コシヒカリ(2001)

Nemoto Ryusho

一学期

 やっぱ独りはイカンよなあ。

 肩を落として揺れ動く景色、車内照明を眺めていると寂しくセンチメンタルな気持ちになってきた。

 鼻をすする振りをして両手をくんくんと鼻で嗅ぐ。今日の練習で長年染みこんだ汗が手に伝染したらしく、籠手臭くなっていた。窓に映る自分の髪形は少しも型崩れしていない。さすがはスーパーハードムース、いくら面タオル、面で包んでもちっとも変わらない。朝固めた通りのオールバックだ。

 少々薄青く籠手色に染まった手を表裏ひっくり返して玩んでいると、となりのオバちゃんがボクの剣道着臭と汗の匂いに顔を顰めていた。

 ボクは落とした肩を張って強がって見せた。反射するボクの顔は、車内が暗いせいか、赤く晴れ上がったニキビも消えてのっぺりとしている。

 電車の中はつり革をつかむ人々がまばらにいる。席は空いていない。クラブ帰りの学生達に混じって背広の会社帰りもいる。

 五月の半ば、車内はクーラーが微妙に効いていて学ランを纏わなければ鳥肌が立った。微かに震えを感じてボクは一層肩を張る。

 西春江を過ぎて、ボクの通う高志高校以外の生徒、すなわち福井実業高校、福井女子高校、福井商業高校、藤島高校、春江工業高校の連中も乗せて京福電車はゴトゴト走っていく。ボク以外の学生達は思い思いの友達連中と語り笑いじゃれあっている。

 京福電鉄福井〜三国港線の芦原湯町駅から福井駅。これが毎日のボクの通学路で、車内に留まる通学時間おおよそ五十分。友達がいなければ何ともむなしさびしの五十分である。高志校に通う中学校時代の友人達は皆JRに乗って仲良く通学しているため、顔見知り------否おしゃべり仲間はボクにはいなかった。素直にボクもJRで通えばいいものを親父の一言、朝のJRは不良のたまり場じゃ、で京福に乗る羽目になった。そうでなければ片道五十分の独り旅、運賃七百二十円也、を撰ぶはずもない。

 不良よりぃおっかないのは eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(アンタ),親父)やが、と思いつつボクは溜め息をついた。そしてCDウォークマンのボリュームを上げる。それでも呼吸は聞こえてくる。

 独りなのは電車だけではない。高校でも独りなのだ。

 高志高校は毎年東大に生徒を十人近く送りだしている福井県きっての進学校で、各学年に普通科十一クラス理数科一クラスの全生徒数千五百余りの高校、一クラスが約四十人で編成される。しかし、ボクの出身校芦原中学校の生徒は各学年の内五人にも満たず、そのため同郷の友人は少ない。同じクラスに同郷人がいるのは極めて稀なのだ。福大付属、藤島中、清和中学など福井市の中学校出身生徒が四百人以上を占めていて教室で徒党を組んでいるのに、一方ボクは少数派、肩身が狭かった。中学時代は多少人気者であったと自認していたボクもゼロからの出発に心底戸惑いを覚えていた。

 孤独の原因は出身中学校だけではない。ボクは高校デビューに失敗したのだ。

 高志校入学初日、十二組の席順は出席名簿順に並べられていた。ボクらはその席に従い座ったのだが、何たる不運、ボクの周りの野郎どもはどうしようもなくチョロイ奴、陰気な連中だった。さっさとショボい奴等に気付けばいいものをボクは席が近いよしみ、デビューに向けたフレンドリーさを満面に仲良しになってしまった。ボクは「なんやろう? ちっとこいつらおかしいな」と首をかしげながらも休み時間昼休み、あげく休日に映画を見に行ったりしてしまう有り様。察したときには時すでに遅くボクはショボくれ集団のリーダー格に収まっていた。まあ、ショボくてもなんとかなるやろ、と高をくくっていたのが三途の川で、十二組の支配者階級の川田裕之グループに「沢村はショボい」のレッテルを貼られたらしく、入学当初は気安く話しかけてくれた女性陣からも疎まれている感じがする。結局、こいつらを捨てればいいんやろが、とショボくれどもから離れたところ、それに伴う孤独。ショボくれどもからさえ見放された気がして毎日の日々がやるせない。

 ふと顔を上げれば、乗車口付近の坂井農業高校の生徒がボクを睨んでいた。

 ガンを飛ばして、さあ因縁、というやつで、前髪を垂らした耳ピアスの相手、ダークグリーンのブレザーの下はモンペのようなボンタンを履いている。

 あっらあ、参っつんたげ。

 焦るも寂しさからのいらつきか、意地悪な好奇心がムクムク首をもたげてきた。

 ボクは長ランのポケットに(単に、身長が高い割に痩せているボクの体型に合わせた学生服を特注した結果、長ランになったという代物)、両手を突っ込み眉を顰めて睨み返す。すると相手も顔全体を歪めた複雑な表情、首をのばした亀のように歩み寄ってきた。ボクも彼を見上げながら目線は見下すという怪奇な視線でウォークマンのボリュームを上げる。何故か音漏れを心配した。曲はストーンズのブラウンシュガー。

 さて、どこでハッタリをかますべきかと考えた途端、

「おい、やめろま」

 と別の男の声。視線を亀男からそらせば、その男はボクの一つ上、芦原中学出身の坂農の学生だった。その男は亀男に耳打ちすると亀男は驚いた顔でボクを見た。ボクは肩をすくめた。そしてきょろきょろ見回すと声をかけた男と頭を掻きながらそそくさと後ろの方へ行ってしまった。

 呆気ない幕切れにボクは苦笑しながら鼻を鳴らした。オバちゃんの視線が怖くてまた少しボリュームを上げた。

 家の隣の事務所前の街灯は煌々と輝いていた。街灯にはまだ季節が早いらしく飛び交う蛾カナブン羽虫はいない。

 二階からオッちゃん達がドタドタッと階段から降りてきた。

「啓ちゃん、お帰り」

「お帰りなさい」

「啓介君、お帰りなさい」

 ただいまッス、と軽く頭を下げて足を速めた。日常とはいえ少々恥ずかしいのだ。

 玄関の扉を開けてくれたカマクラのオッちゃんに、

「父ちゃんは?」

 と訊くと

「親分なら家ン中にいるよ」

 ふうん、と鼻返事をしてボクの部屋に荷物を置いて台所に向かった。台所では親父と兄貴が夕食を食べていた。おふくろはボクを待っていたらしい。ボクがテーブルにつくとご飯とみそ汁をよそう。

「最近どうやの、啓介?」

 うん?

 みそ汁をすすりながら顔あげると、 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(別に),なあも)、と答える。反抗期の余韻もあるけど、今日は本当に何もない普通の一日だったと思う。

「ちゃんと部活行ってんの?」

「なんでやし?」

「マコトちゃんのお母さんが、最近、啓ちゃん、剣道来てないって言ってたんや」

 息が詰まってみそ汁が鼻に逆流するのを堪える。

「行ってるわ。この手見てみろや」

 右手をおふくろに晒してそっと親父を盗み見た。親父は黙って口を動かしている。

「マーシーも言ってたぞ。お前、よくサボるらしいな」

 兄貴の一言にボクは舌を打った。兄貴は平然と口の中にご飯を放りこんでいる。ますます癪に障る。

 余計なことを言うな、アホ。

「だから今日は行ってきたって言ってんげな」

 口を尖らし逆ギレする。

 しかし、現実はおふくろ兄貴の言う通りでボクは部活を最近サボっている。理由は簡単で小中学校で先輩どもにいびられしごかれてきたのに、高校まで大きい顔をされねばならないのに嫌気が差しているからだ。しかも後輩いびり筆頭、兄貴の友人のマーシーがボクの高校の剣道部にいるのだ。

 全くをもって嫌な縁だと諦めて、レット・イット・ビーに訳もなく先輩面をされてかしこまる年頃ではもうないが、高校に入学して剣道部とはオサラバと思い気や剣道部以外の部に入ることに対して親父は難色を示したため否応なしにボクは剣道部に入った。でも、それも続くはずもない。だんだん足が遠のいている。

