これから

 ただ漂い、気紛れに泳ぐ。その繰り返し。そこに昼も夜もなく、明るくも、また暗くもない。そこは彼の故郷であり、そして頭の中だった。

『……』

『ネモ』新たに名を与えられた彼の身に起きた変化は、それだけ。信じた男は正しく約束を守り、彼をただ組織の擁する施設に保管した。

 そこにもまた昼も、夜もない。時折職員が、巡回するばかり。話し掛けられることもなければ、手に取って読まれることもない。

 八十年余り。ただ放置され続けた彼にとっては、孤独も退屈も今更だった。

 あの子は息災だろうか。

 時折考えることがある。それは自身に名を与えた少女の「その後」

 男は約束を守った。少なくとも彼に関することは。

 関わらなければ彼女の現状を確かめることは出来ない。しかし逆に、関わりが生まれないことが彼女が何者かに利用されていない一つの証拠にもなる。

『便りがないのが良い報せ』とはよく言ったものだ。

 便りを出すことも叶わない状態ではないことだけを願い、彼はまた身を漂わせる。

――――――――

『九鬼』

「説明させてください」

 どれ程の時間が経ったのかと思ってみれば、再び顔を合わせたのは約一月後。変わり映えもしない男を、ネモは声だけで睨む。

「私が志願したんです。ネモさん」

 少女、透瑠が声を上げた。彼は今、彼女の手中にある。

 古兵というだけはあり、彼の声には他の二人が持ち得ない凄みがある。

 しかし透瑠は声を上げた。凄みに押し出されるように弱々しく。

「これが、私に出来ることだと思ったから」

 ネモは沈黙する。言わなければならないことがあまりに多く、つかえているようなそんな沈黙だった。

『確かに、あんたには才能があるんだろう。だが、それはあんたの生き方を決めるものじゃない』

 やがてネモは張り詰めた分の空気を抜くように、訥々と言葉を並べていく。

『ましてこんなことは、そんな理由でやることじゃない』

「――それは」

 沈鬱な声で囁くネモ。

「それは、私が、女だからですか?」

 透瑠のその声は、刃物のように重く冷たい響きを伴っていた。ネモは即答する。

『あんたが未来を生きるべき人間だからだ』

 男も女も、歳も関係ない。そう強く。

『おれ達は疾うに死んでる。馬鹿どもも疾うに敗けてる。終わったことのために未来を使い潰すなんて滑稽だ』

 それはどれ程深く、彼の内に根付いているのか。ネモは澱みなく言葉を紡ぐ。

「友だちが過去に置き去りにされててもですか?」

『友?』

 透瑠の口から出た言葉は余程予想外だったのか、ネモは素頓狂な声を上げる。小さく首肯してみせる透瑠。その視線に、ほんの僅かに強められた握る手に、彼はよもやと思いながら

『おれが?』

 透瑠はまた小さく頷いた。恥ずかしくて仕方がないというように、頬どころか耳まで紅く染めて。

『……』

 ネモは困惑し言葉に窮する。そのように扱ってくれることに、ただ喜ぶことが出来なかった。しかし確かに、嬉しくもあった。

 喜悦と共に湧き立つのは鉛のように重いおもい罪悪感。その心境を言い表すことは、一言二言では納まりそうにない。

「それに、あの後すぐに寝ちゃって、まだ全部読めてないんです。だから――」

 照れ隠しか、説得か。言葉を重ねる透瑠はしかしそこまで言ったところで失速してしまう。

 俯いた彼女に代わり、九鬼が口を開いた。

「上からは、本人の意思を尊重すると」

『……』

 見たこともないネモの渋面が脳裏に浮かぶ。彼の言葉はまったく弱々しい。

『親は、何と?』

 大きく予想を出なかった九鬼の言葉を受け、ネモは再び透瑠へ声を掛ける。

「え、と……?」

 視線を逸らしやがった。

『伊富殿』

「待って違うんです。順番的に、ネモさんが先かと思って」

『おれは最後の最後でいい』

 間髪を容れぬ鋭い口調で返すネモ。そんな彼の中でまた、得体の知れない感情が蠢いた。理解したくない感情が。

『説得を手伝わせる気か。反対を押し切ってきたあんたに、おれが手を貸すと思うか』

 英雄に憧れたことなどないし、国のために死ぬことに美学も美徳も見出せない。そんな奴の背中を押す気にもなれないし、それさえもっていないなら尚更無理な話だった。

『友のため。あんたは友だちがこんな危険を侵して、喜べるか』

 何があんたをここまでさせる。

「また、一緒に飛び《およぎ》たいから……」

 口調は厳しくなり、ネモ自身望まぬ内に叱責する構図となってしまう。それは彼の本意ではない。落ち着くためにも投げ掛けた疑問に対し、透瑠は子どもじみた答えを示した。

「あの後、プールに行ったけどやっぱり泳げなくて、あのときの感覚になれなくて……」

 その口調は怯えもあるのかもしれないが、一方でむくれた子どもこようにも感じられた。

「ネモさんと一緒じゃなきゃ、まだだめなんです。それに――」

 彼女は何かに気付いたらしく、顔を分かり易くはっとさせる。

「あの日、願いごと、言い合いましたよね?私は泳げるようになりたい。それで、ネモさんは『自由になりたい』って」

『――ああ。言ったな』

 まずいと思った。ネモは語尾を濁す。

「どっちも叶ってません。契約不履行です!」

 九鬼の吹き出した声は、一瞬降りた沈黙の中に小さく響いた。

「私はネモさんを自由にしなきゃいけなくて、ネモさんは私を泳げるようにしなきゃいけません!」

 透瑠は強く宣言した。

『攻撃は禁止。おれは逃げと守りにしか力を貸さない』

 長いながい沈黙は、腕を組んで頭をひねっている姿を容易に想像させる。やがて観念したようにネモは口を開いた。

「――!はい。よろしくお願いします!」

『先ずは保護者から了承を得ること!それが出来るまでは絶対に手は貸さない』

 明るく返事をする透瑠はそして別の職員に連れられ部屋を出ていった。後には一冊の手記と九鬼が残る。

「――説得はしたんですよ」

『ああ。分かってる』

 ネモは九鬼を責めない。彼を義理堅い人間だと評価していることもあるし、組織とやらの姿勢についてもある程度信用出来るようにもなっていた。

「先ずは訓練を受けてもらいます。――他には少し周辺を気にしていただくことになるかと」

『そうか。まぁだろうよ』

 そちらについても概ね予想通り。ネモはやはり声を荒げるようなことをしなかった。

「保護者の方から活動の了承が得られれば、あなたには彼女に付いてもらうことになります」

『……そうか』

 予想はしていたが、あまり的中してほしくはなかった。僅かな沈黙にはネモのそんな感情が滲んでいた。

『――九鬼』

 礼をし立ち去ろうとする彼の背中に声が掛かる。

『……戦争なんて面倒だな』

 振り返ること暫し、ネモはため息混じりに呟いた。

「ええ。だからこそ、これはやり甲斐のある仕事です」

 その沈黙の中で彼が言い掛けた言葉について九鬼は詮索しなかった。

 そして残ったネモはまた、孤独の海を揺蕩う。

『なんでおれなんかが友だちなんだ』

 全てを呑み込む海の中で、その疑問だけが明確な形を保ったまま漂っていた。

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本とカナヅチ @udemushi

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