一章:さかなのゆめ④
体は反射的に逃げようと動く。結果、透瑠は刻一刻とかさを増していく水へ沈んだ。今の彼女にとってはトラウマよりも怪人の方が危機として勝って感じられた。
奇妙にゆっくりと感じられる時間の中、彼女の目は肉迫する怪人の姿をいやに細かく分析する。
鬼の貌は面のようだった。そして鎧のようなものに体を一部覆われているが、その服装はあの男のものに似ている。尤もあまり特徴もない服装ではあったが。
そして透瑠は、幾年ぶりに風呂以外で全身を水に浸す。透明度の高い水の中からも、水上の様子はよく見えた。
「――っ⁉」
透瑠は口に含んだ空気を危うく吐き出しそうになった。
彼女が立っていたすぐ目の前、男との間に何かがいる。
誰かと表現しなかったのは、その輪郭があまりに人間離れしていたから。
――エビ――違う。あれは……シャコ?
飼育員として何度も接してきた独特のシルエットに色。それとヒトとを混ぜたような怪人が、透瑠を庇うような恰好で立っていた。
――声、あの人が掛けてくれてたの?
真実は定かではないが、透瑠はその姿を奇妙だとは思えど恐ろしいとは思えなかった。
刀の一閃を怪人は身を捻って躱す。透瑠のすぐ目の前に鬼となった男の足が突き刺さった。かと思えば次の瞬間、彼女の体を強い浮力が包む。
「大丈夫ですか⁉強引ですまない」
水の感触から解放された透瑠は、男に片腕で抱き上げられていた。鬼の面で覆われた顔を彼女の方には向けず、彼は視線を刀と共に怪人へ向けている。
「――」
先程までは見えていなかった異様がそこにある。紛うことなく蝦蛄だった。
現実味に欠ける光景だが、どうやら現実らしい。
そしてやはり、透瑠はそこに恐れを抱けなかった。
「あれって……」
「君が持ってた本を、書いた人だよ」
人という表現には、それを発した男も違和感を覚えているようだった。
「というか、あなたも……」
「……」
面越しにも男が渋面を作ったのは分かった。
「あの人は、先の大戦で徴兵された兵士だ」
やがて観念したように男はそう囁いた。
「当時の政治家と軍部はね、人や物資の格差を補うために外法を使ったんだ」
死んでも魂をこの世に繋ぎ留められるように。その魂を操れるように。
「……?」
「君も知ってるだろう?人間魚雷とかさ。その延長線があの本だよ」
有名な話だ。道徳も倫理も容易く踏み越えた、非道の数々。現代を生きる透瑠には到底理解出来ないものだった。
「『お国のために』奴らは死者を穢すことも進んでやった」
「……」
胸の中で何かが煮えているようだった。透瑠は気分の悪さに眉を顰める。
「でも実際に彼らが使われることがなかった」
反対派に阻まれたのと、使う前に敗けたのとで
「そして本という形で綴じ込められた兵士達が、この世に取り残された」
終戦から約八十年。途方もない歳月に透瑠は実感すら持てない。ただひどい話だとしか思えない。
「僕は
申し遅れました。九鬼は透瑠を一瞥もしないままに、今更ながらの自己紹介をした。
「力づくでですか」
透瑠の硬い声はどこか責めているような響きが籠っていた。
「襲われていたように見えたので、仕方なく」
馴れているのか、九鬼は平静を保っている。あの容貌ならば無理も無いことだろうが。
「それに大抵の兵士は怒りで話が出来る状態にないからな」
自尊人のためだけに死後も弄ばれ、八十年もの時間放置されていたのだ。穏便に済む方が成程異常だろう。しかし、九鬼は呟く。
「あんな姿は初めて見る」
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