「だってマーシーさん、まだ後輩いじめやるんやぞ。訳わからんぜ。もう高校やっていうのに」

「マーシー君はそんなことせんて。礼儀正しい子やが。それは啓介を思ってのことやろ」

 じゃあ、オレを思ってマウントポジションで顔を殴るんか?防具着用とて結構きくんやぞ。

 鼻をひくつかせるとおふくろは嫌な顔をする。

「啓介。オレからマーシーに言っておくから心配すんなま。それにマーシーも三年やしもうすぐ引退じゃ。それまで我慢すればいいげ」

 気楽そうにご飯を頬張る兄貴が羨ましい。何度ボクが兄貴に訴えたことか・何度兄貴がマーシーに忠告したことか。なのに一向にマーシーの暴虐は収束しない。

 それにしてもマコトの野郎、わざわざ母ちゃんにチクリやがって。覚えとけよ。

 親父は何も言わずテレビを眺めていた。だが、親父の沈黙が何よりも怖い。無口なだけ一端爆発、怒りだしたら果てしないのだ。

 ボクの親父はヤクザの親分だ。肩書きは二代目轟会組長。アイ・ワズ・ボーン・アクロス・ザ・ハリケーンならず、ボクが生まれたときは嵐の代わりに親父が塀の中にいて、ちょうど一代目暗殺からの抗争中におふくろがボクをはらんだ。その責任のために長期の刑務所勤めをしたそうだ。

 親父が出所するまでボクと顔を合わせたのは全部ガラス越しだった。きれいとはお世辞にも言えないガラスと、その表面の満開の花火みたいに広がった放射状の粒々穴の先に親父が微笑んでいたのは覚えている。おふくろの話では人の善い看守さんのおかげで赤ん坊のボクを親父は何度か抱きかかえたらしいが残念ながら記憶にない。出所後、修羅場をくぐり抜けて北陸有数の侠客、大親分になったのだがボクの前では無口、呑気でよく家族の前で放屁するただの父親、親父でしかなかった。それでも福井では二代目轟会組長沢村義男の名は絶大でその一族に手を出す人間などほとんどいない。だから今日の京福電車のガン飛ばしあいでボクは余裕でいられたのだ。もしものときは親父の名前を出せばいい。それで手を出すようなら、高校球児とプロ野球選手の違い、相手はきっちり落とし前を付けさせられるのだろう。卑怯かもしれない。だがこれが処世術だ。

 夕食を終えて風呂に入りテレビを見て自室に戻る。無論、戻っても勉強などせず漫画を読む。物寂しくなってベッドの下を探ってもお気に入りのエロ本がない。また、兄貴かよ、と顔を顰めてエロ本をチェックすればボクのお気に入りどころか、兄貴のエロ本隠し場所からパクったエロ本までも奪られている。悔しくても兄貴の部屋まで取り返しに行く術や度胸もなく、結局想像でヌく。ネタは中学校時代の憧れの英語教師。思いの外、良い仕事をする。二発。ふと倫理の授業でかつての哲学者達は人間理性は先天的か経験的かで議論を重ねたことを思い出した。理性は知らないけど股間は先天的だとボクは直感した。




 蚊人間に襲われた。蚊人間とはモスキートマンのことである。姿は蚊というよりも巨大化した羽の無いアメンボに近い。ひょろ長い真っ黒な胴体に長細い計六本の手足が伸びている。彼は二本足で立つと人間を越える背丈になり、その足で二足歩行------いや三段跳をする。ちょん、ちょん、ちょーんと両足合わせて飛ぶのだ。ちょんの部分が一メートルくらいの距離で、ちょーんは五メートルくらいである。顔にはチョコボールのキョロちゃんのような爛々と光り輝く眼とストローみたいな細長い口が付いていて、その口で人の血を吸うのだ。

 蚊人間に血を吸われた人間は次のような三段階の変化を遂げる。(一),顔がアンパンマンのようにパンパンに膨れ上がる。(二),パンパンになった顔はポロリと胴体から落ちて放れるとナメクジのようにウネウネと地面を這いずり回る。歩行能力は優れていて階段さえもウネウネと這い上れる。(三),その後、ふわりと飛び上がり空中に浮遊する。高さは蚊人間に血を吸われる前の身体の首があった位のところである。傍から見ると風船のみたいにゆらゆらと揺れ動いて見える。

 ボクは懐かしの芦原中学校にて蚊人間に襲われた。クラスメートの木村が蚊人間に突然変身したのだ。ボクは友達と一緒に芦原町中を駆け巡り三国町との町境、波松海岸付近の断崖絶壁にて決死のロッククライミング。シルベスター・スタローン並のアクションを演じたところ、啓介、朝やよ、とおふくろの声で目が覚めた。

 トンデモない夢であった。

 リアリティに満ちた実感の残る悪夢からの帰還。震え上がる恐怖と夢であったとの安堵感。

「せめて蝶々にならなくてもいいから可愛い娘と懇ろにさせてくれよな」

 と呟きながら、かつて夢の中で自分が夢を見ていることに気付いたときに何故かカメハメ波を発射した自分、以前にマコトが言っていたように女をレイプでもしとけばよかったと後悔する。

「啓介、いい加減に起きなさい」

 自分の部屋で朦朧と妄想くすぶるボクにしびれをきらしたおふくろは襖を開けた。

「起きてるって」

 おふくろに怒鳴り返す一方、今の妄想を悟られなかったかとドギマギした。ま、思春期の恥じらいだ。だけど、おふくろはすぐに台所に戻っていった。

 兄貴がすでに朝食を食べていた。親父はまだ寝ている。学校提出書類上自営業の親父、起床は十時過ぎなのだ。おふくろも親父と朝飯を食べるから兄貴と二人での食事である。

 兄貴はボクより二つ上の高校三年生。高志校と並ぶ進学校、藤島高校に通っている。二月には受験を控えているとはいえ、気楽な性格に加えて生徒会長をも務めた実績、推薦で私大に行くつもりらしい。

 学校推薦なんてうらやましい話だけど、いまだ高一のボクには受験など到底先の話で関係のないことだし生徒会に滑りこむ気もない。もちろん、親父おふくろがボクの進路を心配しているのはわからぬことでもない。親父の因果な稼業、ヤクザ者の息子が大学に進学するのは珍しいそうだ。けれども、親父はボクら兄弟に跡目を絶対継がせないと宣言している。当然、この世界にボクらを足も踏み込ませない手前、全うな職業につくことを望んでいる。だから噂では兄貴とボクが福井県指折りの進学校に入学したこと(福井県人のエリートコース)を自慢にしているらしい。

 蚊人間からの必死の逃亡で食欲もあるはずがない。漫然と橋を動かしていると今日が球技大会であることを思い出した。

 学校の趣旨はよくわからないが今日は一日中授業がなくボールと戯れるのだ。

「母ちゃん、オレ、今日学校行かんわ」

「なんでやの?」

「今日、球技大会なんじゃ」

 おふくろは弁当箱を包む手を止めて振り返った。おふくろは eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(スッピン),素面)で親父が起きるまで化粧はしない。

「今日、一個も授業ないんじゃ」

「でも学校行くんやし先生も出席を取るんやろ?」

 曖昧に首を傾けると兄貴が、出席は成績表に響くんやぞ、と涙が流れるほどのナイス・フォロー。

「成績表が悪かったらいい大学受からんようになるやよ。そやったら行かなあかんやろが。困るのは後からやし行っときねの」

 ボクの目の前におふくろは弁当を突き出した。

「オレは推薦、別に狙ってないんじゃ。それに成績表ぐらいで大学が受験生を落とすことないわ。成績表なんかで判断されてるんやったら浪人生みんな落ちるやろげ」

 頬を膨らませて兄貴を睨めば兄貴は肩をすくめて、平然とおふくろに空になった飯茶わんを手渡した。

「関係ないやろ、啓介。屁理屈ばっかこねて・・・・・・。アンタも三年生なったら推薦受けるかも知れん。いいから行きなさい。せっかくお母さん、お弁当作ったんやし」

 だって行きたないもんは行きたないんやって、と言い返そうとするも親父が小便起床らしくジロリとボクに視線を置く。

「なんや、どうしたんや?」

 なあもないよ、父ちゃん、ボクが答えれば親父は放屁一発、トイレへと消えていった。寝起きだろうがお昼寝中だろうが親父はいつも迫力があっておっかない。その上、ボクの筋の通った屁理屈にも耳を向けない。

