答えなかった。

 振り向くと目を顰め口元を歪めている。視線の先には学ラン集団。向こうも川田と同じ顔つき、ガンの飛ばしあいだ。

 相手は見慣れた二年理数科のモドヤンだった。何方が先に睨んだのどろう。

 おそらく川田じゃない。何しろ向こうは五人、対するボクらは二人しかいない。

「おい、川田、やめろま。あんなん相手してもしゃあないやろが、ほらお前の番やぞ」

 川田の袖を引っ張る。

 ボクも川田も普段なら相手にしない。陳腐な男を相手にして面倒起こしても面白くないからだ。

 しかし今日の川田は冷静さがない。

 見る見るうちにボクらはモドヤンに囲まれた。社会科で習った追い込み漁のようだった。

 憎たらしいことにモドヤンはにやにや笑っている。

「ちっと eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ツラ),顔)かせや」

 促されるままにボクらはジョイランドを後にした。

 川田に、トンズラかまそうぜ、と耳打ちしても川田は無言のままだ。駅裏の路地、ソープランド徳川の前を過ぎて居酒屋の駐車場に連れてこられた。

 五十嵐さんを連れて歩く男がいるのにボクはモドヤンを連れて歩くのだ。

 皮肉なことに笑えてきた。全て黒に塗り替えてやる。

「お前ら、あんま強がんなよな」

「何が?」

 鋭い視線をモドヤンのリーダー格、右ピアスの男に発射して川田が撃ち返す。

「調子に乗んなってことじゃ」

 調子に乗る?ボクは少しも調子に乗ってねえ。乗るも乗らないも五十嵐には男がいる。費やした脳髄エネルギーは無駄手間仕事だった。気付かずドキドキしてきた自分が情けない。あんなすてきな女を取られて哀しく惨め、やるせなさで一杯なのにどこに乗るのか。乗れるなら五十嵐に乗りてえさ。

 左曲がりに口元を歪めてボクは笑った。

「笑うな」

「なあも笑って何かいませんよ。生まれつきこういう顔なんですわ。それが気に入らんのならスンマセン」

 自分で言いながらふっと鼻から息が漏れた。

 どうしてこんなに落ち着いているのか。

 トイレではいつも狼狽えていた。今日は意外なほどクールだ。どう切り抜けるか?どうはったりを噛ますか?そうだ。日本海に沈むぞ、このあっぱ野郎とでも凄んでみるか。

 八つ当たりじゃないけど巻き添えだ。

「なめんなよ。いい加減にせんとぶっ殺すぞ。俺らは eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(北陸高校),北高)の山崎と仲がいいやぞ。山崎に頼んで一遍シメてやっか?」

「・・・・・・どうでもいいけどもう帰っていいか?俺も啓介もはよ帰って宿題しなあかんのじゃ。そんな蘊蓄聞いてる暇ないんやけどな」

「ああ?」

「宿題や、宿題。中間テストが近いから勉強しなダメでしょう。オレら真面目に進学したいんですもん。遊んでる時間なんてないですよ」

「そおや。俺らアンタらみたいにいじめっ子気取りしてる暇ないしな」

 ピアスの男の顔がピクピク痙攣している。丁寧に額には青筋まで浮かんできた。驚いたことに人は怒るとホントに青筋が立つのだ。

「なめんな。ホントにシメんぞ。勝てると思ってんけや。五対二やぞ。調子乗んな。本当にぶっ飛すぞ」

 へえ、さすが理数科。数の勘定は得意らしい。

 ボクがほくそ笑むなか、衝撃音が響いた。

 ピアスがのけ反っている。

 川田が殴りかかった。

「?」

 モドヤンは呆気にとられていた。

 ボクも意表をつかれた。先に手を出すなんて・・・・・・。まだはったりさえ噛ましていない。計画が崩れる。

 みぞおち狙って膝蹴りをピアスに川田は決める。呻き声が吐くように流れ落ちた。

 地面には血が滴った。

 川田の目は見開いていた。息も荒い。

 モドヤン二人が川田にタックルをする。もつれるように倒れこんだ。アスファルトと服が擦れる。

「啓介!」

 我に返ったボクは拳を振り上げ我に返らないモドヤンの一人の顔面を狙った。

 五十嵐の胸の感触よりも気持ちの悪い柔らかさの後、硬いなにかに直撃する。

 相手の歯で手が切れた。相手は右頬を押さえ俯き加減に唸っている。

 ピアスは伏した川田の脇腹を蹴飛ばしている。

 ボクは後ろからピアスの首を腕で締め川田から引き離す。

 脇腹に鈍い痛み、腕の力を弱めた瞬間、ピアスの頭が顔面にぶつかった。左頬を弾かれてボクは地面に寝そべった。

 口の中は血の匂いで一杯だ。鉄臭くて、逆上がりの練習をした鉄棒を思い出す。四年生の時同級生があの鉄棒から落ちて死んだんだ。あいつの名前なんだっけ。もう忘れつんたか。

