一章:さかなのゆめ⑩

「な――」

 一部始終を間近で見ていた鷺沢は絶句する。驚きのあまり引き鉄に掛けた指さえ固まってしまった。

 一般人の小娘が本を使った。

 これは極めて稀な事例だ。少なくとも何の訓練もなしにこれを為した人間を、鷺沢は見たことがない。自身も含めて。

 それは即ち、才能の証明に他ならない。

「――」

 九鬼は見抜いていたのだろうか。故に本をあっさりと投げて寄越したのだろうか?

「く、たばれぇぇぇぇっ‼︎」

 鷺沢の内で何かが弾け飛んだ。喉が張り裂けんばかりの怒号と共に、彼は透瑠へ向けて弾丸をぶち撒ける。

 あってはならないことだ。

 認められない。認められないことだ。

 組織を裏切ったあの男が、自分より優れていることなど。

 ただの一般人が、才能だけで自分の上を行くことなど。

 断じてあってはならないことだ。

――――――――――――

 華奢な体に殺到する弾丸がその手前で止まる。まるで壁にぶつかったように。

 違う。

 ずっしりと重い浮遊感が鷺沢の全身を包んだ。それが弾丸を止めたのだと理解した。

 プライド《人》が自然に阻まれた。

「――」

 まただ。

 周囲を覆う結界を、続けて二度も。

 一度目は本に宿っていた怪人の力。それで溜めていた霊力は尽きた筈だ。そして今回は

「――」

 やおら小娘が鷺沢を振り返る。その顔はあどけなさを残した少女のそれではなく

 蝦蛄を象った仮面で覆われていた。

――私はユメの中へ還ってきた――

 不思議なことに彼女の心に恐怖はなかった。沈み掛けた陽の光はカーテンのように帯状に揺れて、ここが先程までと同じ世界ではないことを示している。

「――」

 体にも違和感は感じられない。総身を包む重さと浮遊感。肌に触れる、大気とは異なる感触。

 懐かしい。そう感じるのと同時に彼女の胸に甦る

 何だってできそう

 という子どもの無邪気な全能感

「――だったら何だ!銃が使えない程度で……っ!」

 唸り声。エンジンが吠える。鷺沢は透瑠目掛けて突進する。

 勢いそのままに彼は身を捻る。繰り出されるのは、通常のヒトの身のこなしでは実現し得ない必殺の蹴り。

 刀の一閃を思わせる鋭い一撃が透瑠へ迫り

 振り抜かれた攻撃はしかし虚空を切っただけに留まった。

「――」

 驚愕に声を上げる間もなく、鷺沢の視界を落ちた陰が染める。

 気付けば呼気が掛かりそうなほど近くに、透瑠の顔が迫っていた。

 仮面の奥、静かに輝きを放つ瞳に彼の意識は引き寄せられ――

『未だ至らぬ身にて、御免』

――刹那。その更に奥で口を開けた闇に、呑まれた。

「おっと――ぉぉもっ⁉︎」

 翼もプロペラも失い、電池が切れてように動きを止め、落下を始めた鷺沢の襟首を透瑠は咄嗟に掴む。しかし支えることは叶わず、諸共落下してしまう。

『落としても良かったのではないか』

「それはだめ!」

 しかし反論する間も二人分の体は地面へ迫っていく。

『――』

 風切り音に聴覚を埋め尽くされている筈の中で、透瑠は小さな笑い声を聞いた気がした。

 その瞬間、暗い灰色のアスファルトに妖しい鮮やかな紫の花が咲き、透瑠たちの体を呑み込んだ。

「イソギンチャク……?」

 ぷよぷよとしたゼリーのような感触に、透瑠は一瞬の後に血相を変える。

 イソギンチャクには毒がある。そして彼女たちが居るそここそが口なのだ。

「……!」

 脱出を試み藻掻くが上手くいかない。柔らかな足元と、そして何故か力が入らないために。

『落ち着け。おれだ』

 足元からネモの声が上がり、透瑠は今度は別の理由で慌てる。