「学校、行ったほうがいいよ。父ちゃん、怒るやろう」

 致し方なし。ボクは、わかった、とご飯にお茶をぶっかけて口に放り込んだ。

 球技大会。なんて嫌な響きなのだろう。これが武道大会ならば幾分マシなのだが・・・・・・。

 ボクは運動が苦手ではない。むしろ平均的男子よりは得意だと思う。実際、中学ではそれなりに剣道が強かったし陸上も速かった。だけど得意なのはあくまで単純な陸上競技や柔道、剣道のような格闘技に限られている。球技といったボールスポーツはすこぶる苦手なのだ。

 それが今日、学校はボールの祭典である。全く目も当てられやしない。人前で恥をかくのはまっぴら御免だ。

 無論、ボーッとやり過ごせばいいのかもしれない。でも一番の理由は球技への苦手意識だけではない。一緒に競技をするメンバーに問題があるのだ。

 高志高校の球技大会の種目は男子部門、女子部門に別れていて、男子は野球、バスケットボール、バレー、サッカーの四種目、女子はソフトボール、バレー、バスケットボールの三種目である。そしてそのそれぞれに各クラスから種目ごとにチームを出さなければならない(忌忌しいことに高志高校球技大会規約にクラスの生徒全員の参加が義務づけられている)。しかし全競技にチームを送る必要はなくて希望者があれば同じ競技に何チームを出しても良いことになっている。つまりクラスによってはある種目に一チームも登録されていないことも起こりうるのだ。

 この種目分け並びにチーム編成は二週間前のホームルームで決められたのだが、その時のボクは興味があるわけでもなし、机にうつぶして眠りこけていた。赤ちゃんなら死に至るかもしれない体勢だが机をよだれで汚すか先生にはたかれるくらいしか害はない。

 気持ちが悪くなるほどボクは熟睡していた。

 目が覚めたらとっくに放課後。夕陽が差した教室の中で黒板を見やればいつの間にかボクはバレーボールチームに入っていた。

 はあ?と独り声を上げて、

「なんでオレがバレーなんじゃ?」

 呟くと隣の席の結構可愛い女の子、村木薫さんが教えてくれた。

「それね、吉田君が人数いないからって沢村君を入れつんたのよ」

 おぅっと驚きバレーのメンバーを確認したところ、吉田を筆頭とするショボ軍団勢ぞろいではないか。

「何かね、最初はバレーはやらないってなってたんやけど、吉田君がどうしてもバレーをやりたいって言ってやることになったんや。それで人数が足りなくなってバスケのチームの補欠だった沢村君もバレーに決まっつんたのよ」

 もしやまだオレを仲間だと思ってんのかよ。勘弁してくれよ。

 残りのバスケット、サッカーは川田グループなどのベリー・クール集団。起きてれば良かった、悔やんだのだが後の祭りのうつぶせ死。

「これってもう変更できんのけ?」

「うーん、体育委員がメンバー表を球技大会運営本部に提出するって言ってたから無理なんじゃないんかなあ」

 村木さんはショートカットの髪をサラサラ揺らしながら小首をかしげた。普段なら可愛い村木さんとの会話だけでボクの気分は盛り上がるだろうがそれどころではない。ボクは急いで吉田を捕まえると問いただした。

「どうしてオレがバレーなんじゃ?」

 指紋で曇ったレンズ、脂顔をテカらせながら吉田が言うには、

「だってお前、寝てたやろ。それに補欠は寂しそうやで入れてやったんじゃ」

 吉田なんかに哀れまれていたのか。そう思うと異様に腹立たしく同時に情けなくなった。ボクにはこんな汚いショボくれた奴しか仲良くなれないのか。忌避される深海グロテスク魚集団の一匹、沢村啓介。ってことは彼女なんてできそうにもない。

 物思いに沈むボクに、

「明日から練習やぞ。沢村絶対来いよな」

 もちろん深海よりも陸上を好むボクが練習に行くはずもない。以後吉田に、お前、やる気あるんか?と訊かれても、ないわ、アホ、と答え切り抜けてきたが、気が付けば大会当日。学校をサボることにも失敗してしまった。昨日から頭痛がするなどの仮病を根回し、画策しなかったことを残念に思う。

 朝のホームルームでは担任の組頭女教師、全身をジャージに纏った気合いの入れよう。みんなの表情も今日のゲームへの張り切りよう、顕に生き生きとしている。欠席者一人もなく、「みんな、がんばってね。優勝したらアイスをおごってあげるわ」の組頭先生の一言で湧く喚声。されどボクは気持ち盛り下がることこの上なし。

 ショボくれ集団&ボクの試合が始まるまでまだ二時間。こうなったらさっさと終わらせるのが肝要と腹に決めるとボクはみんなと一緒にサッカーチームを応援に向かった。興味はないけどみんなから浮いてしまうのも嫌だ。

 女性陣の黄色い声援が飛ぶ中、大声で応援するのも微妙に恥ずかしい。少年ジャンプは愛読しているけどその友情努力正義のジャンプ精神を実践するのは照れ臭い。

 おお、ああ、とかムグムゴ唸っているとたまたま隣にいた川田裕之が話しかけてきた。

「沢村、お前、何出んのよ?」

 最近のボクはショボくれ軍団の一員を脱し一匹狼的存在になっていた。以前のように疎まれようこともなく、気軽ではないにしろ一言二言、言葉を交わすようになっていた。それでも川田には緊張を感じる。

「バレーやけど」

 ふうん、川田が頷いた。ボクの握りしめた拳が汗ばんでいてぬるぬるしている。微妙に上ずったボクの声色に、こいつ、オレにビビッてんのか?と思われているようで尚更止めどなく手の平の汗は滲み出た。

「なんか知らんけど吉田に入れられたんや」

 言い訳がましく付け足せばますます弁解している気がした。

 川田はそんなボクを尻目に、

「まあな、沢村も大変やな。お前も始めはバスケにやったんやけどな」

 ホッとした。川田には悪く思われていない。それどころか深海に無理やり引き込まれたボクを同情しているようにも見える。川田に嫌われていない。そう考えただけでうれしい。

 この試合の後半残り五分、ボクのクラスのスポーツマン、福島の豪快なボレーシュートで幕を閉じた。結果は一対ゼロの勝利。クラスメートの勝利は嬉しくないこともない。が、福島のボレーシュートの瞬間、女子の喚声は一際甲高く嫉妬こそしないがもの悲しい気分になった。ボクの場合にはこんな声響くこともない。それよりショボくれ集団の応援に一体どの女が訪れよう。

 むなしくなったボクは教室に戻ると教室には誰もいなかった。黒板には組頭先生の書いた「みんな!頑張れ!」と赤チョークが踊っている。

 頑張るって何に頑張るんやし? 自問自答しても一生懸命バレーをプレイすることには結論づけたくない。頑張れねえよ、と呟いてみても益々気が晴れない。だからといってこのまま家に帰る勇気もなかった。第一、今日に限って正門と裏門に先生が見張り番をしている。

 窓際に寄ると外のグラウンドでは他のクラスが試合をしている。教室にいるボクの耳にまで劈く嬌声にムカついてCDウォークマン片手に床にへたり込むと壁に寄りかかった。

 ボリュームを最大にしてかける曲はストーンズのペイント・イット・ブラック。一曲演奏にしてリピートにする。ブライアン・ジョーンズのシタールから響き始まるこの曲は題名が示すように「この世の全ての美しいものをオレはまとも見ることができない。だから全部黒く塗りつぶしてやる」というパンクな歌。ミック・ジャガーの声がボクの心を代弁していた。全ての美しいものだけじゃない。全部を全部、真っ黒に塗り替えたかった。

 ボクは目を瞑って口遊んだ。

 全部、真っ黒になっちまえばいいんじゃ、アホンダラ!