 隣からは川田の呻き声が聞こえてきた。呻きと一緒に怒声罵声も加わる。

 ボクは漫然と殴られ蹴られていた。

 意識はある。だけど意識は身体を離れ遠くからボクを眺めた。

 何でもいいからはよ終われ。面倒だ。はよ帰ってドラゴンボールみたい。何でみんながテレビ見てるときに稽古せんとあかんのやろ。まだ終わらんのかな。はよ帰りたいのにな。

 小学校のときの剣道の練習と一瞬ダブった。

 衝撃が収まりモドヤンの嘲笑で悔しさがようやく戻ってきた。

 冗談じゃねえ。なんで俺がこんな目にあわなアカンのじゃ。

 ハッタリも糞もない。こいつらを生かしておくわけにはいかない。ナイフがあれば刺す。木刀があれば頭をかち割る。銃があれば撃ち殺す。

 生憎今は拳しかなかった。これでは形勢逆転ならず。せめてロケットパンチが欲しいのです。でも今は拳しかない。

 アスファルト伝えに車が走る音が届く。

 二〇メートル先には人が歩いている。でも助けに来ない。照れているのか、恥ずかしいのか、狼狽えているのか、気づかないのか。

 そうだ。ボクには親父がいる。

 そうだ。親父に頼ってやる。死ね。

 さらば、モドヤン。

「あああああああああっ」

 雄たけびとともに川田が押さえられた手をふりほどいてピアスに掴みかかった。だが、奮闘むなしく轟沈された。また挑んだ。撃沈された。未来永劫に続く eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(カルマ),業)のごとく川田は轟沈を繰り返す。

 ・・・・・・今、親父に頼るのは悔しい。川田に笑われる。川田を侮辱している。必死に抵抗する川田にボクは負けている。

 ボクも雄叫びを上げるとモドヤンに突っ込んだ。

 だがボクの業はいつまで続くのか・・・・・・。




 殴られて地べたに伏したとき視界はクリアーになっていた。転がる小石、アスファルトの微妙な凹凸、寒さに耐えて懸命に伸びようとする名の知らぬ草花。空気を、分子原子さえをも遮断して曖昧さが取り除かれた。ベリークールなほどにすべてを見はるかした。

