一章:さかなのゆめ⑨
「――九鬼。それはだめだ。おれに言う資格はないが」
「ぼくもやりたくはありませんが、他に彼女を救う術はありません」
互いに目を合わせず、声を潜めて二人は言葉を交わしていた。
「どの道あいつは、いえ、あの組織は伊富さんを生かしてはおきませんし、あいつを逃せば彼女の周囲の人間も口封じされる」
「正義も大義も随分と偉いらしいな」
「ええ。
最早呆れることさえなくなったのだろう。皮肉の言葉に明確な感情の色はなく、そんな怪人応じる九鬼の声も冷淡だった。
「――今回限りだ。それであの子を巻き込むのはやめてくれ」
怪人がそれを発するまでに掛けた時間はものの数秒。その間にどれほどの葛藤があったのか、声音だけではそれを窺い知ることは難しい。
「約束します。それにあなたのことも」
九鬼にはそれが理解出来たのか、滲む覚悟でどっしりと重い声で、彼は応えた。
「――」
怪人が脱力するように腕と頭をだらりと垂らし直後、総身を水泡が包む。輪郭が溶けて萎んでいく。
水泡も大気へ溶けて消え、粗末な革装丁の手記が一冊、宙空に取り残された。呆けたように浮かんでいたそれは思い出したように落下する。九鬼はそれを危うげなく掴み取った。
彼はそれを掲げて見せる。鷺沢は仮面越しにも分かるほどに笑みを深め、透瑠は呆然とする。
「だめです渡しちゃ!」
「交換だ。先ずその子を解放しろ」
「本一冊と小娘一人、どっちの扱いが大変か分かって言ってんのか?そっちが先に寄越せ」
鷺沢は見せつけるように、ピストルの形に立てた人差し指を、透瑠の首へ突き付ける。
「ならその手をどけろ。それじゃ投げても取れないだろ」
「……」
九鬼を油断なく睨み付けながら、やがて鷺沢は指を離した。
「いくぞ」
見届けて、九鬼は本を強く投げた。狙い通り、本は鷺沢の元へ放物線を描いて飛んでいき
「――」
そして鷺沢の手を抑え透瑠の手が本を掴んだ。
「こ、の――っ!」
『――』
鷺沢の怒りの滲んだ呻き声。同時、透瑠の脳裏に別の声が響いた。
呆れたような笑い声。しかし悪意の類はない。まるで堪えていた笑みが零れたような
『因果なもんだ』
先程も聞いた怪人の声。
「――ぁ」
言葉を返そうとした透瑠の体を縛っていた力が消える。鷺沢が彼女を離したためだ。取り零したのではない。彼は意図を以て放り出した。その意図は、考えるまでもない。
身動きも取れない空中で攻撃の的にされるのを待つばかりの刹那の時間の中で、しかし透瑠は絶望などしてはいなかった。
「――」
総身を包む浮遊感はやはり彼女が幼い頃に慣れ親しんだものとは異なる。
『九鬼からお嬢さんへ伝言だ』
しかし一瞬を何倍にも引き延ばしたような時間は、それを限りなくあの頃の感覚に近付けていた。
『おれを受け入れろ。と』
怪人の声を聞いている間も、透瑠の目は眼下に広がる街を映していた。展望台などから見下ろすのとは、今見えている景色はまるで違う。
この景色は
「私は、子どもの頃は、空を飛べてたんです」
「――ん?」
「街を見下ろしながら泳いで空を渡って、どこまでも行けた」
何とも荒唐無稽の話だ。勿論、本当の話でもない。怪人は嗤わなかった。
「今は、違うのか」
問い掛けに透瑠は一瞬、言葉を詰まらせた。
「そう、ですね……泳げなくなってからはさっぱり」
この景色のことも忘れてました。
『……』
「……」
『――窮屈だよな。人間は』
沈黙を経ること暫し、怪人が再び口火を切る。
『つまらない決まりごと、面子のために自分も他人も縛り付けて、支配して、自分で勝手に息苦しくなっといて、そこから逃れるためにより多くのものを支配しようとして』
うんざりと呆れ返った、というよりも透瑠には怪人のその声は疲れ果てているように感じられた。
『あの頃、この国には人間なんて居なくなってた』
奴隷と猿がいるばかり
「それでシャコに?」
「何でもよかった。ただ、人間ではいたくないとだけ」
当時を生きていただけあって、怪人の言葉には重みがある。遺骸のような重みだ。透瑠が無意識に口にした苦し紛れの冗談など、その重さの前では意味をなさない。
「だから、お嬢さんが空を泳げていたというのは、何となく分かるよ。おれもそうだった。筈だ」
遠く、ただ遠くを見詰めているような声だった。郷愁に駆られて全てを諦めてしまったような