 ヤケクソになって自暴自棄の寸前、ミックのシャウトの中に女の子の声が混じった。なんやろ、おかしいな?と瞼を開ければ女の子が立っている。

 慌ててイヤホンを外すがフルボリューム、ミックはボクの耳にではなく教室で叫び出した。

「沢村君。沢村君。聞こえる?」

「ああ、聞こえているよ」

 女の子は五十嵐絵里子さんだった。村木薫さんや後藤英理香さんとつるんでいる可愛い女の子グループのリーダー、女版川田と言ったところでクラスの女性陣のリーダー格でもある。

 その五十嵐さんが今ボクに喋りかけている。おそらく初めて口を訊いたのではないかと思う。しかも彼女は半袖ブルマー、前かがみにになった姿勢に肩まで届く髪はシャギー調、組んだ両手のせいで胸元の谷間が激しく盛り上がる。ボクの胸も激しく動揺した。

「何?」

「あのね。啓介君はいつ試合に出るの?確かバレーやったやろ。応援に行こうと思ってね」

「ああ、十一時頃やと思うけどな」

 焦りを隠して耳を引っ張ったり眉間をもんだりとにかく落ち着かない。五十嵐さんはふふっと悪戯っぽく微笑んだ。

「応援行くわ。頑張って」

「ああ」

 首を縦に振って、アリガト、と言うと五十嵐さんは颯爽と背を向けて歩いていった。ボクは息を飲んで右左と揺れるお尻を見据えていた。生唾を飲み込んで魅入ってはいたが臆すると股間が不元気になるのは本当らしい。ノーマルのままだった。

 教室を出る前、急に彼女のお尻は振り返った。すぐさま視線を天井に移して苦笑いする。移した後で、なんで天井やねん、と自分ツッコミ。

「啓介君、今聞いてたのストーンズやろ?」

 ボクが眉をしかめて口を半開きにすると、

「CD。そのCDストーンズやろ」

 オオ、ジーザス・クライスト・スーパースター。ホントにアンタ、いたんやなあ。

 一遍に真っ黒気分が吹き飛んだ。ベリークール。まさしく彼女は運命の女神。嵐の雲に光が差した。全ての全てが輝いて見える。B・Zの歌に太陽のKAMACHIという曲があったが五十嵐さんこそ太陽の小町エンジェル!しかも名字ではなく名前でボクを呼んでくれた。ボクは吉田の名前さえ覚えていないのに彼女はボクの名前を知っている。

 うきうき小躍りしたくてたまらない。

 母ちゃん、アンタの言う通りじゃ。やっぱ学校行ってよかったわ。

 とりあえず芦原方向に感謝を捧げた。改めてウォークマンに耳を澄ませど一向に耳に届かない。矢にも止まらずボクは川田の応援に出掛けた。

 ボクのクラス十二組の試合自体は川田のバスケチームのベスト4が最高でボクのチームは予選落ち。応援に来てくれた五十嵐さんにはいいところ見せられなかったけど彼女と話せただけで十分だった。




 それにしても今までどうやって友達を作ってきたのだろう?

 ボクは友達の作り方を忘れてしまった。そもそも意識をしたことはなかった。気が付いたらできていたという感じだった。

 思春期を迎えて保健体育では自我の形成真っ最中ということらしいが、こんなに面倒になるのなら自我の形成をやめてしまいたい。

 人に話しかけるたびに緊張するのは怠い。

 中学のときなら自然だった。手さえ握れなかったが彼女もいた。だけど今はそれどころではない。なんというか、ボクの自我とは別の完全な他者の存在が出現したのだ。

 ボクの心内成長と同時に時間はどんどん走りすぎていって、ボクの疾風怒涛の時代の終了を待つこともなくあっという間に学生服も冬服から夏服へと変わってしまっていた。

 一学期も残すこと後二週間である。ベッタリとくっつく半袖シャツが鬱陶しくさっぱり気持ち良くない。長ランを脱いだ今、ズボンはストンと落ちる真面目なノータック。中学生とは違い膝がテカテカ光っていないのがせめてもの救いだ。

 そもそもボクは夏服よりも冬服が好きなのだ。なぜなら冬服には肩パットがあって見掛け的にたくましくなる。腕は太くなるのに胸筋腹筋がみすぼらしいままのアンバランスな剣道体型のボクは夏服だと肩幅狭くひ弱に移るのだ。それに長ランを着たほうが精神的にも引き締まる。

 通気性の悪いオールバックのもみ上げを引っ張り玩びながら考えることはただ一つ。五十嵐さんのことだ。月一度の席替えのたびに前日から、イエス・キリスト、ブッダ、愛染明王、シバ、キューピッド、知っているだけの神様仏様に念入りに祈願しているのだけれどもちっとも叶えてくれやしない。

 球技大会から一月以上たっているのに話せても二日に一回の挨拶程度。想いは募る一方で、ボクに気があるのでは、と勘違いしたりしているのだが、時々彼女の視線がボクにあるような気がして落ち着かない。ボクは彼女の出身校を調べたり誕生日占いでボクとの相性に一喜一憂したりしている毎日。今では彼女をネタにヌかないようにするのがボクから彼女へのせめてもの強迫観念的なマナー。

 球技大会以降吉田集団とは完全に縁切りをしたと考えられているらしく気安くみんなと話すことができるのだがそれでも所属するグループはない。相変わらずボクは一匹狼のままだ。

 毎日の昼休み、前黒板下の壇上を椅子に、腰掛ける勝木明日香さん------ボクは彼女の披露する下着をとくと目に焼き付けたいが、スカートから一直線、後ろ座席を独占するのが川田グループであって、川田と一緒に昼飯を食うこともできず、さりとてその間に位置しようとも勝木さんから近すぎて不自然すぎる。と日々性器崇拝を行いたい一心であった。

 結局、遠く股を開いた勝木さんを見やっては五十嵐さんに思いふけった。まさしく頭五十嵐股間勝木である。できれば入り口近くで村木さんと談笑する五十嵐さんを見つめ続けたい。情けなくはあるけど眺めるだけで十分お腹一杯。話すなんてもっての外。今は今で悪くなかった。

 だがそんな日々もつかの間、すぐに夏休みになる。

 あーあ、と溜め息が口から漏れた。

 思い起こせばクラスの派閥状況。女子のグループは四つ。ランク順に五十嵐絵里子さん、村木さんの可愛い女の子のグループ。このグループがボクのクラスの女子を率いている。次に勝木明日香さんら少しヤンキーの入ったグループ。続いて普通の子会、ブス陰気連合軍になる。

 男も同じく四つで川田が率いるグループ、スポーツマングループ、普通の男グループ、ショボくれ男グループ。男達のグループは面白いことに上位三つでグループ連邦制になっていてもしものときは大統領川田の号令で動く。

 小学校、中学校から派閥の問題はあって、特に女子グループは派閥内抗争勃発でランク下の派閥へと下がったり、派閥間交流は皆無だったりするのだが、男の場合、派閥は基本的にフレクシブルで連邦制に則って派閥間の交流は盛んである。それでも滅多にないが男達は最下層の男あるいは派閥から都落ちになった男にだけ牙をむく。もちろん、標的になれば女子の派閥降格よりも無残で惨めになる。場合によればいじめになるかもしれない。小中時代にボクも二,三度標的になったことがあるが、その都度滑稽を演じてみんなから面白い奴と思われるよう苦心したり、より上位の派閥の長に近づいたりしてきた(連邦制といっても最強派閥の一言が強い)。最終的に親父の名を使って標的を脱してこともあった。

 入学当初の最下層グループ所属からの逃亡により今は一匹狼アウトロー的立場、どのグループとも会話ができるが、これでは放課後週末が退屈で仕方ない。その上、女子グループとの交流も自己ランクによって制限されている現実がある。自分より上位に位置する異性とは話ができない青春の暗黙のカースト制。やはりどっかに入るべきなのかもしれない。

 だが、一学期末となると身分制度も定着していて中々入り込む隙などない。身分崩壊の大地震でも勃発しなくては実現できそうにない。

 結局、人間は独りなのだよ。

 哲学者的結論を自分に言い聞かせて、独りぼっちでトイレに向かうと大専用個室から漏れでる紫の煙。

 また、隠れて吸ってんのけ。

 鼻で笑いながら小便をした。一個室から三〜四人の気配が漂う。気配というより個室に密集した男の熱気だ。

 どうせ、またあいつらやろ。

 あいつらとは二年一組理数科のヤンキーモドキ。通称モドヤンである。

 ボクの高校は前に説明したように各学年は普通科十一クラスと理数科一クラスで編成されている。カリキュラム的には普通科と理数科に大きな違いはない。しかし、受験偏差値的には普通科が理数科を多少上回っている。つまり理数科に専攻した学生とは、高志校に来たいのだが、普通科は無理なため理数科を選んだという人々なのだ。