 でも五十嵐に男といる事実をボクが目撃したとき、すでにクリアーになっていたんだと思う。

 川田が起こしてくれた。二人で支えあうように駅に向かう。

 道端に吐くボクらの唾に朱色が混ざっていた。

 言葉はなかった。

 ホームでの別れ際、

「宿題やれよ。啓介」

 と、川田が言った。

 ボクは肩をすくめて笑った。

 すれ違う人達がみな怪訝にボクを見た。迂回する人もいれば、あからさまにひそひそ話をする人もいた。

 ボクはそのたびに口を曲げて鼻を鳴らした、

 恥ずかしさはなかった。

 それよりも昂ぶっていたのだ。

 電車の中で座れたのは不幸中の幸いだ。乗車口傍を陣取ると鉄パイプに全身をもたれかけた。

 ようやく一息つけた。芦原湯町駅までの五十分、それまでは休むことができる。京福電鉄の鈍スピードに感謝した。

 舌で口内を探る。

 血は止まったようだ。だが右頬内を擦って犬歯に触れた途端、激痛が走った。歯には大きく溝が穿たれている。

 なんやろ、と手を口の中に入れた。手には砂がこびりついてじゃりじゃりとなる。

 頭蓋をかち割る痛みをこらえ調べた。

 ひびが入っている。

 まいっつんたな。母ちゃんに怒られるな、これ。

 思い出すように痛みが訪れた。

 顔が火照っている。身体が軋むように痛い。呼吸もしんどかった。流れる汗が自分のものではないかのように違和感がある。全身が発熱している。

 意識しなければ呼吸ができないほど苦しい。よく自転車に乗れたと我ながら褒めたい。ふらついた自転車は何度も用水路に突っ込みそうになった。

 家に着くなりオッちゃん達がボクを囲んだ。

 オッちゃん達が何を言っているのか理解できない。インドで物売りにでも捕まった気分だ。ふらふらとよろめいてオッちゃん達の話す言葉にニヤニヤ頷いていた。

 世界はボクをおいてどんどん進んでいくようだった。

 カマクラのオッちゃんに抱えられてボクは車の後部座席に乗せられた。

 窓ガラスがひんやりとして頬を当てるだけで心地よい。パラダイスは車の窓ガラスであったのだ。とにかく横になりたい。

 外には親父やお袋がいるらしい。

 二人はボクを怒るだろうか?

 とりあえず殴られはしないだろう。

 オレと川田に責められる点はなかった。あるとすれば身の程知らずということだ。

 何だかどうでも良くなった。

 きっとすべてを親父に話すのだろう。

 そして絶対親父は動く。

 おそらくモドヤンは後悔する。相手が悪かったことを。北高の山崎よりもおっかない連中を相手にすることを。

 ボコボコにされるモドヤン。悪い気はしない。

 だけど勝ち負けはほっとけま。

 万事は彼岸の出来事だ。いやボクが彼岸に浸かっている。

 何がボクを今日ここまでさせたのか。どうしてボクはこんなに無茶をしたのか。なぜ川田を力ずくででも止めなかったのか。どうしてへらへら笑ってやり過ごさなかったのか。

 ふと五十嵐が猛烈に憎くなってきた。




 補習の時間は終わったようだ。徐々に校門から出てくる高志校生が増えてきた。

 ボクはモドヤン一派を待つ。

 車の中は煙草の煙がもうもうと立ち籠めてロンドンさながらうっすらスモッグを醸している。

「啓ちゃん。あんまり無理して、父ちゃんを心配させたらあかんよ」

「はあ」

 病院直行緊急診断結果、ボクは全治四週間の打撲&肋骨の罅だそうだ。割れた歯に関しては歯医者に訊かなきゃわからないがおそらく抜かねばならない。

 兄貴は溜め息を漏らし、お袋はボクを「阿呆!」と罵倒した。返す言葉がない。ボクは阿呆だ。

 親父は無口だった。

 勘ぐるまでもなく親父は怒っている。誰に怒っているのかはわからない。普段の親父が怒ったなら鉄拳制裁で一目瞭然だが、ぱんぱんに腫れたボクの顔を殴る気さえも起きなかったか。

