一章:さかなのゆめ⑥

――――!

 虫の羽ばたきを何倍にもしたような、けたたましい音が透瑠の耳を劈き、視界の端に水飛沫が舞う。水面が激しく揺れた。

「――⁉」

 驚きのあまり声も出ない透瑠。開かれたままの目は頭上を凄まじい速さで駆け抜けていった、何かが落とした影をはっきりと捉えていた。

 遅れてやってきた強風に、ついに彼女は倒れてしまう。

 慌てて立ち上がった彼女が見たものは、宙に浮かぶ人だった。

「飛行機……?」

 背中から生える直線で形作られた無機的な翼に、胸の前でけたたましい音を立てながら回転するプロペラ。ぼんやりと透き通って見えるそれらを目にした透瑠は堪らず呻いた。

「急いで飛んできて正解だったな!相変わらず仕事が遅ぇ!」

 エンジン音にも負けないけたけたと喧しい声で男は哄笑する。その顔は鳥のような面で覆われていた。

鷺沢さぎさわ、お前もうるさいんだよ。相変わらず……!」

 九鬼が忌々し気に唸る。けたけたと笑い挑発的に宙返りをしてみせる鷺沢。

「人道、人権なんてご大層に掲げてっから追い越されんだ!」

 そして彼は暴言と共に何かを九鬼に、その後ろに守られる透瑠に向けて蹴り飛ばす。

 猛烈な勢いで飛来するおたまじゃくしのようなそれは、爆弾のようにしか見えなかった。

「ちょ、あれ――」

「――相変わらずだな」

 狼狽する透瑠に対し九鬼は至極冷静だった。まるで何度も同じことを繰り返してきたかのように。

「――」

 九鬼は刀を構える。しかし太刀は鞘に収まったまま。

 ゆったりとした動きで突きが繰り出される。弾頭の腹が湾曲した鞘にトンボが止まるように乗った――

――瞬間に斬り上げ。弾頭は急に軌道を変え二人の背後、山肌へ突進しそこで炸裂した。

 炸裂音は思いの外小さく、衝撃もなければ降り注ぐ瓦礫もない。ただ水面を濛々と煙が這うだけ。

「――っ!」

 九鬼の頭に鷺沢の真意が急浮上する。そうだ。今この場で九鬼を倒すことに大した必要性も利得もない。

 今この場に於いて最大の利得とは

「――」

 名を叫び警告することも出来ず、九鬼はただ怪人へ視線を向けるしかない。背後の透瑠の守護を任されたこともある。

 案の定彼の目が向くのと同時、水柱と共に人影が舞った。

 やはり下手人は鷺沢の他にも居たのだ。

「――帆高ほだか⁉」

 しかし驚愕に声を上げたのは鷺沢だった。

 重い音を立てて落ちたものがすぐさま顔を上げる。頭はもとより服装も、怪人のものとはまったく異なっていた。

「九鬼」

 重く冷たい声。

「これがあんたが回収のためにわざわざ来た理由か?」

 彼を責める意思こそ感じられないが、その声音から怪人が苛立っていることは誰にとっても明白だった。

「再び戦災を引き起こそうとしている、先の大戦の亡霊です」

 苦々しく呻く九鬼。血を吐くような彼の言葉にいち早く反応したのは鷺沢だった。

「おいおい寂しいこと言うんじゃねぇよ。元エース様!」

「え――」

「……っ」

 面の下の顔が僅かに険しくなる。挑発的に旋回する鷺沢に対し九鬼は動かない。透瑠はそんな彼の様子を窺い、次いで怪人へ視線を向けた。

「くそ、無名だって話じゃなかったか⁉」

 帆高は苛立った様子で声を荒げ、乱暴に顔を拭う。

「――『天龍』抜錨!」

 そして取り出した本を、彼は叩き付けるように顔へ翳した。

 遠く汽笛のような低い音が轟き、噴き上がる白波が帆高の大柄な体を覆う。

「次はねぇぞ!」

 渦巻く波を切り裂いて現れた帆高は、鷺沢と同じくぼんやりと透き通った西洋甲冑と、魚のような仮面を纏った姿をしていた。そして彼は当然のように水面に立つ。

「天龍、懐かしい名前だ」

 呟く怪人の感情は窺い知れない。

 帆高が動く。水面を切り裂いて、重厚な巨体は驚くべき速さで怪人に迫る。

「九鬼、そっちの手は足りてるか?」

「――少し厄介です」

「お前の相手は俺だろうが!」

「そうか――」

 肉迫する帆高。構えを取るその両腕には砲塔が生えている。

「――」

 目の前で繰り広げられる現実味のまるでない光景。九鬼と怪人にとっての弱点となってしまっていることを、透瑠もいやでも理解していた。何かしなければ。でも何を。焦燥が体の中で膨れ上がってどうにかなってしまいそうだった。

――――――――――

 不意に、そんな彼女を浮遊感が包み込む。体が覚えている重さを伴うそれは

『――――』

 彼女を含む四人は目を剥く。山を拓いた道路がその瞬間に海に沈んでいた。

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