 無論、普通科が理数科とは逆の文系専門科であれば問題ない。だが、それも二年進学時になると文系理系に別けられてしまうため理数科の存在意義など端から存在しない。

 しかも理数科クラスは伝統的に一組と決まっており、クラスバッチだけで普通科理数科がわかるのだ。当然、そんな理数科には普通科に対するコンプレックスを持ったひねくれ者が多く、自然とヤンキー化する。

 一年の一組から九組までは一階フロアー、十組から十二組、二年一組から六組までは二階同フロアーであるため、ボクらは二年生と一緒にトイレを共用している。共用するのは構わない。だけど進学校の落ちこぼれヤンキーを相手にするのはまっぴらだ。

 ボクの尿が終わると同時に個室のドアが開いた。ぞろぞろと微妙なヤンキースーツに身を包んだ二年ヤンキー気取りが出てきた。その数五人。よく入れたもんだな。と口元を歪めた。

「おい。今、お前、笑ったやろ」

 手を洗い際に後ろから声をかけられた。鏡越しで見るモドヤン。どっから見てもスタイルは微妙で、校内でだけ威張っていて校外では委縮しているのだろう。

 お前らよくそんな中途半端にできるんやな。

 自宅に戻れば、というより幼いころから本物に接してきたボクにとってスタイルだけの空威張りは見ているだけで苦々しく苛立たしい。と頭では平然としていても背中ではたらりと冷や汗が一筋落ちた。相手は五人、ハッタリの心構え準備練習もしていない。

 これはやばえ、錯綜して、

「いえ、何でもないッスわ」

 急いでトイレを後にした。トイレから聞こえる笑い声に、あいつらも刃向かうなんて予想もしていないだろうしビビらしておけば良かったと悔やんだ。

 教室に戻ると川田グループの小橋が川田らにバカにされていた。

「小橋、もう止めるんか?全然、やってないやろ。まだまだ昼休みあるげ。もっとやろうぜ。それにお前脱けたら人数足らんようなるやろ」

「だってもう金ないんやもん。ほとんどお前が勝っつんてるし」

「って、昨日はお前、大勝ちしてたが。そんなの卑怯やぞ」

 どうやら賭けポーカーのことらしい。

 川田グループは教室で賭けトランプに頭をフル回転させスポーツグループは体育館でバスケに汗を流し普通グループは雑談を楽しみショボくれは将棋に没頭するのが昼休みの定例となっている。

 小橋は半泣きになって教室から逃げていった。きっと体育館でスポーツグループに合流するのだろう。

 残って賭けポーカーに興じる面子は川田と山本。最有力派閥の川田グループ、メンバーは川田、山本、小橋の三人で意外に少ない。

「そうや。沢村、お前、ポーカーやらんか?金賭けてるけどそんなに一杯賭けんからお前もやろうぜ」

 二人でポーカーは寂しいようで、突然、ボクは誘われた。

「ええよ、別に」

 断る理由なんかない。暇をしていたボクだ。早速、小橋のいた席に腰を下ろした。

 賭けポーカーのルールは単純、一回チェンジでジョーカーなし。参加料を払い持ち札が決まったらお金を賭ける。最大賭け金決定後、強い役の人間が勝利する。自信がなければ勝負を下りてもよいしハッタリをかましてもいい。賭け金に上限はないがそこは学生、一回の参加料十円で大体二百円で勝負は決まる。

 配られたカードはクィーンのワンペア、チェンジ後スリーカードに変わる。

「五十円で勝負」

 真剣な表情の川田。眉間に皴が寄っていて口元は真っ直ぐ一文字。

「オレは百円」

 にやにや山本。目尻が下がっている。これが山本のポーカーフェイスか。

「勝負」

 ボクは左頬を舌で突き回し目を細めて呟いた。

 二人ともレイズをしない。

 カードを見せあえば川田はキングのワンペア、山本は三のワンペアだ。ボクの勝利、二百二十円の儲けだ。

「なんじゃ。沢村スリーカードか。負けつんたげ」

 川田は首をコキコキ鳴らしながら小銭をボクに手渡した。ボクは曖昧に頷くと黙って受け取る。

 それから何ゲームか続いて山本の一人負け状態になった。

 博徒だった親父の血らしい。ボクは賭けゲームで大負けはしない。役作りがうまいのでもなく人の心理を読めるのでもない。引き際を知っているのだ。親父はボクの素質を知っているのか、ギャンブルは絶対するな、とボクに戒めている。ギャンブルは胴元がもうかる仕組みになっている。いくら強くてもいつか負けるのだ。

 昼休み終了五分前、暗黙的に最後のゲームとなった。

 ボクのカードは------終了間際の幸運か------ハートのフラッシュ。ぐっと顔がほころぶのをぐっと堪えるために唇を口の中にしまい込む。

「七十円や」

 山本の顔は変わらずにやついている。当然、負けを取り戻そうと勝負を賭けているはずである。

「百二十円にしとくわ」

 ボクはライズする。鼻の頭に汗を右腕で拭った。

「二百円」

 川田がぼそりと囁くように言った。

 負けるわけにはイカン。もう一度ボクは鼻を拭うと、先に山本が三百円に上乗せした。これで勝負すれば五百二十円獲得。駅で天玉そばが食えるげ、と皮算用する。

「沢村、下りるんか?」

 下りるはずもない。勝負、それどころか欲の皮が突っ張ってきた。もう少しレイズするのも悪くない。

「いや、五百円や。まあ、最後の勝負ってやつやろ。やってみんとわからんしな」

 瞬間、山本の目がつり上がり顔がこわばった。

「おい、沢村、上げ過ぎやろ。三百でいいやろ」

 山本は自分の役に自信がないらしい。裏返しにカードを机に置くとトントコ指で机を弾いている。

「ははっ。面白いげ。山本、お前も下りたきゃ下りればいいやろ。それに借金もありやし第一お前ん家金持ちやろが」

 頬を緩めた川田はそう言うと、千円でどうや、とレイズ。

「そんなんやってられっけや。オレは下りるぞ」

「でも五百円は払えよな。オレがレイズしてから下りたんやで沢村が賭けた分まで払えま」

 ちょっと待てま、と山本が頬を膨らませるが川田とボクはにやにや笑うだけ。頭を掻きむしりながら山本は五百円を二枚、机に放った。硬貨は金属音を響かせ床に転がった。誰も拾わない硬貨に山本はよけい苛立って舌打ちながら自ら机の下の硬貨に腰をかがめた。

 こうなったからには負けるわけにはいかない。意地が出てきた。川田とは仲よくなりたいが媚を売る気はない。それにこの意地の張り合い、思いの外楽しい。

「じゃ、川田、オレは千二百円」

「千五百円」

「千七百円」

 口元を歪ませあいながらの金の掛け合い、金が問題ではなくて冗談の応酬のように感じた。お互い歯を見せながらの最終的な金額、三千円。普通、高校生の一ヶ月の小遣いが五千円〜八千円だから昼休みの賭けポーカーにしてはかなりの金額だ。だがボクは負けるとは思わなかった。

 川田はフルハウスだった。

 川田のカードを見た途端、しらふに戻った。三千円、三千円、三千円・・・・・・がグルグル回って、あかん、オレ、今金ないって、と気付いて想像上の親父の「アホ、だからお前はギャンブルするなっと言ったんじゃ」という怒鳴り声がこだまする。

 うわぁーオレ滅茶苦茶アホやげ、川田怒ったらどうしよ、と思い恐る恐る伏し目がちに、

「悪ぃ、川田。今、オレ金ないんやって。スマンけど明日でもいいけ」

 川田は渋い表情を浮かべた。

「なんや、金ないんか。しょうがねえなあ。・・・・・・じゃ、お前な、明日も一緒にポーカーやろうぜ。それでもしオレが三千円以上の大負けしたらお前が払え。どうじゃ?これでいいやろ」

 それからボクは川田の敗北保険係として毎日昼休み川田達とポーカーをするようになった。気が付いたら腐るように余っていた暇は姿を見せなくなった。いつの間にか川田グループに一員になった。そしてボクの負けた三千円は有耶無耶になっていた。




 うだるような暑さ、例年にない記録的な猛暑に五十嵐さんとの白昼夢もままならない。

 芦原祭りにでも行ってきたら?のおふくろの言葉を無視してテレビがある兄貴の部屋に籠りクーラーガンガン、スーパーファミコンソフト『真・女神転生IF』にうつつを抜かしていた。難しすぎるダンジョン、手強い敵に辟易して悪魔合体する気合いすら起きない。