 でもボク以上にモドヤンに憤っているのは察知できた。

 なぜならこうしてカマクラのオッちゃんたちとモドヤンを待っているからだ。

 すさまじい顔の腫れは一夜経ってもひかなかった。それは川田も同様だ。

 今日ボクは学校に行った。

 親父も珍しく早起きしていた。

 お袋は学校を休めと言った。だけどボクが言い張るとお袋はしぶしぶながら承諾した。

 親父はずっと黙っていたけど家を出るとき、

「啓介。今日、何時ごろに授業が終わるんじゃ?」

 と尋ねて

「校門にカマクラがいるからちゃんということを聞けよ」

 と呟いた。

 親父の考えは読めた。たぶんモドヤンたちにお説教をなさるのだろう。

 だがなぜか鬱陶しく感じられた。

 学校には川田も来ていた。

 ぱんぱん顔同士、無愛想な川田は人懐っこかったがボクには後ろめたさがあった。

 もちろん、他の友達や先生にしつこく追及された。

 ボクらは口を割らなかった。

 でもクラスメイトはボクと川田に何が起こったのか悟っている。

 わざわざボクのクラスに青タン混じりのモドヤン五人が訪れたからだ。

「おめえら俺らの治療費だせよな。ださんと北高の山崎に言うぞ。な?素直に聞けま。もう懲りたやろ。ださんとまた同じ目にあうんやからな。それとも親に電話してやるか?」

 ニヤニヤ誇らしげに語るモドヤンを無視すると舌打ち一つ残して戻っていった。

 当然、トイレに行くたびに通る二年一組の前にはモドヤン一行がたむろしてボクらをからかった。

 五十嵐にも心配されたがボクは彼女を邪険に扱った。面倒だった。いらいらして顔さえもみたくなかった。異臭というのか性臭というのか、そんな臭いで鼻が曲がりそうだった。

 そしてボクは親父の言葉を素直に従いモドヤンたちを待っている。

 一人補習をさぼるボクに川田は恨めしそうだったけどボクは振り切るように学校を出てきたのだ。

 車二台、一台は普通のカローラ。もう一台はワゴン車だ。

 オッちゃんは 七人来ている。

 車の中のボクは無口になった。

 カマクラのオッちゃんはボクに気を使ってか、FM福井にラジオをあわせた。

 甘ったるいミスチルよりもボクはうさんくさいカビの生えていそうなストーンズのブルースが聴きたい。ストーンズならなんでもいい。ミス・ユーだろうが友を待つだろうがどれでも構わない。ストーンズを聞かせてくれ。

 ツジモトさんが買ってきてくれたホットの午後の紅茶を啜っているとモドヤン一行が現れた。

 運良くオールスター、全員そろっている。うれしそうにニヤニヤ笑っている。ボクと川田の自慢話でもしているのだろうか。

 心ならずも気が滅入る。心の奥底では裏門から来るように願っていた。

 もう面倒なことには関わりたくなかった。

 けれども途中下車は許されない。特急は半端者を降さない。

「オッちゃん。あいつらや。あの五人組や」

 ボクが目で示すとオッちゃんたちは静かに車を降りた。

 モドヤンたちを取り囲む。

 モドヤンからはニヤニヤが消滅し一気に青くなっていく。




 正座するモドヤンたちは哀れだ。

 ずらりと並んだオッちゃんたちに冷たい視線を浴びせられて石膏人形みたいに身動き一つできない。

 ボクはオッちゃんたちの一番端でモドヤンたちを鑑賞している。

 題名は『モドヤン・バイバイ』。ラオコーンっぽい彫刻なら感動しよう。

「スイマセン。もう勘弁してください」

 一人の押し殺した声にカマクラのオッちゃんはにっこり微笑んだ。

 カマクラのオッちゃんの笑顔ならボクは見慣れている。小さいころはよくキャッチボールの相手をしてもらった。だけどこの笑顔はとてつもなく恐ろしい。

「勘弁ってどういうこと?」

 カマクラのオッちゃんは組んだ両腕をほどくとシャツの袖をまくり上げた。ちらりと入れ墨が顔を出す。

 モドヤンの咽が上下した。

「ねえ、兄ちゃん。何に勘弁するのか教えてくれま」

 モドヤンは口が半開きのまま震えるように頭を左右に振る。

 無性に鼻の頭から汗がにじみ出てくる。ボクはしきりに擦る。

 股座の具合が気になる。尻がかゆい。

「だから何に勘弁すればいいの?オッちゃん、あんま頭よくないからわからねえのよ。だから教えてくれんかの」

「いい加減にしろよ!」

 モドヤンのピアスが叫んだ。

 ボクはひるんだ。

 残るモドヤンもビックリしたような顔でピアスの顔を覗いた。

 ビビったというよりむしろ、やっちまったという感覚。教室の花瓶を割ったようなしまった感。

 オッちゃんたちは変わらず冷たい視線で威圧したままであった。

 カマクラのオッちゃんは口をすぼめると、いっそう目尻を下げてピアスに顔を近づけた。

「いい加減ってどういうこと?」

「知らんわ!知らん。もういい加減にしてくれ。俺は家に帰る。あんたらのこともみんな警察に言ってやる。全部言うからな。おい、もう帰ろうぜ。こんなとこまで連れてきやがって。ヤクザがどうしたんじゃ。ヤクザだからって威張るんじゃねえ。たかがヤクザやろうが」