「あなたを受け入れたら」
らしくない声。
「私たち、今度はちゃんと飛べるでしょうか」
九鬼の伝言の意味はなんとなく分かっていた。
覚悟なんて仰々しいものはないけれど、そんなものを他人を傷付ける理由にしたくはないけれど
この人を放っておけない――違う。それこそ大仰だ。もっと単純。あの本を開いたときに湧き上がった親近感。
話をしてみたい。
「お嬢さんが望むなら、或いは」
ふと、彼が小さく笑ったような気がした。
「一つ伝えておきたかった。さっきの話だ」
「さっき?」
どの話を指してか、分からない透瑠は首を傾げる。気恥ずかしさからか、怪人が声をくぐもらせた。
「なんで自分の鞄に入ったのかと」
透瑠はあれかと得心する。それが気恥ずかしさに拍車を掛けたようだった。呼吸を整えるような僅かな間を置いて
「あー、君が面白そうに読んでくれたから」
「……ぁ」
気恥ずかしさが透瑠にも伝染する。
しかしそう嫌な心地ではなく、寧ろ――
「――私は!もう一度飛べる《泳げる》ようになりたいです!」
気恥ずかしさを振り切るように、嬉しさを力に変えて、透瑠は大きく宣言する。
「あなたは?」
「?」
「あなたはどうなりたいですか!」
「……」
怪人は改めて、眼下に街を据えた景色を臨む。先程のような郷愁を湛えた目でではなく、立ち向かうべきものを見定めた、闘志とでも呼ぶべき光を灯した目で。
「自由になりたい」
そして怪人はそう嘯いた。透瑠のように高らかに宣言するのではないけれど、確かに強い意志を籠めて。
「じゃあ、行きましょう」
一緒に。透瑠に徐に手を差し出す。
「……」
怪人はその華奢な手と、自身の無骨な籠手に覆われた黒いそれとを見比べる。
やがて彼は透瑠の差し出した手を両手で包み込む。
その際、彼女は手の甲に体温とは異なる熱を感じた。
「よろしく御頼み申し上げる」
恭しく怪人は頭を下げた。当時と今との文化の違いか、その態度に透瑠はまた改めて呆気に取られる。
「そうだ。名前、まだ教えてもらってない」
先程帆高は返信する際、名前のようなものを呼んでいた。そうでなくとも、これから友だちになるのだ。知らないのは不便だ。
「さあな。覚えてない」
「……」
まだ会っていくらも経っていない。交わした言葉もそう多くない。けれど透瑠には彼の言葉に嘘を感じられなかった。
「好きに呼んでくれて構わないさ」
そう声だけで小さく笑う怪人が、透瑠には小さく弱く感じられた。彼女の手は彼の両手に包まれている筈なのに、にも拘らず、遠く――
「じゃあ、ネモ、なんて……」
もっと気の利いた名前を考え付かなかったものか、透瑠は口に出しつつも、情けない気持ちになる。
「大層な名前だな」
そしてどうやら、彼は『海底二万里』を知っているらしい。
「責任重大だな」
ふと笑みを溢したように感じられた。
「――では改めて、よろしく御頼み申し上げる。伊富透瑠殿」
そして怪人――ネモは慇懃に礼をした。ぐっと距離が近付いたように感じられる一方で、未だどこかへ行ってしまいそうな遠さも残したまま。
透瑠はそんなネモの手を強く握り返す。
「こてらこそ、よろしくお願いします。ネモさん」
しかるべくして訪れる別れならばいざ知らず、彼が一人犠牲になろうとしているつもりなら、それは看過出来ない。
友だちだから。
「――先ずは、あんちくしょうから自由を勝ち取りましょう!」
透瑠はネモに、何より自身に、鼓舞する強い言葉を嘯く。「戦う」ことについて、喧嘩すらろくにしたことのない彼女には想像もつかないけれど、きっと簡単な道ではない筈だから。
「ああ。合図はお任せする」
不意に透瑠の体を再び風が攫う。随分と話をしていたものだから、彼女は自身が落下中であったことさえ半ば忘れ掛けていた。そこにネモの姿はなく、手中にはあの革製の手記だけがある。
「……」
眼下には街と背の低い山々。
想像に過ぎなかったものは今、現実としてある。
「……」
頁を開く。偶然か必然か、そこには見慣れた水棲生物の姿が。
顔は翳す。キスをしようとしているような気恥ずかしさがある。それでも徐に。紙と
「渡ろう。『ネモ』」
言葉は自然と溢れ出た。同時、顔に触れていた紙の感触は消え、肌を水が包んだ。
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