 これはアカンよなあ。

 立ち止まると五十嵐さんの笑顔が浮かんできて股間がむずむずしてくる。兄貴は図書館で勉強中、夕方まで帰ってこない。一発ヌくかと兄貴のエロ本を探すが隠し場所の本棚辞書の裏はもぬけの殻。

 何処に行きしや、兄貴のエロ本、うろうろ兄貴の部屋を彷徨ったところ古典中の古典、ベッドの下に眠っていた。

「いよっと」

 掛け声とともにベッドの下を覗いたところ、突然襖が開いておふくろが入ってきた。どうしておふくろという人間はこうも突然現れるものなのだろう。しかも決まってボクのばつが悪いときに。毎度のことながら不思議で仕方がない。

「なにしてんや?啓介」

「腕立て伏せに決まってんやろが」

 怒鳴って腕立て伏せを始めてもしらじらしくて恥ずかしい。ものすごい勢いで身体を上下運動させながらおふくろの溜め息を耳にした。何だか腹が立ってきて、はよ閉めろま、と睨めばおふくろの一言。

「アンタ、明日から合宿あるんやってか?」

 意表に意表をつかれて自然とおふくろに土下座の体勢になった。シチュエーションが違えば女王様とその奴隷のプレイのワンシーンに見えなくもない。

 ボクはおふくろを見上げながら、そんなんないわ、と嘘をついた。

「マコトちゃんから聞いたんやけど」

 つまらんことチクリやがって、マコトの野郎、と舌打つもばれてしまってはもう遅い。その夜の夕食にて「こんな暑い中剣道するなんて正気の沙汰じゃねえよ、いいんか?可愛い息子が死ぬんやぞ。見てみ、たくさんの人間が熱中症で死んでるやんか。部活部活って別に剣道の先生なるん訳ないし勉強の方が大切やろが。オレは剣道の才能ないし練習しても意味ないんじゃ。な?行かんでいいやろ?」必死の論理的言い訳をする。

「ツベコベ言わんといいから行け。絶対に行くんやぞ。わかったか?」

 親父の一喝ににべも言えずに、はあい、と返事をした。これ以上の口答えは親父の逆鱗に触れてしまう。この年にもなって親父の鉄拳制裁を喰らう羽目にはなりたくない。

「全くお前は暇やとホント、ロクなことせんのやで・・・・・・」

 ロクなことって?もしやヌいてることかもしれん。なんや?母ちゃんが言ったんやろうか?

 狼狽えるが親父の台詞も確かなことである。夏の補習が終わってから八月に突入してすることが全くなかった。中学のころは部活があって狂ったように夏休みに竹刀を振っていたが今はそれもない。その日暮らしの一日三発である。

 合宿とはいえ合宿所は高志校だ。なんで高志校やねん、とツッコミを入れたくなるがそれは野球部、吹奏楽部といった部費もぎとりクラブとの云々もあるのだろう。とりあえず学校に宿泊するぶんだけ合宿の eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(オーラ),雰囲気)を醸し出している。

 クラブハウスの剣道部部室にはマコトがのんきな顔で稽古着に着替えていた。

 マコトはボクの顔をちらりと一瞥すると、おう、となど気抜けた挨拶をぬかす。こいつがいなければボクはクーラーの冷風を全身に浴びて優雅にカールの薄塩味でも喰らっていただろうに。

 マコトはボクの家の裏手に住む生まれたときからの腐れ縁である。保育園から高校までずっと一緒の学校だ。ボクが剣道を始めた原因も彼の父親が少年剣道倶楽部の指導員であるからで、マコトとボクは唯の幼なじみ以上に密接に剣道と関わっている。

「お前のせいで来つんたげ、アホ」

「何が?」

「お前がオレの母ちゃんにチクッたんやろが」

「何を?」

「合宿じゃ」

「知らんよ」

「アホ。オレの母ちゃん、お前に聞いたって言ってたんやぞ」

「知らんわ。俺ん家の母ちゃんがお前の母ちゃんに言ったんやろ。昨日、町内の草むしりあったやろ。そんときにでも話したんじゃねえの?」

 文句を垂れてもマコトは飄々と誤魔化す。ボクの目をそらし左下を見つめながらマコトはモゴモゴと口を動かた。

 こめかみを揉みながら小言を言い続けるも疲れてあきらめた。今更マコトに愚痴っても帰れないのだ。悔しいけど已むを得ない。マコトとは何度もケンカをしているが未だに顔を合わせられるのも腐れ縁のなせる技なのだろう。

 ボクは嫌々汗臭い稽古着に腕を通した。ひんやりとしてかび臭い。中学時代の豪傑の稽古着にはカビが生えたりキノコが生えたり、ひどいのは糸まで引いていた。ボクの稽古着はそこまでいかないが、それでもこの感触だけは十年近く剣道をしているのに全然慣れることがない。

 二人並んで道場に向う。窓から漏れてくる蝉の声が死刑場の十三階段を上るボクへのレクイエムにさえ聞こえる。

 稽古は地獄だった。

 汗で稽古着は重く冷たい。流れる汗が目にしみた。開いた窓に風はほとんど通らず、床板の上には何となくゆらゆらと陽炎が揺れている。

 汗で濡れた床に足を取られて、手先がずれて小手打ちを外せば、外された先輩マーシーは怒りメラメラ、マシンガン突きをした。マーシーの突きは防具をそれて首筋を擦った。首に擦れていく竹刀の蔓と竹の冷たい感触が走る。

 どうして剣道場の横は柔道場なのか?柔道部の連中がドッスンドッスンと受け身を取るたび畳からは埃が舞い上がり汗一杯の身体にこびりつく。汗かく柔道野郎との相乗効果、ますます道場はヒートアップする。

 こりゃ死ぬぞ。

 サボりにサボった二週間ぶりの稽古だ。身体が動くはずもない。しかも異常に暑い。意識は朦朧と南極のペンギン、どこでもドアで北極に行きたい、洪水になって道場を水浸しにしてぇ、マス大山の氷柱割り、とおかしくなってくる。

 身体を休めたら休めたで、流れてくる熱気に暑いのか寒いのか、わからない。暑寒い。暑いのに寒けが走るのだ。

 こりゃホントに死ぬわ。

 身体までおかしくなっている。ボクは死にたくない。生きている実感はないけど死ぬのは嫌だ。ボクはマーシーの目を盗んで腹痛仮病でトイレに逃げ込むと袴を脱いで個室に閉じこもった。

 真夏のトイレの個室はむっとくる独特の匂いで少しも涼しくはなかった。が、道場に較べると余程心地よいパラダイス。染みついた小便臭もはるか南国ココナッツを思い浮かばせる。同じ暑さでも道場と異なりここはリゾート。一時の楽園に全身を委ねた。

 ぐっと体を休めて eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ひときし),一頻)り楽園を満喫すると心持ち落ち着いたようだ。ここがパラダイスではなく高志校のトイレであるくらいまで思考は回復した。回復した思考は洋式の便器ではない高志校のトイレを恨んだが、それでも地獄よりはマシである。

 三十分位過ぎただろうか。呼吸もようやく整って汗で濡れた髪を後ろにかきあげた。凄まじい汗の量にムースは根こそぎ溶けて手にヌルヌルまとわりついた。

 かなわんよなあ。

 独白しながらトイレットペーパーでムースを拭っているといきなりトイレに誰かが入ってきた。ボクは一瞬に息を潜めた。

 誰かがボクの個室のドアを思いきり蹴飛ばした。

「啓介、いい加減に出てこい」

 マーシーの声だ。三年なのに偉そうに顔を出し続ける暇人。収まった汗も再び冷や汗となりどっと吹き出てきた。

「すんません。もう滅茶苦茶痛いんですよ」

「嘘つけや。このサボリマンが」

 道場に戻ればボク専用の特別稽古が用意されていた。理不尽極まりなく常軌を逸している。ボクは死すら覚悟していたと思う。無論、それ以上にマーシーの死を願っていた。

 一日目が終わったころには眩暈が止まらず足下さえも覚束なかった。これが後三日も続く。果たして生きて帰れるのだろうか?