 立ち上がろうとするピアスの両肩をカマクラのオッちゃんは押しつぶした。

 ピアスはぴゃっと悲鳴を漏らすと床の上にへたりこんだ。

「ぴゃっだって」

 カマクラのオッちゃんは鼻で笑う。

 ピアスは顔を真っ赤に染めると一段とむきになった。

「放せよ、おっさん。放さんとぶっとばすぞ」

 カマクラのオッちゃんはピアスの鼻を指で弾いた。

「何すんじゃ!」

 怒鳴るピアスを取りあわずカマクラのオッちゃんはツジモトさんに顎をしゃくって何かを促す。

 ツジモトさんはゴルフクラブを片手に抱えてピアスに詰めよった。

「なあ、兄ちゃん。強気なのは結構やけど相手を間違えちゃあかんやろ。そんな態度やと警察どころか家にも帰れんぞ。俺と違って世の中には怖い人はいっぱいいるしな」

 カマクラのオッちゃんが話し終わるやいなや、ツジモトさんはクラブのヘッドに持ちかえてピアスを打ち据えた。

 風きり音を鳴らしたゴルフクラブにピアスは呻くと顔を両手で抱え守ろうとする。

 ツジモトさんはピアスを蹴り倒した。そしてドングリころころ縮こまるピアスにゴルフクラブを振り落とす。

 打擲音が事務所に何度も劈いた。

 ピアスは泣き出した。念仏のように、ごめんなさい、ごめんなさいと唱えている。

 曲がったゴルフクラブにツジモトさんは舌打ちしピアスの背中を蹴る。蹴るたびにピアスは喘いだ。

「おい」

 カマクラのオッちゃんの声に蹴りはやんだ。

「兄ちゃん。学校ではいい格好して威張ってんやろうが程々にしといたほうがいいぞ。学生なんやし勉強せんと意味ないやろが。勉強せんと俺らみたいになるぞ」

 ピアスはごめんなさい、ごめんなさいを続け、たまにしゃっくりでむせた。

「啓ちゃんをこんな顔にしたんや。泣いても無駄やぞ。それに警察に言いたかったら言えま。ただ、そしたらお父さんとお母さん、それにあんたらも北陸にいられんようなるけどな。こんなオッちゃん、別にどこでもおるんや。怖いやろ、こんなオッちゃん」

 カマクラのオッちゃんはそういってツジモトさんの肩をなでた。

 曲がったクラブを右手に抱え無愛想な顔のツジモトさんとその肩をなでる笑顔のカマクラのオッちゃん。滑稽だ。

「見てみ。啓ちゃん、こんなに顔を腫らして全治四週間やぞ。肋骨に皴入ってるし、歯も欠けてんや」

「オッちゃん。それだけやないよ。こいつらオレに治療代まで請求してきた」

 ついボクは口を挟んでしまった。

 ずっと呆気にとられていたのに、ずっと傍観者でいたのに、ずっと鑑賞者であったのに、急に当事者として名乗りを上げてしまった。すでにボクの心ではどうでもよくなっていた癖して。

「なんやってか?啓ちゃん」

「いや、なあもない。なあもないよ」

 ボクは即座に撤回した。

 モドヤンに同情したんじゃない。でも居心地が悪すぎる。

 カマクラのオッちゃんは一瞬にして顔をこわばらした。ボクに顔を寄せると真剣なまなざしで囁いた。

「啓ちゃん。啓ちゃんのためだけにしてるんじゃないんやよ。啓ちゃんの父ちゃんに泥を塗られたんや。啓ちゃんはもうどうでもいいかもしれんけど、面倒を起こしたのは啓ちゃんや。だったら啓ちゃんも最後まで筋を通さなあかん。正直に言わなアカンやろが」

 ボクはオッちゃんの凄みに心底ビビってしまった。

 観念するしかない。こうなることを知ってボクは親父に告白したのだ。ボクは初めて木の上で見ている親父を引きずり下ろしたのだ。引きずり下ろしたからには核兵器使用並の覚悟がいる。今更躊躇しても遅い。

 あきらめてすべて喋った。

 モドヤンは哀願するような目でボクを見つめている。彼らにすれば小憎たらしいニキビ面のボクさえも救い主に見えるのだろう。

 ふうん、と頷くとカマクラのオッちゃんはモドヤンの一人に迫っていきなり横っ面を殴った。

 鈍い音が事務所に響く。

 残るモドヤンは悲鳴を上げて執拗に殴り蹴るオッちゃんから後ずさった。

 だが逃げようとするモドヤンもツジモトさんらに背中から押さえられカマクラのオッちゃんに丁寧にいたぶられた。

「何が治療代じゃ!ふざけんじゃねえ。ガキやからって調子乗り腐って。本当に殺してやるか?このガキが。治療代取れるもんなら取ってみろ!治療代どころか葬式代も出したるわ。ほら学生手帳を出せ。はよ出さんかい。それと親の名前仕事先、家の住所と電話をここに書け。正直に出さんと学校に訊くからな。いいか。わかったんか。わかったんなら、はよ出せま」

