一章:さかなのゆめ⑤
「お国のために――何だって?」
視線と刀を向けられる中で、怪人は佇み忌々し気に言葉を投げる。
見れば見るほど異様な姿だった。黒く透き通ったヒトの四肢を籠手と袴で覆い、肋骨がある筈の場所から腰を曲げたシャコが生えている。しかし悍ましいというよりは、世にも奇妙な果実を食べた能力者のような愛嬌さえ感じる。――当人の心中などお構いなしに
「……」
器用に片手で刀を納め、九鬼は仮面を外す。
「非礼を謝罪します。どうか話を聞いていただけませんか」
「説得か?そんなことをせずとも、力づくで従わせればいいだろう」
これまでと同じように。怪人の声には静かな怒りが滲んでいる。しかし
「――あの!」
透瑠は不意に声を上げる。
「助けてくれてありがとうございました……!」
怒りに任せて九鬼を、自分を殺さなかったのはなぜか。彼にはその権利だってある筈だ。透瑠は呼吸さえ儘ならなくなった中で掛けられた声に思う。
それでもこの人は優しいのだと。
それを九鬼に伝えておきたかった。
意味なんてないのかもしれない。それでも
「な、名前、聞いてもいいですかっ⁉」
あの本には書かれていなかったから。透瑠は水中で息継ぎをする心地で言葉を続ける。表情は窺い知れないが、特に怪人から向けられる視線はじりじりといたい。
「知らん。忘れた」
あっさりと、さもどうでもいいことのように怪人は言った。
「――」
なんと続ければいいのか、分からなくなった透瑠は口を開けたまま、それ以上何も出来なくなってしまう。
「伊富さんありがとう」
九鬼に意思は伝わっただろうか。しかしその感謝の言葉は、今は傷口に塗る塩となる。
「疑念は尤もだと思います。ですがご理解いただきたい。我々の目的は貴方たちの解放することなのです」
「なら
間髪を入れず、怪人は先程の九鬼の姿を指摘する。彼は徐に一冊の本を掲げた。それは怪人の手記とはまた装丁の異なる、所謂古文書のようだった。ただ古ぼけてはおらず、ごく最近綴じられたように真新しく思える。
「九鬼水軍というものをご存知ですか?」
「――」
その名前には透瑠にも聞き覚えがあった。
「織田のところのか」
九鬼が首肯する。九鬼水軍とは織田信長に仕えた海賊として知られる一派だ。
「僕は九鬼家の末裔で、これは水軍の分御霊です」
そして彼は本を開き、熟読するように顔へ翳す。
すると頁から絵に描いた水が溢れ、九鬼を包んだ。
「これは彼等から借り受けた力です」
水が消え、再び露わになった九鬼の姿は先程と同様に、鬼の面と鎧で覆われていた。
「理解と協力を得たからこそ、使える力です」
彼は面を取る。その手の中で面は本の形へ戻った。
「助力を請う場面があることは否定しません。ですが無理強いは出来ませんし致しません。――先人の罪を雪がせてはいただけませんか?」
水面すれすれまで九鬼は頭を下げた。気付けば水位の増加は止まっている。怪人の気配もまた、攻撃的だったものが幾分和らいで透瑠には感じられた。
松明のように燃える複眼はしかし無機的で、九鬼を見詰めること暫し。
「成程。あんたは信用できそうだ」
「――っ!」
「だがあんたの上の奴は信用出来ない」
暗い声に九鬼が弾かれるように顔を上げる。
「組織とやらの掲げる理念は、それは正しいのだろう。だが組織を形作る人間が正しく在ろうとしているとは限らない」
その目を真っ直ぐに見詰め、怪人は語る。
「特に権力というやつに溺れたものは、上辺の正しさと保身のためにあらゆる非道、外法に手を染める」
反論しかけた九鬼は、しかし言葉を紡げなかった。彼の前に立つ怪人は、権力に溺れた人間に殺され、そして死ぬことさえ出来なくなったのだ。経験した苦痛の格が違う。生半可な言葉は届かない。
「そこのお嬢さんを守ろうとおれに斬り掛かってきたあんたは信じられる。それだけだ」
そして怪人はどこかばつが悪そうに九鬼から顔を背ける。
「あの場所から動く気はない。必要ならあんたになら協力する」
しかし彼にとってはそれが最大限の譲歩なのだ。透瑠から見た九鬼は、やはり掛ける言葉に悩んでいる様子だった。
そして彼女は、怪人の気配が薄れ遠退いているようにも感じられた。本へ戻ろうとしているのだろうか。何かしなければ、何か言葉を掛けなければ。そんな焦燥に駆られるも、彼女にはどうすればいいのか分からない。
そのときだった。九鬼の肩が不自然に一瞬震える。
「応答を。どうした――⁉」
通信から不穏な気配を感じ取った彼が、その答えに辿り着くまでに掛けた時間はほんの数瞬。声を上げようと顔を上げた刹那
「九鬼、その子を守れ!」
怪人が鋭い一声を放った。その顔は透瑠たちの方を向いていない。
視線を誘導され透瑠は空を見上げる。何かを捉える前に彼女の視界は武装した茎の背中で埋め尽くされた。
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