 翌日、稽古着を羽織ると汗が乾いておらず鳥肌が立つほど冷たい。加えて初日同様の猛暑に激しさが増してのマーシーのしごき。

 意識は遠のくばかりでせめて水泳部なら涼しいのにと混濁する中、ふと道場の窓に目をやると川田と山本が手招きをしている。

 はてな?と首をかしげながら傍に行くと川田が面越しに囁いた。

「なあ、啓介。遊ぼうぜ」

「遊ぼうってもオレ合宿中やぞ」

「サボればいいげ。そんなもん。どうせやる気ないんやろ」

 こくりと首を振ればにこりと川田が笑った。

「あのな。今朝、俺ん家で家庭訪問あったんやけどな。組頭の都合でお前ん家の家庭訪問が今日の夕方になったらしいんじゃ。お前の親も了解しているから、別にお前がおらんでもいいらしいんやけどな、俺らも暇やろ? お前ん家に電話したら合宿に来てる言ってるしな。ほやで来たんじゃ」

「はあ? でももうサボれんぞ、オレ」

「もう要領悪いな。だから家庭訪問にお前がえんと困るって言えばいいやろう。家庭訪問があるのは事実やし、お前が進路について先生にいろいろ訊きたいんですってでもいえば一発じゃ」

 おお、ボクは思わず膝を打った。この素晴らしき天の助け。親父もおふくろも納得せざるをえないだろう。やはり持つべきものは友達、それも機転の働く賢い友人だ。

 早速、主将にその旨を伝えれば二つ返事でOK。暑苦しい防具稽古着を脱いで学校から脱げだした。目一杯に広がる青空に息の詰まるような圧迫感も瞬く間に吸い込まれていった。きっと親父も堀の中から出たときにはこんな感じだったのだろう。自由とはかけがいのないもの。しかも空気のように満ち足りているときには気が付かないという愛嬌者だ。

 その後、三人で行くあてもなく、お前、汗臭せえ、と二人に鼻を摘まれながらも福井市内をブラブラしマクドナルドでたむろった。

 組頭先生が家に訪れる頃合い、ボクらは別れた。

 川田にはホントに世話になった。きっと雪山遭難時のセントバーナード犬クラスの恩人である。

 体重は二日の練習だけで四キロ減っていた。




 剣道部の稽古には合宿以来一切出ていなかった。ニュースでは安藤優子アナウンサーが例年にない記録的な猛暑とおっしゃっているのだ。記録的な猛暑にわざわざ付き合っているのは熱血高校球児と阿呆だけだ。

 親父にボクの暇を悟られてはならない、と暇者同士、ボクらは毎日のほとんどを遊んでいた(川田、山本は帰宅部なのだ)。暇をしているところを察しられなければ親父も気付きはしない。

 そんなある日、越前海岸鷹栖に海水浴に出向することになった。

 きっかけは山本の一言、

「そう言えば俺ら、夏休みらしいことしてないなあ」

 鷹栖ビーチは盆のクラゲ到来を目前として中々の込み合いである。といってもテレビに映る湘南海岸ほど混んではいない。イモ洗いどころか象洗いもできるだろう。男三人が寝ころぶ eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(スペース),空間)は所々にあって荷物を海の家に預けると焼けた砂に悲鳴を上げながら海に飛び込んだ。

 照りつけるような太陽、遠く韓国方向には大きな入道雲がムクムクと膨らんでボクらを威圧する。空は青くはるかに高かった。

 三人ともできるだけ沖まで泳ぎ人の消えた海で浮輪を取りあったり、海水パンツを脱がしあったり、水中眼鏡を外しあったりを繰り広げむさくるしくはしゃいだ。今のボクらには女の子と二人きりでくつろぐという概念はない。ひたすら子供のように遊ぶことに熱中する。

 その後、足が届く深さまで引き返し海中水着鑑賞をする。この辺が幼さと大人心が微妙に邂逅しあう悲しい男の性なのだろう。ホオジロザメのようにゆっくりと迫ってじっくりと眺める。面白いことに頭では興奮していても肉体的には少しもリビドーらないのだ。

 突然泳ぎだした女に顔面を蹴られたりジョーズに驚いた女に怪訝な顔をされたりした結果、波打ち際に戯れて両生類ごっこに移行した。ただ陸を見つめるイモリのごとくひたすら日焼けをする女達を凝視するのだ。

「川田、あの女、どうやろ?」

「あかん。あれは胸パットじゃ。山本、見掛けで騙されるな。本質を捉えなあかん。水着の奥まで見通すんじゃ」

「川田、あそこの eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(おなご),女子)はいかがでしょう?」

「うん?おお、さすが啓介、お目が高いなあ。あの下乳、惑うことなく eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ホンモン),本物)じゃ。あそこまでやったらパットなんかに頼らんでも十分見せつけられる。後、あっちにいる胸が透けてる女も見逃すなま。白ってのは結構、透けて見えっから」

「どこどこ?」

「あそこ、あそこ。あのブスの横」

「おお、すげぇ。すげえな。ホントに薄く見えるんやな」

 評論家もしくはバードウォッチャーばりに目と口を酷使して時には激論、時には賞賛をする。なぜか女の子を前にするとしどろもどろするボクでもこういうときは饒舌になる。まあ、口だけなのだ。

 ひとしきりの議論により山本が足フェチ、川田が二の腕、ボクが乳フェチということが判明した。お互いの嗜好が衝突なく明らかになると一層に親近感が湧くから不思議なものだ。親切心を全快にして互いのフェチを満たす女性を探し教えあう。

 両生類を堪能満足して女にも飽きると浜辺に寝転がった。

 すると山本が漫画『行け!稲中卓球部』を持ち出し読み始めた。ポテトチップスを川田と頬張りながら山本を脇から覗くとシーンはダメ男軍団の海水浴場面。情けないことにボクらの行動がダメ男とまるっきり一緒であった。笑うに笑えない悔しさ反面と責任転嫁反面に、お前がこんなもん読んでるから悪いんじゃあ、と砂に埋没させる。

 人見知りなボク、意外とシャイな川田、小心者の山本、ボクらにはナンパなどできるはずもない。他のクラスでは案外カップルがいるらしいが全くボクらは蚊帳の外であった。少なくともボクは夢に描くだけで eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ドリーム・カムズ・トゥルー),実現する意志)などない。

 山本を放置し砂を払い落とすと海の家で休んだ。ここには防具もなければマーシーもいない。剣道部の合宿からは考えられない楽しい気分にうれしくなる。安穏としていられるのだ。

 何気なく隣のアベックのいちゃつきを見入っていると、ボクに感付いているのか、これ見よがしに肩を引き寄せて抱きすくめている。ほぼ全裸の男女の大接近、きっと夜への予行演習なのだろうか。公衆道徳とか羞恥心といって以上に、女性と肌を合わせる、想像しただけでゾクリときそうな行為に鳥肌が立った。理由はわからない。でも恐怖らしきものがある。

 一方で訳もなく切なくなった。学校が終わって以来、五十嵐さんとは会っていない。別に肩を抱きたいわけではなかった。いや、そんな次元ですらないのだ。単純な憧れなのかもしれない。確かに頭、理性でも、心、感情でも五十嵐さんを恋い焦がれている。だけど肉体とは直結していないのだ。プラトンのイデア界での魂と魂の崇高な恋愛関係などではない。ただ彼女の肉体が透けて見えるというか、この世には存在していない気がするのだ。つまりセックスとは無縁なのだ。

 そんなボクが五十嵐さんと会ったとて何もできるはずもなかった。だけどそれでも会いたい。

「おい、啓介。何溜め息ついてんじゃ?」

 どうやら無意識に溜め息をついていたらしい。

 川田の視線に対して口元をにゅっと引き上げて笑顔を作ると、

「なあも。なんもないよ」

 ととぼけてみせた。川田は不審に思うこともなく顔向きをずらした。

「見てみ。なんか山本の周り、誰かいるぞ」

 川田の指差す方向には女の子が二〜三人いた。川田もっとも、そこは山本が埋もれる場所であった。

「まさか、山本死んだんか?」

「アホ。そんなことあるはずないやろが。顔まで埋まっつんてるわけもないし・・・・・・。なんでやろ?」

「とにかく行ってみんと」

 ボクらは顔を見合わせながら砂混じりのゴザの上を急いだ。

 女の子三人は、おお、ジーザス・クライスト、今ボクが会いたいと願っていた女の子、五十嵐さんと村木さん、上松さんだった。

 ドンドン、と心臓の孤独が速まっていく。顔さえまともに見られないのに今は水着なのだ。ボクは五十嵐さんの性的存在を実感できなかったはず・・・・・・なのだが、あのほんの一ミリ足らずの布きれの奥、ボディパーツなのに名称を叫んだだけで放送禁止となる物体が潜んでいるのだ。矛盾もコントラディクションも一度に吹き飛んだ。もはや神の存在を疑う余地はない。神は目の前の水着の奥に秘仏として鎮座ましているのだ。