 カマクラのオッちゃんは怒りを顕にした。呼吸が荒く肩を上下させている。

 いたたまれなくなったボクは背を向けて事務所のドアに手をかけた。

「啓ちゃん。もういいんか?」

「オッちゃんに任せるわ。身体調子悪いし腹減ったしの。・・・・・・あいつらに川田にも謝れと伝えてください」

 カマクラのオッちゃんは、了解、と呟くと微笑んだ。実に屈託のない笑顔だった。

「啓ちゃんともう一人の子の治療代はお前らが払うんじゃ!」

 窓越しにオッちゃんの声が届いた。

 ボクはヤクザにはなれない。

 ボクは親父の実子だがヤクザの素質は受け継がなかったらしい。それにカマクラのオッちゃんに距離を感じ距離を置いた時点でヤクザへの資格は失った。

 ボクにとっての一つの社会が明確に分裂した。もうガキのころのように単純ではない。ボクの住まう世界にベルリン級の壁が築かれていく。

 でもボクはまだ西にも東にも受け入れられていない。選んでもいない。

 ただヤクザ世界にも世間一般にも否定されている、気がする。

 断絶されたという不安。

 ゲット・オフ・マイ・クラウド。みんな出ていけ。ヤクザも学校も消えちまえ。オレは独りぼっちの世界に住んでいる。

 家では親父とお袋がボクを待っていてくれた。兄貴はもう食い終わったようでテレビを見ている。

 夕食はボクの好きなグラタンだった。

 口ん中、火傷するげ、と悪態をついた途端涙がにじんできた。おぼろげな蛍光灯が幾重にも揺れ輝く。

 ボクは目元をこすって天井を見上げる。

 天井は親父の吸った煙草の脂でくすんでいた。

「ちょっと便所行ってくる」

 親父とお袋は何も訊かなかった。

 少なくともここには居場所がある。そう思うと涙が止まらなかった。

 人生で一番心もとなく心うれしい便所での一時だった。




 一晩中考え続けても結論は出なかった。

 やっぱりボクには居場所というか存在意義はない。社会的にヤクザという存在は否定されているし法的にも許されていない。形而上ではあってはならないのだ。

 ではなぜ現実にヤクザが存在しているか?わからない。でも矛盾だけど、それが現実なのだ。ヤクザは現実的には存在しうるし存在している。

 ではボクとはいうといっそう謎である。

 ヤクザ界さえ肌に合わず現実からも背を向けた。

 抽象的ではあるが社会的も法的にも現実的にもアッカンベーをしている。

 だが抽象具象的アッカンベーでも学校には行かなきゃいけない。

 時間は思考を待たずに進んでいくのだ。

 答えが出ぬままに過ぎ去る時間は憎たらしい。

 その一方で時間が経ってぱんぱん顔が早く治る利点もある。

 寝返りのたびに鈍い痛みを催す顔面に、いいからはよ治らんかい、とカマクラのオッちゃんの口真似をして玩ぶ。

 モドヤン問題は解決した。

 スキンヘッド・ウィズ・ぱんぱん顔のモドヤンたちは朝のホームルーム前に川田とボクに土下座してきた。

 昨日、ボクが戻った後のことは知らない。けれども治療代は請求されなくてもすむようだ。

 川田は、わかった、わかった、と困惑気味にモドヤンを追い払うとボクに、どうしたんじゃ?と尋ねてきた。

「知らん」

 と嘘をつき首を鳴らして誤魔化した。他のクラスメイトにも同様のしぐさで応じる。

 組頭先生ももう訊いてこなかった。

 おそらく事情は知っている。まあ余計なところに顔を突っ込んで話を面倒にしてもらっても困るけど。

 結局ボクはモドヤンと一緒なのだ。

 北高の山崎を頼り親父を頼る。大差はない。後ろ盾がただのヤンキーか eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(本職),ヤクザ)かの違いで、トラの威を借る阿呆には変わりはない。

 二元勧善懲悪物ならモドヤンが悪でボクが正義だ。

 ではカマクラのオッちゃんが正義の味方か。そんなわけない。ボクの親父が警視総監でもないかぎり無理な話だ。つまりは弱肉強食、寄らば大樹の陰。正義なんてうさんくさいものは単純漫画で十分だ。