「すみません、すぐ……!すぐどきますから……!」

「手を」

 赤面する彼女の前に手が差し出される。九鬼だ。彼は仮面を油断なく被っている。

「あ。はい。――お願いします」

 身を持ち上げようと試み、断念して鷺沢の腕だけを透瑠は九鬼に預けた。

「……」

 面の奥で目が小さく見開かれた。しかし彼はすぐにその手を握り引き上げる。

「わ……⁉︎」

 イソギンチャクが排水口に吸い込まれるように透瑠の真下へ消える。小さな悲鳴と共に彼女は尻もちをついた。その拍子に仮面が剥がれ、地面に手記が落ちる。

「伊富さん。此の度は我々の争いに巻き込んでしまい、申し訳ごさいませんでした」

 鷺沢達の拘束を迅速に済ませた九鬼が、未だ立ち上がれない透瑠の前で深く頭を下げ謝罪した。

「いえそんな!確かにびっくりしたけど、あ、それに、トラウマだって克服出来そうな感じになれましたし――」

 慌てる透瑠は早口で言葉を並べる。

「――それに!ケガだって全然してませんから!」

 そして気丈に、彼女はそう笑って見せるのだった。

『伊富殿、立てるか』

「あ、はい!……あれ?」

 ネモに尋ねられ彼女はすぐさま立ち上がろうと試みる。しかし足はどうにも踏ん張りが利かず、僅かに腰が浮くばかり。

「ちょっと待ってください……」

 誤魔化すように笑って見せるが、結局彼女の足は震えるばかりで立ち上がることは出来なかった。

「……」

『……』

 二人はそうなることを分かっていたかのように、ただ黙っていた。おろおろと焦る透瑠に九鬼が重ねて謝罪する。

「今はあまり実感がないでしょうが、貴女は相当な疲労状態にあります。先刻の変身にもかなり力を使うので」

 そして彼は耳に手を当てた。どうやら通信が入ったらしく、短い言葉を幾つか重ねる。

「伊富さん。申し訳ありませんが、変身の影響を調べる必要があります。一緒に来ていただけますか?」

『九鬼――』

 低いネモの声は威嚇のような鋭さがあった。

「巻き込まれないための検査です。変身すれば否応なしに、同化した相手から影響を受ける。精神を病むこともあります」

「だ大丈夫ですよ、ネモさん。私――」

『あんたが今立てなくなってるのは、腰が抜けてるせいでもあるんだぞ』

 笑顔を作って見せる透瑠にネモはぴしゃりと釘をさす。

『気丈なのは結構だが、あんたが無理をする必要なんてないんだ』

 厳しい口調。しかしそれはなにより透瑠を案じているが故だった。

「……」

 明確に、それを感じ取ったわけではない。しかし透瑠の笑みは言葉を受けて次第に剥がれ落ちていく。

「あ、あの、はい……」

 震える声は泣き出しそうだった。

『信じるぞ。九鬼』

「ええ。約束します」

 手記を拾い上げた九鬼は額にそれを翳す。誓いの言葉もあって儀式めいて見える。

 やがてぱったりと絶えていた道に微かにエンジン音と、夕闇を切り拓くヘッドライトが現れる。九鬼の所属する組織のものだった。

 出てきた彼の仲間の手を借りて、透瑠はようやく立ち上がる。救急車のような造りの後部座席に九鬼と一緒に乗せられた。

「あの――」

 設られた簡易ベッドに寝かされた透瑠はおずおずと声を上げた。

「差し支えなければ、ネモさんを読んでいても良いでしょうか……?」

「ええ、どうぞ」

 九鬼は快諾し手記を渡す。受け取った透瑠はページを静かに捲った。

 当人も知らぬ内に蓄積されていた疲労とストレスが、やがて彼女を眠りへと誘っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る