 心底目のやり場に困った。物体をまじまじ見つめるのも問題があり、顔も不可能、だからといって胸を拝むのも失礼と呆けた顔で流し目をかましながら空を臨んだ。さんさんと照る太陽、直視するにはつらいけど五十嵐さんに視線を置くより楽だった。

「村木らも海に来てたんか?」

「うん。川田君も沢村君や山本君と来たの?」

 そうや、自然に村木さんと話せる川田がうらやましい。組んだ両腕は川田らしく堂には入っている。ボクはといえば腰に手を当てて澄ましてはいるけど、先の評論家風もどこかに消えて一言も口を利くことができない。まるで川田の背後霊のように川田の袂で興味がない風を気取り続けている。

 五十嵐さんは髪をポニーテールにまとめ水色のビキニ、村木さんは白のワンピース、上松さんは紺のワンピース。日焼けで火照った身体がもっと熱くなる。嬉しいのか楽しいのか、さっぱり理解できない。

 砂から身を起こした山本、全身砂だらけで、一回海に浸かって砂落としてこいま、と川田に言われ山本は渋々海に向かっていく。

 ボクらは一緒に海の家で昼飯を食べた。

 ボクは五十嵐さん以外とはそれなりに言葉を交わしたが肝心かなめの彼女には、ああ、うん、そうやな、とまともに会話していない。

 会話さえも難しい。川田や山本とならいくらでもできる。やれと言われれば一日中だって喋る自信がある。考える必要がない。いや、会話なんてほっておいても湧いてくるものだと信じていたのだ。人と話すことが日常生活。ならば今のボクは非日常の世界に属しているのだろうか。

 ボクはずっと床にひかれたゴザのささくれを玩んでいた。思いきりささくれの一本を引っ張るとにゅるりとい草が抜けた。それを親指に巻き付け鬱血させて紫に変色するまで見つめていた。紫指で頬に触れるとひやりと冷たく不気味な心地よさがあった。

 午後、一休みしてみんなで泳いだ。

 浮輪をビーチボールにみなしての即興のバレーもどきをする。照れてはいるけど、そしてみんなには拗ねているように見えるだろうけど、久々の再会にボクもはしゃいで飛び跳ねた。

「啓介、行ったぞ」

「ほいさ」

 上松さんのレシーブにボクはきりもみしながら突っ込む。これほどのやる気があれば球技大会のバレーボールでも予選通過はできたかもしれない。それくらい張り切っていた。

「それまた啓介」

「いよっと」

 ボクはクジラのように水から飛び上がった。五十嵐さんも浮輪目掛けて飛び込んできた。きゃっ、というような甘いというかとろけるというか、声だった気がする。

 掴みそこねた浮輪は明後日の方向へ、ボクらは水没する。水中眼鏡なしでは目がしみる。口一杯にぬるい海水が流れ込む。子供が小便をたらしているかもしれん。そう考えが浮かんだ瞬間、鈍い音と一緒に砂底に頭がめり込んだ。鼻にまで海水が達する。キーンという耳鳴りが劈く。底をすくうように砂の感触はこめかみへと移動していく。耳鳴りの中に砂を擦っていく音が混じる。眉間の奥には金属臭、鼻血が吹き出ているのか。

 慌てたボクはもがいた。右手を海面へ左手で海底を殴る。突きだした右手の甲に柔らかい感触。

 時間が止まった。

 世の中には豆腐プリン蒟蒻マシュマロゼリートコロテン水風船と柔らかいものは数多く存在し経験してきた。きっと他にも柔らかいものはあるのだろう。だけど多分似たような感じの、頭で類推できそうなものだと思う。

 だが、それは未体験の感覚だった。

 海水を含んだ水着は触覚的にザラリとした鎧のようなものではなかった。ガキのころに着ていた男の子用のスクール水着に似ている。そこから微かにほんのりと暖かさが伝わった。無抵抗の癖にして弾力が微妙にあった。豆腐とは違って崩れないのだ。意味不明だけど、右手の感触は一瞬に全神経に行き渡った。全身で胸を認識した。

 浮き上がったボクらを川田達は両手を叩いて大笑いしていた。気まずい雰囲気を予感して五十嵐さんを見やれば拳を噛むようにして笑っている。ボクは口をすぼめて混乱したが笑いが込み上げてくる。同時にむせた。笑いと咳が一緒になって不気味な痙攣をした。

「沢村君、その髪形の方がいいよ」

「そうやろか?」

 未知との接触に前髪が垂れたままだったらしい。まんじりとボクを見つめる上松さんの視線と言葉に恥ずかしくなって咳払いをする。口の中はまだ塩辛い。誤魔化すように鼻をしきりに擦った。

 五十嵐さんを横目で覗くとニコニコ微笑んでいる。そして呟いた。

「私はいつもの方が好きやよ」

 ボクはごくりと唾を飲み込んだ。まだ口の中に塩水が残っていてしょっぱかったが、今なら子供の小便を飲んでも気付かない。

「やっぱ、そやろ」

 顎に手を当て格好をつけながらもうれしい。絶対髪形を変えるもんかよ。そう心に誓った。

 時計が五時を回ると海水浴客達は帰るモードに切り替わって、空はまだ十分明るいのに人は少なくなってくる。

 存分に遊んだボクらも公共冷水シャワーを使って塩を流し、着替えて帰る準備をすると海の家の裏、駐車場に並ぶ屋台を眺めてブラブラ散歩をした。

「啓ちゃん。啓ちゃんやが」

 誰かが呼ぶ声がする。こんなところに誰かいるんけの? 訝しく思って辺りを見回す。鷹栖には家族連れやアベックに知り合いはいないはずだ。ボクの友人も親戚も鷹栖ではなく三国海岸の方を撰ぶのだ。

 もう一度、啓ちゃん、と呼ばれた。

 方向はかき氷屋さんの左隣、焼きトウモロコシ屋さんからであった。目を凝らすとカマクラのオッちゃんだった。

「なんや、啓ちゃん。海に来てたんや」

 カマクラのオッちゃんはいつものようにヒゲ面をしわくちゃにさせて笑っている。普段と変わらない------少なくともボクに対しては------人懐っこい愛嬌のある笑顔だ。

 だけどボクは困ったような感じがしてきた。ボクの芦原での日常と学校での日常が初めて接点を持ったのだ。そしてボクの芦原での日常は一般の人から見ると非日常に当たるらしいのである。

 川田や五十嵐さんに首を向ければ、二人とも目を白黒させている。

 日常と日常の交差はボクに非日常をもたらした。ボクはぎこちなくオッちゃんと口を利いた。

「オッちゃん。なんで鷹栖なんかにいんのやし?」

「人手が足りんから手伝いに来てるんや」

「毎日?」

「違うよ。今日と明日だけやよ。なんや、啓ちゃん。明日も来るんか?」

「今日だけ。暇やでの」

 空々しい会話が続いた。川田や五十嵐さんに感づかれないか。背中に刺さる視線が痛かった。

 オッちゃんは六人分、トウモロコシを手渡すと、サービスや、と

微笑んだ。だけどオッちゃんの笑みはとても恥ずかしく感じられた。

 川田に訊かれて、父ちゃんの友達や、と誤魔化したところで後ろめたさは消えなかった。川田は、ふうん、と頷いてトウモロコシをかじり始めたが、ボクにはしこりが残った。

 ボクは親父がヤクザであることを隠したことは一度もなかった。親父が極道であることはボクにとってそれ以上でもそれ以下でもないし当然のことだった。昔はそれでからかわれたこともあったが隠したことは初めてだった。もちろん、中学校まで知らない人間がいなかったこともある。だけど今日何故隠したかわからない。無意識的に隠した。恥ずかしいとまで思ってしまった。その一方で恥じた己をとがめる心もあった。全部が全部混在していてどうすることもできなかった。




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