一章:さかなのゆめ⑦

 透瑠は咄嗟に口を押さえる。トラウマさえなりを潜める、突然の出来事だった。

「落ち着いて。さっきまでの水と同じです」

 九鬼のつとめて穏やかな声。見れば彼の口からは泡など出ておらず、当然のように呼吸をしているようだった。

「気をしっかり持っていれば、少なくとも呼吸の心配はないですから」

「……」

 おそるおそる透瑠は口から手を離す。ここでは呼吸は出来る。そう自身に言い聞かせながら。すると九鬼の言葉通り、息はなんの支障もなく出来た。

「くだらねぇマネを……!」

 帆高の激昂した荒い声。呼吸に関してはあちらも影響を受けていない様子だった。

「鷺沢!あいつは――」

 では怪人は何故――

「――ぐぁぁぁぁぁっ!?」

 絞り出されたような断末魔が海中を這うように響く。弾かれるように、糸で引っ張られるように、声のした方へ顔が向く。

「――っ!?」

 鷺沢が三人の頭上高くで、捕食されていた。

 そうとしか見えない光景がそこにはあった。

「な、んだあれ……!」

「アノマロカリス……――じゃあ!」

 ヒトの体長より遥かに巨大な躯。牙のような触手が鷺沢を絡め取っていた。

 帆高が見失った怪人はどこへ行ったのか。

 透瑠は知っている。彼の手記に怪物めいたその姿が描かれているのを。

「く、そが――!」

 帆高が巨躯へ突進する。猛烈な速さで迫る彼の前でアノマロカリスはまた消える。――そう思わせるほどの速さで遊泳する。

 次の瞬間には帆高は下を取られていた。背泳ぎの体勢で広げられた触手と顎は悪夢そのもの。それが間近にまで迫ってようやく、帆高は気付く。

「――――」

 砲塔をすかさず向ける。捕らわれた鷺沢と視線が、刹那交錯し砲撃が躊躇われた。

 生じる致命的な一瞬の隙。触手は断頭台の如く無慈悲に振るわれ。帆高の胴に絡み付いた。

「……っ!」

 苦悶の声さえ上がらず、裂けそうなほどに開かれる口。仮面が剥がれ落ち、露わになった帆高の顔はみるみる変色していく。鷺沢も同様に仮面が失われ、翼もプロペラも消えてしまっていた。

 手を貸すどころか、怪人は独力で刺客二人を制圧してしまった。

「す、ごい……!」

 素直な気持ちが透瑠の口から零れ出る。一方の九鬼は人知れず威容をじっと見据えていた。

 視線を浴びながらアノマロカリスはぐるりと身を翻す。路面まで降りてくると巨躯は溶けるように萎み、蝦蛄頭の怪人の姿へ戻った。両手は動かなくなった二人の襟首をそれぞれ掴んでいる。

「他にはいそうか?」

 こともなげに怪人は九鬼に問う。意図してか知らずか、彼の返答には状況を確かめるのとはまた異なる、妙な間があった。

「いえ、この二人だけのようです」

「そうか」

 ふと体が軽くなったのを透瑠は感じる。同時に浮遊感も失われ、何が起こったのか理解するよりも先に、名残惜しさが彼女の胸に虚来した。

 海がなくなっていた。本来の水とは異なるためだろう、服も髪も濡れていない。

 はじめから何もなかったかのように。

「処理は任せる――ではな」

 鷺沢たちを雑に寝かせた怪人は踵を返す素振りを見せる。その背に九鬼が追い縋った。

「彼らの言っていたことは事実です。僕は――」

「――おれはあんたを信じると言った」

 くきが言葉を詰まらせたほんの一瞬の隙間に怪人はそう告げる。

「浅く過去を掘り返した程度で揺らぐものを信頼とは言わない。とおれは思うね」

「――――」

 九鬼は返す言葉に困窮してしまう。罵倒を予期していたのか。或いは期待していたのか。怪人が向けたその言葉は、責める言葉よりも強く彼を苛む。

「今のあんたはそいつらとは違うのだろう?ならそれだけた」

 九鬼達を振り返ることなく、怪人はそう言い残し歩き出す。その歩調よりもずっと早く、背中から気配が薄れ、遠退いていく。

「一緒にきていただけませんか!?」

 再び九鬼が追い縋った。怪人はやはり振り返らない。

「どこへなりとも行くさ。あそこに居られなくなるのは少しばかり残念ではあるが」

「またすぐに追って来ます。先程あなたが派手に力を使われた以上は。多くの人間があなたに気付いたでしょう」

 透瑠には見えない九鬼の顔は、貧血でも起こしたように青褪めている。先の言葉を振り切って声を上げるのに、果たしてどれだけの力を要したか。それを知る者は彼以外には居ない。

「それこそ、どこへなりともだ。直接ことを構えたことも初めてじゃない」

「では今、もう一度同じことが出来ますか?」

「……」

 問い質す無機的な九鬼の声に怪人は沈黙する。透瑠にも分かってしまう。それは『否』の返答に他ならない。

「それに、また襲われて、また彼女のように誰かを巻き込むつもりですか?彼女は水にトラウマを抱えているようでした。今回は大丈夫でしたが、命を落としていたかもしれないんですよ?」

 九鬼の声は決して荒くはない。叱責というようなものはない。しかし怪人からは口を噤み耐えているような気配が漏れ出ている。巻き添えにしてしまった自覚も、悔恨もあるようだった。

「あの、でも、こうして大丈夫だったので……」

 なんともいたたまれない心地から、透瑠は擁護の声を上げるも

「大丈夫なわけないでしょう。精神疾患を甘く考え過ぎです」

「その通りだお嬢さん。気の病は下手な傷よりも恐ろしい」

 怪人が、ばつが悪そうに透瑠へ体ごと振り返る。彼は腰から深く頭を下げた。

「申し訳ないことをした」

「い、いえ、そんな……!大丈夫でしたし、それに少し、以前よりマシになった気もしますし……」

 怪人は頭を上げない。慰めの言葉はきっと、彼には追い討ちをかけるだけだろう。そう思った透瑠は

「なんで、私の鞄に入ってたんですか?」

 話題を逸らす目的も含めて、疑問に思っていたことを尋ねた。

 怪人は僅かに頭を上げる。

「見つかった以上、あそこを離れる必要も出てくるだろうと思った。お嬢さんはまだ学生だと聞いていたから、付いていけば隠れるのにいい場所にも行けるだろうと思った」

 まるで取り調べのようだった。心なしか暗い声音で彼は訥々と語り、そこでぷつりりと言葉が切れた。

「それと――」

――――――――!

 顔が少し持ち上げられる。何か言おうとしていようだった。しかし声をけたたましい羽音が掻き消した。

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