 虚しくなるばかり、溜め息が漏れる。

「すまんな。啓介」

 昼休みに廊下に座りこんで女子の生足を睨ていると川田が口を開いた。

「何やし、突然」

「いや理数科のやつらにお前を巻きこんずんたことじゃ」

「別にいいわ。顔痛いけどな。まあ、おもろかったぞ。こんなに目茶苦茶になるって滅多にないぜ」

 川田は、そうか、と呟き俯いた。

 ボクらの前を足早に女子は過ぎていく。時々クラスメイトの女子も通りかかってボクらに話しかけてくる。何してんの?と訊かれれば、顔を冷やしてんの、と答えて半笑いを浮かべる。しゃがみこんだ女の子の下着が出現したり名前の知らない女の子に手を振ったりして暇つぶしには持ってこいだった。

 でも虚しさは癒されないまま置いてけ堀だ。

「俺、一昨昨日に、ケンカする前の日やな、村木にふられたんじゃ」

 小さな川田の声は気付かず脳天を透き通るくらい弱々しかった。

 そんな川田の呟きがかえってボクを聞き逃させなかった。

「村木って村木さんか?」

「そや。ふられたんじゃ。なんか知らんけど山本と付き合ってるらしいわ。で、俺、山本が村木に気があるって知らずに相談とかしててな。山本が信用しろって言うのを信用して損したわ。告ってから村木に言われるんやもん。だから苛々しててな。山本を殴ろうとしてもふられた腹いせみたいやしみっともねえし。そんで理数科を相手にしつんたんじゃ」

「村木さん、山本と付き合ってんのけ?」

「そや」

 黒いものが腹の底から這い上ってきた。あまりに黒すぎてそれが怒りと認めるまでには時間がかかった。

 前のボーリングはただの数合わせだったのか。五十嵐は前から誰かと付き合っていたのか。ボクは最初から眼中になかったのか。ただの一人走りだったのか。

「どうした?啓介」

「・・・・・・この前、山本に誘われて村木さんと五十嵐さんと山本とボーリングに行ったんやけど、オレ、山本&村木の eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(だし),出汁)やったんかな」

「ああ、出汁やな」

「出汁か・・・・・・」

「いい出汁でたやろ。啓介なら」

 あの時の村木さんの戸惑いと気まずい雰囲気はすべてここにあった。出汁が灰汁を出したせいでつまらなくなったのだ。情けない。出汁の役目さえも全うできず山本らから爪弾かれたのか。

 お笑いピエロよりもダサい。ピエロはピエロに徹している。ボクは出汁に徹することを求められていたのだ。

「啓介。深く考えんな」

「何が?」

「考えたら負けやぞ」

 負けか。

 川田の方がボクよりもつらい。相談した山本に情報をあたえた揚げ句に裏切られ村木さんをかっさわれた。しかも一人踊りの川田は出来ゲームの告白をしたのだ。

 考えれば考えるほど状況は哀しくつらく嘆かわしく思えてくる。

 だけど思考を停止すればそれ以上につらくはならないのかもしれない。

 思考を停止して時間が過ぎ去るのを待つ。無駄な思考で後悔するよりも先に進むのだ。

 これは諦めや逃げではない、とボクは解釈する。

 何となく五十嵐さんへの憤りも薄れていった。

「啓介、お前進路どうすんじゃ?」

 紙パックの牛乳を啜る川田は平然と話題を変えた。

 川田はもう克服している。ケンカからカタルシスを得てしまったのか。

「進路?」

「そうや。進路どうすんの」

「理系に行くって言わんかったっけ?」

「それは知ってる。でも何で理系に行くんじゃ?」

「・・・・・・知らん。別に大した理由はないよ。何となく医者にでもなろうかって思ってるだけやけど。まあ、文系に行ってオカルトでも勉強して新興宗教でも開いてもいいけど親父、怒るしな。それにオレ、福井好きやから福井医大に入れればずっと福井におれるしな」

 川田は、ふうん、と頷くと壁に深くもたれかかった。タイル床に滑って川田はズルズルと沈んでいく。

 モドヤンたちが前を通った。ボクと川田に頭を深々と下げた。剃刀負けして赤くただれた頭が痛々しい。

 つられたボクも顎を突きだすようにして頭を下げた。

「俺は政治学科を出て政治家になるぞ」

 モドヤンを目で追いながら川田は言った。

「知ってる。前に聞いた。でも政治家やったら別に医者になってからでもなれるし役所勤めでもなれるやろ。別に政治学科の必要ないし福井にいてもなれるわ」

「アホけ。福井で政治家なるからこそ福井を出るんじゃ。考えてもみろや。ちっぽけな北陸の県やぞ。東京の連中なんか福井の場所さえ知らんのじゃ。そんな福井だけでしか暮らしたことのないやつの話、誰が聞くんじゃ」

「だったら東京の連中に福井のこと聞いてもらっても意味ないやろが」

「だからじゃ、啓介、見てみ、福井ってのはコシヒカリを発明した癖に新潟に奪われた間抜けな県なんじゃ。福井しか知らんやつばっかだからそんなことされるんや。だから俺が政治家になってな、世の中を動かすんじゃ。そしたら福井もバカにされん。それにムカつくことばっかやろ、今の世の中。ついでそれも俺が変えるんじゃ」

 川田がどこまで真剣なのか、表情からは読めなかった。

 冗談かもしれないけど嘘はついていない。ボクには川田の言いたいことは察せる。ボクも福井を越えた世の中の渦に足を突っ込んでみたい。嘘っぽい世界を変えてみたい。

 でもボクには土台無理な話だ。親父のようにオッちゃんたちを率いられるほどの胆力もないし川田のような魅力もない。あるのは野望だけだ。それに世界は複雑すぎて把握できないからこそ嘘っぽいのだ。そして嘘っぽさの中には矛盾が何層にもなって絡み合っている。ほどくことなんて不可能だ。ましてや福井しか知らないボクには。

「川田。オレの父ちゃん、ヤクザなんじゃ」

 話の腰を折ったボクに川田は片眉をあげて目を向けた。

 鼻をひくつかせて怪訝そうだ。

 気がついたら告白してしまった。口から溢れてきたのではない。ポロッと落ちてしまったのだ。

 ボク自身、驚いている。予想だにしなかったことを口走ってしまっていた。

 川田にボクを通じて世界の嘘っぽさを伝えたかったのかもしれない。しかしいかんせん無意識すぎた。情けないことに次につながる言葉が浮かばない。

 口元がひくひくと引きつったボクは泣きそうな笑顔になった。

「知ってた」

 はっとする。ボクは自分の耳を疑った。マヌケに目を見開いて、えっと声を漏らした。

「知ってたぞ。俺の親父から聞いてた。前に親父に沢村って友達ができたって言ったら芦原のやつかって訊いてきてな。そやって言ったら、その子の親は極道やぞ、って教えてくれたんじゃ」

「そんで?」

 ボクは怖かった。次の川田の言葉が怖くて仕方なかった言葉次第では川田との縁はなくなるかもしれない。なくらなくてもぎこちなくはなる。

「・・・・・・なあも。お前が選んだ友達やったら構わんってさ。親父は親父、お前はお前やろ。気にすんなってさ」

 ははっ。気の抜けた笑いだった。腰が抜けたようだった。

 やっぱり川田は川田だった。友情なんてキナ臭い言葉は嫌いだけどホントに川田と友達でよかった。

「そやな」

「そや」

 改めてボクは笑った。川田も大笑いした。むせた。咳が出た。でも悪くはない。

「じゃあ、オレも福井医大行って医者になんのやめて防大に行くわ」

「何で?」

「お前を手伝ってやる。川田が政治家なるころはオレも自衛隊でお偉いさんなってるはずじゃ。だからクーデター起こしてお前を総理大臣でも大統領でもしてやる。んでオレが総司令官じゃ。そっちのほうがお前もやりやすいし、おもろいやろ」

「おお、サンキューな。でもどうしていきなり気が変わったんじゃ。前から考えてたんけ?」

「うん?防大なら医学部よりは簡単やから前から考えてたんやけどの。だけど国のために捧げるなんてオレにはつまらんしな。そやったら看護婦に囲まれてた方がいいって思ってたんじゃ。でもな、やっぱ看護婦だけじゃ飽きるしの。それに今川田の話聞いて風が吹いたみたいなんじゃ」

「風け?」

「そや。風が吹けば桶屋がもうかるってな」

 川田は複雑な顔つきでボクを見つめていた。

 だが実際にボクには風が吹いたのだ。




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コシヒカリ(2001) Nemoto Ryusho @cool_cat_smailing

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